緑沼

 手を冷たくしながら、昼食に食べたカレーの皿を洗っているとふと思い出した。

思い出したのは家のすぐ近くにある公園の中の水地、緑沼ミドリヌマと呼ばれるところ。公園の木々が陽の光を遮るため薄暗く、不気味な場所である。雰囲気が悪いのだが、大学までのショートカットであるので偶に活用したりする。


水道を止めて皿を水切りに置いてシンクの扉にかけられたタオルで手を拭く。そこそこに拭いたところで、ワンルームの中央に鎮座する一人用こたつに足を滑り込ます。


外はすこぶる静かで、年末らしいといえば年末らしい。テレビをつける気にもなれず、こたつで横になる。ピタンピタンと水道から水がしたたりおちる。まるで雨の振り始めのようだった。未だにカーテンを買っていない窓の外には曇った空とカレー作りで汚れたTシャツ、それと季節外れにも隣の部屋から侵食してきた緑の蔓が揺れる。全く何を育ててるのやら。


 ボケーっとした頭で緑沼について思案する。そもそも緑沼は沼とは呼ばれているものの実際は沼なんだか人工池なんだかわからないよくわからないところだ。夏には水面には睡蓮とおぼしき葉が浮かび、それ以外の所はびっしりと藻が覆い隠す。冬には水が薄気味悪く緑色に濁るため、何度そばを通っても水面より下が一切見えたことがない。釣り人もとんと見ないし、鳥すら居るのを見たことがない。そもそも魚や水生生物も生息しているのだろうか?気になるなら調べるすべもあるだろうが、そこまで興味もない。

だが前に沼の中に何か投げ込んで回収している白衣の人間を見かけたことがある。急いでいたのであまりよく見なかったがあれだけ汚れていれば水質調査として面白いのかもしれない。


 年末年始特有の持て余した時間をさらに持て余し、些末な思考で無駄遣いしていると外からザーっと音が聞こえる。どうやら雨が降ってきたようだ。窓の外ではどうにかカレーシミが取れ、乾き始めた白いTシャツがまた濡れて行くのが見え、ボケーっとしていた頭が少し回り始める。急いでこたつから飛び出してベランダのTシャツを回収する。部屋干しにするために取ったハンガーをそのままカーテンのレールにかける。カーテンが無いときの利点の一つだ。

ベランダの引き戸を締めたときにたまたま外を見ると欄干越しの通りを誰か歩いている。少し遠く、辛うじて人影が見えるが顔などは見えない。大人ぐらいの背丈でフラフラと左右に揺れるように歩いていく。だいぶ太っているようだ。雨が降っているのに急ぐでもなく傘もささない。目を凝らしていると段々とはっきり見えてきた。

白い服、ワイシャツだろうか?それに薄茶色のズボンを履いている。その人物がフラフラと、よたよたと公園の方に歩いていく。足を引きずっているわけではないのに変によたよた歩くものだから観察していると、立ち止まり空を見上げてまた歩きだすということを繰り返している。よく見ればワイシャツだと思っていた白い服は風でヒラヒラとはためいている。どうやら白衣のようだ。

しばらく見ていると段々と公園の方に近づいていることがわかった。程なくしてその白衣が角を曲がり、公園へ入る直前の道に入ったところでベランダからは見えなくなった。

窓の鍵を締め、こたつに戻る。先程のよたよた動く白衣がちらつきあまり横になる気分にもなれず、テレビを付けると特番がやっていた。特に面白くもなかったが芸人がボケてゲラゲラと観客や共演者を笑わせてるのを見ると普段の生活という感じがする。外は相変わらず雨が降っているし、水道もピタンピタンと音を立てる。こたつもヒーターの音がするし、テレビも騒がしい。曇り空から辛うじて出ている光も窓から室内に注いでいるし、電灯やテレビから出た光も室内に乱反射して暗く部屋の中を照らす。だが室内は音や空気が凍りついたように冷ややかに感じた。


 ハッとすると数分経っていた。テレビの番組はちょうど終わるようでエンディングと言うには浅すぎる飲料のCMに移るところだった。テレビはCMで成り立っている訳であるが、当然見るチャンネルは制限されていないのでリモコンでチャンネルを変える。変えたからといって同じ時間区分で番組が作られている以上CMを見させられる結果は変わらないとも言えるが、幸い年末のこの時期は特番だらけなのでドラマやら総集編やらが他局で流れ続けている。

似たような番組に目を滑らせてコロコロとチャンネルを送っているとアナログ画面の番組が始まった。チャンネルは表示を見る限り13chらしい。地方に行くとチャンネルが入れ替わったりするが、このあたりで13chなんて放送帯はあっただろうか?

