忘れかけた希望

 翌週の月曜日、今日も外は気持ちのよい気候で、頭上からぽかぽかと降り注ぐ太陽の光が春の訪れを感じさせる。満開を迎えた桜が咲き誇る並木道では、ベビーカーを押した主婦や散歩中の老人が行き交い、時々立ち止まっては眩しそうに桜を見上げている。

 だが、そんな彼らの姿を尻目に、直樹はやはり浮かない顔をして歩いていた。人々の間に様々な感情を呼び起こすこの光景も、直樹にとってはもはやただの通り道にしか過ぎなかった。桜を見て季節の移ろいを感じる余裕があったのは学生の時だけだ。社会人にもなれば日々はベルトコンベアのように流れていく。始まりも終わりもない。ただ今日と同じような明日を繰り返していくだけだ。

 風が吹き、揺れる木々の間から無数の花びらが零れ落ちる。風に乗っていつまでも空中を舞うその姿は、地面に落ちて踏み潰されるまでの時間をわずかでも稼ごうとしているように見える。まるで今の自分みたいだ。

 桜なんて本当にあっけないものだ。満開になったと思ったらすぐに散ってしまう。でも今の自分よりはマシかもしれない。少なくとも桜は開花している。開花する見込みもない自分とは違う。

 その時、前方から賑やかな話し声が聞こえてきて直樹は顔を上げた。真っ黒なリクルートスーツに身を包んだ女の子2人が、何やら熱心に話しながら歩いてくる。

「今日からいよいよ現場だね! あー緊張する!教えてくれるの優しい人だといいけど」

「電話ちゃんと取れるかな? あたし人の名前聞き取るの苦手なんだよねー」

 会話から察するに新入社員なのだろう。入社式とオリエンテーションを終え、いよいよ配属先での仕事が始まると言ったところか。その顔は不安げではあるが同時に期待も浮かんでいる。これからどんな社会人生活が待っているのだろうと、まだ見ぬ世界にワクワクしているように見える。

 直樹は何とはなしに立ち止まった。すれ違い様、二人はちらりと直樹の方を見たが、すぐに自分達のお喋りに戻ってしまった。かしましい声が遠ざかっていくのを耳の端で捉えながら、直樹は2年前のことを思い出していた。

 入社した当初は、自分もあの2人のように希望を抱いていたような気がする。様々な研修を受け、社会人とは何たるものかを叩き込まれ、自分がこれまでとは違うステージに立ったことを自覚し、全く新しい人間になったかのような錯覚を抱いたものだ。でもその幻想は現場に入った途端に崩れ去って、結局自分はどこまで行っても自分でしかないのだと、そんな劣等感に打ちのめされた。

 さっきの2人組に自分はどう映ったのだろう。自分達より少し早く社会人になった男。年齢もそう変わらないはずなのにすっかりくたびれた顔をして、真っ昼間から陰鬱な顔をして歩いている。自分達も数年後にはこんな風になるのかと思って失望しただろうか。

 直樹はしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがてため息をつくと、重い足を引き摺るようにして桜並木の道を歩いていった。


 それから何軒か家を訪問したもののいつものように成果は上がらず、直樹はますます重くなった足を引き摺って会社へと向かっていた。今日もまた契約が取れなかった。上司にどんな小言を言われるだろう。考えるだけで気が重くなり、直樹は心に鉛が落ちていくような感覚を抱いていた。

 その時、ポケットに入れていたスマートフォンが鳴り、直樹は取り出して画面を見た。新着のLINEが1件。彰からだ。


『山内、今日飲みに行かないか?』


 直樹は物珍しそうにその文面を見つめた。残業した帰りにエレベーターで鉢合わせして、そのまま流れで飲みに行くことは時折あるが、わざわざ誘ってくるのは珍しい。直樹は少し考えてから返信をした。


『いいよ。今日は定時退社だな』


 送信ボタンを押すとすぐに既読がつく。それにしてもどういう風の吹き回しなのだろう。単に仕事や会社への愚痴を垂れ流したいだけかもしれないが、何か悩んでいることでもあるのだろうか。

 直樹はしばらく考えていたが、やがて諦めたように首を振った。まぁいい、どうせ夕方になればわかることだ。それよりも問題は、いかにして上司の小言をかわし、非難がましい視線を避けながら定時退社するかだ。

 直樹は悶々とした思いを抱えながら会社へと向かった

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