桜は散らずして
瑞樹(小原瑞樹)
麗らかな日に
人気の少ない住宅街を、一陣の風が通り過ぎていく。
風は家の軒先にある木々を揺らし、枝から桃色の花弁が舞い落ちる。
それは見事な桜吹雪だったが、平日の昼下がりのこの時間には、その光景を目にする者はほとんどいない。この時間帯に住宅街を歩いているのは、子連れで公園に向かう主婦か、犬の散歩に出かけた老人か、そんなところだろう。
だが今は、そんな閑静な通りを、スーツ姿の青年が1人歩いてくる。うららかな陽気にもかかわらずその表情は沈んでいて、何やら心配事があることを窺わせる。
彼の名は
だが今、直樹の心を支配しているのは暗鬱な気持ちだった。直樹は新規の契約を結ぶために住宅街を回っていたのだが、1件も契約が取れなかったのだ。門前払いを食らわされた家、玄関先で話をした家、家に上げてもらって茶菓子を振る舞われた家。対応は様々だったが、いずれも契約に至らなかったという事実に変わりはない。
直樹の営業はいつもこうだ。家に上げてもらうまでは出来ても契約に結びつかない。主婦や一人暮らしの老人の体のいい話相手になっているだけだ。この状態で帰社したところで、上司にはねちねちと文句を言われ、同僚には冷ややかな視線を浴びせかけられるだけだろう。そんなことを考えると、直樹はだんだん会社に戻るのが嫌になってきた。
正直なところ、直樹は自分に営業は向いていないと思っている。欲しくもない物を売りつけることには罪悪感があるし、セールストークだって上手くない。たまたま就職活動でこの会社に内定をもらって、営業の仕事をあてがわれたからやっているだけで、他に向いている仕事があるのではないかと思う。学生時代には公務員を目指していたけれどあえなく試験に落ち、浪人はせずに企業に就職する道を選んだ。
もし、あの時公務員になっていたら、もっと自分の仕事に情熱を持って、毎日を生き生きと過ごせていたのだろうかと思う。叶わなかった未来を夢想するたび、不甲斐ない現実とのギャップに心が砕かれそうになる。
直樹の暗い胸の内とは裏腹に、桜の花弁は優雅に眼前を舞い続ける。そんな光景も直樹の目には虚しいものにしか映らず、直樹は今日何度目になるかわからないため息をついた。
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