タイトルロゴが出る。古臭くギラギラとした色使いで『サーズデイスペシャル』と銘

打たれていた。画質も荒く再放送だろうか。

場面がスタジオに切り替わり3人ほどの中年のおじさんと肌にピッタリとした服を着た女性が現れる。それぞれ挨拶をしたかと思うとおじさんが女性に言葉でセクハラを始め、女性が軽やかにかわすことを繰り返す。こんな番組を今の時代よく放送できたものだと思う。放送コードに引っ掛かりそうだ。

しばらくそのやり取りが続いていたがこちらが飽き始めるギリギリでおじさんが切り上げてコーナータイトルが出る。

おどろおどろしいフォントで『街の調査隊 怪奇!!住宅街の大魚池』そしてビデオが始まった。画面はノイズが多いが木陰と複数人の笑い声、そして池が写っている。かなり荒い映像だが、辛うじて釣りと池の縁で遊んでいるのが見える。

「釣れてますかー」撮影者がふざけてそう言うと「釣れるわけねー」やら「バーカ」とか聞こえてくる。どうやら声の感じからして中高生のようだ。撮影者がお菓子などを画面外で食べているようでバリバリ聞こえる。

「あっ、待って!引いてる引いてる」釣りをしている少年が立ち上がり、撮影者や周りにいた数人の仲間が駆け寄る。「引け引け」「抑えろ」とか声が聞こえるが手伝っているのかカメラをぶんぶん振るから映像は乱れに乱れて何がなんだかわからない。その状態がしばらく続くと「わーーーっ」と叫び声が聞こえ、「逃げろー!」と聞こえてくる。走りながらであろうか、カメラが上下に激しく揺れながら池に向けられると池の中から這い出す緑色の人のようなものが映り、映像が途切れた。


 スタジオに戻る。女性が怖いですとか言ったのに対しておじさんが代わる代わるコントのように返していく。下ネタを含ませつつ、話が脱線していくところなんかは時代が違うなという印象だ。ある程度いじり終わるとまたVTRが始まる。

画面はレポーターが池の前に立っているシーンだ。薄暗い池に古臭い印象のベージュのスーツを着て一人で立っている。スーツがオーバーサイズなのか服に着られている感じがして少し可笑しい。どうやらこの映像はライブ中継のようでスタジオの人間と会話もしながら池に近づいていく。

「池は底も見えないぐらい濁ってます!」

声を張り上げながらレポーターが池の状態を報告する。スタジオでは面白がって中に降りてほしいなんて伝えている。なかなか酷なことを言うなと思っているとレポーターが画角の外から紐の付いたバケツを取り出し、それを山なりに池の中に投げこむ。カメラがレポーターから暗くてほとんど映らない池の中にパンしてバケツらしき影を追うと程なくパシャッと水面に当たる音がする。

「上げてみまーす」

画角の外からレポーターが報告し、相変わらず池の中はほとんど映らない中であえて蛍光色にしたのであろう紐のみが左右に動いている。数秒間池の縁に擦られるように引っ張られていた紐が突然ピンと張った。

「あれ、引っ掛かったようです」

またカメラがレポーターを映し出す。紐を片手で掴んで軽く引っ張るが少ししか引くことができない。なんとかマイクを持った状態で引こうとしていたがある程度して無理だと思ったのか画面外にマイクを渡して両手で引っ張り出す。スタジオでは男のくせになんて反応だ。それでも動かないものだから腰を入れて綱引きのように引っ張り出した。

