ミラー・ミラー

青野伶

ミラー・ミラー

 月が上り僕にささやく。足元の影はほんとうに僕のものなのか。僕はビジネスバッグを片手に家までの道を歩いていく。つまらない人生だ、形式張ったスーツに身を包み汗を流し、頭を下げ金を稼ぐ。たまの気晴らしは山登ること。山の中にいる間だけ、人の目を気にしなくてよかった。人からどう見えるかを考えて生きる不自由さは僕を蝕んだ。それは生まれつきの鏡をよく見る癖のせいかもしれない。けれども、鏡はいつも答えをくれる存在だった。手放すなんて有り得なかった、だから僕は鏡と共にこれまでの人生を歩んできた。自分がどう見えているか、どこが間違っているか、どんな振る舞いをすればいいか見るだけで教えてくれた。僕のポケット中にはちいさな鏡がいつも入っている。帰宅すると玄関に転がっている登山シューズの底には、泥が固まっていた。時計に目をやると針は0時30分を指していた。

 目覚ましの規則的な音が僕の意識を覚醒させる。朝起きたら必ず顔を洗い、鏡を確認することを欠かさない。僕の毎日は必ずここから始まる。何故か今日は正面の鏡にぼんやりとした自分しか写らなかった。いつもはだらしない寝癖や髭の剃り残しや抜けたまつ毛が顔についていることをはっきりと教えてくれたのに。今日は彼女の梨奈とデートに行く日だと言うのに。梨奈はよく、僕に言う。「あなたっていつも自分のことを外側しか見ていない。」外側以外の何が僕を表すか、僕には分からなかった。内側から生まれたものは必ずかたどって僕の外見に現れているに違いない。だから、僕はいつも身だしなみに気を使う。今日だって、テーラードジャケットを着ている僕は誰が見ても清潔感ある悪くない男だと言えるだろう。仕事の時だって、大事な商談の前はポケットの鏡で身だしなみを整える。襟を正して、ネクタイピンの位置があるべき場所にあることを確認する。梨奈と喧嘩した時、仕事で大きなミスをした時、お風呂場の鏡に写った自分に何が間違っていたかを問う。僕と鏡はいつも向かい合って生きてきた。出かける前に姿見を確認する、けれどそこに写ったのは先程と同じようにぼやけた自分の姿だった。そこで僕は気づいた。全て月のせいだ。月の囁きをきっかけに鏡は何も写さなくなってしまった。もう一度鏡に目線を移しても僕の目に鏡越しに写るのは精巧にできたイミテーションだけだった。何かの間違いだと信じ込みたかった僕は何度も鏡を覗き込んだ。ようやく正しい自分が見えたと思った時、鏡に写っていたのは輪郭のぼけた泥人形だった。

 急いで梨菜に電話をかけた。

「ごめん、今日のデートには行けない。」

「なんで、今日は2人の大切な日だから絶対空けといてって言ったでしょ。」

「違う、別に用事が出来たわけじゃない。鏡に、写らない。」

「何が写らないのよ、なんで今日来られないなんていうの」

「だから、自分の姿が写らないんだよ、このままじゃ外には出られない。」

鏡への憤りと自分の情けさに押されて声を荒らげてしまった。

「もう、あんたなんて知らない。私たちもう終わりよ、私なんて一度も写ったことがない瞳を見続けるのはもう嫌なの。」

僕は家中の鏡を叩き割った。僕から伸びる影が二つに分かれた気がした。

 次の日、朝5時55分、電車を待っているのは僕と釣竿を背負いクーラーBOXを引いている老人だけだ。電車の中央に座り規則正しく並んだ吊革が揺れる様子を眺めた。老人が降りた後、切符を出そうとした時10円玉を落としていたことに気がついてそれを手にとった。会社まで向かう途中パンツを履き忘れたような不安に襲われた。

「めずらしいねぇ寝癖がついているなんて」

同僚から声をかけられた。無意識のうちに唇を噛んでいた。オフィスの中にいるのが苦痛になり、パソコンの電源を切って休憩に向かう。壁紙のベルサイユ宮殿の写真を写していた画面が暗くなると醜く歪んだ自分の顔が浮かび上がった。会社の屋上に目印のように置かれたベンチの上で、コーヒーを飲む。一時間後には、大事な取引先との定期報告会がある。僕はニコチン中毒者がライターを弄ぶように手の中でちいさな鏡を回しながら時間をつぶした。報告会中取引先の課長は僕のネクタイピンを凝視していた。会社からの帰り道月は僕を嘲笑っていた。二つになった影が僕を呑み込んだ。

 会社からの帰り道の途中そのまま家につくのが嫌で小さな公園に寄ることにした。昼間に降った小雨で湿ったベンチの上に腰を掛けて、月に向かって語り掛けた。人間ではなく鏡と向き合ってきた僕には、正しいものが何も見えていなかったかも知れない。君のおかげで、鏡面は写し出されるこちらの世界の景色を正確に模写していたわけではなかったということに気づいたよ。でも、僕はいったい何を基準に生きていけばいいのだろうか。月は何の返事もくれなかった。縋るような気持ちでポケットの中のちいさな鏡を出した。ふと思い出してみて10円玉を鏡にかざしてみた。10円玉を外すとそこには2つの月が左右対称に浮かんでいた。僕は初めて鏡の中に僕を見つけた。月はずっと2つあったのに僕は知らないふりをしていた。僕は世の中の大半の人間も見ないふりをしていることを確信した。だって、月が秘湯の世界で生きる方がずっと楽だったと思ったから。でもこの世界に来なければ決して認識できない世界があることを僕は知った。梨奈にもう一度電話をかけてみようと思って携帯電話を取り出した。月は僕に向かって意味ありげに笑って見せた。

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ミラー・ミラー 青野伶 @tachipar

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