「おい待て引っ張られてる!」

マイクがなくなって音が遠いが明らかに焦ったようにそう話すレポーター。確かに少し池に近づいているような気もする。

スタジオはまたふざけてるよみたいな反応だがレポーターは中継していることを忘れているのか口調に余裕がない。その間にもズリズリと池の方に引っ張られていく。

「ガチ!ガチで!」

ようやくここで周りのスタッフが気がついたのか助けに行く。しかし手で巻き取るように引っ張っていたのでレポーターが一気に池に近づいた。スタジオでは呑気に迫真だなとか言っている。

「はずせ!はずせ!」

そんな声が飛び交い、レポーターや集まってきたスタッフが手に巻き付いた紐を取ろうとしているが絡まってしまったのか中々外れない。その間にも池に近づく。もう池が近くなり、皆外すのを諦めてレポーターを引っ張り出す。レポーターもなるだけ逆らうように足を突っ張っていたが、すっとその姿がカメラから消えた。

スタッフたちは呆然と立ち尽くし、池の方を眺めている。カメラが駆け寄り池を映す。相変わらず暗いが、いままでレポーターを照らしていた証明が池の中に向けられる。かろうじて照らされた池の中にカメラがズームして沈みゆくレポーターの足先が見える。ゴボゴボと気泡をたてながら沈んでいくレポーター。彼を構成していたものは水面に不自然に浮かぶ革靴のみとなった。

スタジオは声を失ったように驚いたようにただその光景を固唾を飲んで見守るのみで、現場の人間も未だに助けに入ろうとはせずに見守る。なぜか。それは分からないが、テレビを見ているだけのこちらも目が釘付けで見守るのみだ。

それは突然だった。なんの前触れもなく、超自然的現象が起こるわけでもなかった。革靴が沈み、同じ場所の池が盛り上がり少しづつ少しづつ生物であるかのように形作る。魚の尾。鳥の翼。波のような鱗。先細りした毛。すべてが沼の色でできている。

そして球のようなものが出てくる。球に見えたものは小さく平たく広がり細かい突起が生える。あれは手だ。それも赤ん坊の。小さなその手を最大限開きひらひらと振っている。まるで麻の葉が風に揺られるようだった。


急に映像が途切れてスタジオに戻った。スタジオでは出演者が唖然としているが、シモテから男が入ってきて何やら演者と話をしている。そしてその男がスタジオ全体にマイクを通じてカットと取り直しを命じた。スタジオは慌ただしくなるが演者たちは一度休憩に入るようで席を立ち、誰もいなくなったところで映像は途切れてどこかの国の素晴らしい風景が映し出された。

完全な放送事故だ。放送していた当時では放送事故ではないのだろうが、現時点では気の抜けた演者たちが映ってしまっている完全に没になったフィルムを放送してしまっているという点でそうだ。

それとも映像作品なのだろうか。過去の番組を模した放送事故まがいの不気味な感じの。割りと好みだがそれであればお断りぐらいほしいものだ。そもそもこの年末の人が一年で一番テレビを見ているであろう今にこんなものが放送されていても誰か見るのだろうか。お祭り騒ぎに食傷気味の人向けとか。あえての逆張りで。

画面では素晴らしい風景が相変わらず流れているが、チラチラとノイズのようなものが走っているのが気になる。もらってきた古いテレビなのでついに壊れたのかもしれない。どんどんひどくなる。ノイズの頻度が上がるに連れてBGMにまでノイズが乗ってきた。ザリザリした音が混ざり始める。うるさいので音量を今までの半分以下まで絞った。ノイズはだいぶ静かになる。

なんだろうか?ノイズに混じってなにかの音が聞こえる。音量を上げるとノイズがうるさいので耳をすませる。

『ぅ...ぇ』

何を言っているのか全然わからない。「本日の放送は終了しました。また明日お会いしましょう」なんて言う文言が深夜帯だと流れることがある。最近はそんな深夜帯まで見ていないのであまり見たことがないが、今の時間は多めに見積もっても夕方というところだ。

『ぅゎ...れぁた』

われた?としか聞こえない。なんて言っているのだろうか。映像の方のノイズも何か変わったのもが映り始める。あれは…この近所の映像?近所が次々と変わる世界の名所の合間に映る。スーパー、ドラックストア、郵便局、コンビニ。そして緑沼がある公園の入り口。

『う..っまれ』

次第に音の方もはっきりとしてくる。うっまれ。うとまれ?よくわからない。だいぶはっきりしてはいるが言葉の端々がかき消えるように音が消えるのでわからない。映像の方は公園内を映している。微妙に小汚い公衆トイレ。動物の形をしたバネの遊具。雲梯。まともに入り口から入ったことがなかったから今までピンとこなかったが、この順序で近づいているなら段々と緑沼に近づいている。そう気がついて鳥肌が立つ。もうこんな映像は見たくない、テレビのスイッチを消す。案外すんなりとテレビは消える。しかし安心したのもつかの間、電源は待機状態のまま勝手に画面が光りだす。ブラウン管のようなぶーんという音をさせて映し出された映像は先程よりも鮮明になった公園の中だ。先程までは写真で取ったスナップショットという感じだったがもう完全にビデオカメラで取っているような映像になっている。映像では緑沼まではもう目と鼻の先だった。

『ぅまれう』

もう緑沼が映る。違和感。もしかしてさっきの番組に出てきた池と緑沼は一緒かもしれない。直接見るとよりそう思う。あの映像の中は暗かったが木の感じや沼の広さが一緒だ。何よりもあのヘドロのような緑色は間違いない。

白衣の人間が緑沼を囲むように集まっている。顔は見えない。体の大きさは大小様々で、腰が曲がっている者や子供のような背丈がいるので老若男女がいるらしい。そしてその中のひとりが沼に進み出ると、そのままの勢いで沼に身投げした。それに続けとどんどんと身投げしてく。また一人一人とかそういうレベルではない。通勤ラッシュのようにどんどんと落ちていく。そして外側からよたよたと歩く太った白衣たちが集まってきた。そいつらも沼の周りを囲って白衣を脱ぎ始めた。

「人を背負ってる…」

太っていると思っていた白衣たちは背中に人をおぶったり、担いだりした状態で白衣というか、最早大きな白い布と言えるかもしれないようなもの纏っていたようだった。そしてその白衣で背負っている人間を包み始める。制服を着ている者や軍服を着ている者、カジュアルファッションの者や高そうな服の者までいる。その人らは寝ているのか全然動かないし、声も発しない。ただ地面にドサドサと落とされていく。白衣を脱いだ奴らは彼らをまるで赤ん坊のように白衣で包みそれを持ち上げて次々と沼の中に落としていく。そして彼らは役目を終えたかのように散り散りに散っていった。沼の中には白衣に包まれた人間が沈んでいく異様な光景が出来上がっている。自ら入って行った者たちはもうすでに影も形もなく、今は白衣に包まれて落とされた人々がゆっくりと沈んで、もうすぐすべて沈む。

『ウマレカワル』

はっきりと聞こえた。沼の中には緑の手が揺れる。あの番組に出てきた手だ。何百という数が大きく手を開きひらひらと振っている。

そこでハッとする。見た感じ、風に揺られる草をイメージしていたがこれは違う。均一に同じ動きを繰り返す。おいでおいでをしているのだ。



突然チャイムが鳴る。びっくりして目を閉じて開けるとテレビが消えた。もう一度チャイムが鳴らされる。

「駅前交番から来ました。おられませんかぁ」

今度は声をかけてくる。どうやら警察官が巡回しているようだ。返事をして立ち上がり玄関まで行く。なんだか人に会いたい気分だった。覗き穴から確認しても本当に警官の格好をしている。警官じゃなくて詐欺でも何でも良かった。鍵を開けて扉も開ける。

「だあっぁあめっですよ。のぞきしちゃ」

バキッと頭に衝撃が走り、その場に倒れ伏した。背中に鮮烈な痛みが走る。包丁で手を切ったときのような頭がスッとする感じだった。

「よぉっおくない。よくないですよ」

「ウマレカワりましょうネ」

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