クモのイト
多架橋衛
クモのイト
糸こそ、最上にして至高の暗殺道具だ。
急所を絞めて絞殺、鞭のように切り付けて斬殺、全身を縛り上げて圧殺、殺し方のレパートリーに申し分はないし、種々の工作にも使える。隠し場所にだって困ったことはない。服に縫い付けておくか、髪に仕込んでおけばいい。ばれたところで、ただの糸だ。
ゆえに、糸を扱う暗殺者は一度として失敗の烙印を押されることはなかった。
『その【糸】も、今回の任務でついに引退か』
リムジンの後部座席に取り付けられた画面が、名残惜しそうにこぼした。
『君にはこれからも良好な関係を築いていきたいと思っていたのだが、やはり考えを改める気はないようだね』
「はい。【雲】。その通りです」
画面に相対するのは黒のスーツで身を固めた女性。黒のボブヘア、薄いメイク、身長百五十程度と、取り立てて目立つところがない。だが、彼女と握手をひとたびかわせば、指先の皮膚が鋼のように硬いことを即座に知る。同時に、地味な見た目もあえて作り上げているものだと気づく。
彼女こそ、糸という最上にして至高の暗殺道具を扱う、最上にして至高の暗殺者だった。
【糸】、それが彼女の名だった。
『【雲】としてさまざまな暗殺者に世話になってきたが、君ほどの腕を業界から失うのは痛いな』
「そうおっしゃっていただけて光栄ですが、どうか新しい取引先を探してください」
『君がそう言うんだ。しかたがない。そうしよう』
画面の向こうは、映像も声も、まるで雲に覆われたように白くこもっていた。
【雲】と呼ばれる、暗殺者と依頼主をつなぐサービスは、加工によって依頼主の正体が暗殺者側に知られないようにするためのものだ。はじめはただ両者を仲介するだけのものだったが、やがて暗殺者と依頼主のマッチングを牛耳るようになり、果てには暗殺者、依頼主双方の保護まで謳うようになった。依頼主としてはこれほどありがたいものもない。
ただ、暗殺者にはプライベートも何もない。顔も声も依頼主には筒抜けだった。
依頼主も仲介サービスも、当人たちは素性を隠して高みから暗殺者をこき使うだけ。
それは雲の上の人間にも等しい所業だった。
一種の侮蔑を込めて、暗殺者たちはいつの間にか依頼主までをも【雲】と呼び始める。
呼ばれる側は、その特権を振りかざすように【雲】を自称していた。
「恐れ入ります」
【糸】は、そんな感情を微塵も出さずにいなした。
窓の外は建物がまばらになり、緑が多くなってきた。
リムジンは郊外へ向かっている。
『それじゃあ【糸】。今回の依頼の確認だ』
画面越しの声が口調を変えた。通話相手が依頼主から業者に変わったのだ。
『場所は旧大型商業施設の廃墟。そこで人身売買の取引がある。君はブローカーを一網打尽にしてくれればいい。かわいそうな商品にはノータッチで。あとはこちらが処理するから。君の武器なら、多人数相手は余裕だろう?』
「人身売買の妨害か。反吐が出るほど正義の味方だな」
『そういう依頼だけにしてくれといったのは君のほうだろうに。君みたいな暗殺者が増えてくれればもうすこし世の中も楽になるんだろうけどね。本当にやめちゃうのかい?』
「くどい。もうわたしがこの世界でやり残したことなどひとつしかないんだ。それが終われば暗殺者を続ける意味もなくなる」
『そうか。残念だね。そうそう、任務の注意事項だけど、敵のブローカーもボディーガードとして暗殺者を雇っている』
暗殺の仲介が存在するということは、暗殺者を雇うハードルが大幅に下がることを意味する。殺したい側も雇うし、逆に殺されるかもしれない側もボディーガードとして雇う。
出来上がったのは暗殺者どうしが殺し合う戦場だった。
【雲】が暗殺者の保護に躍起なのも、【糸】ひとりの引退にここまで食い下がるのも、道理ではあった。
「ボディーガードの暗殺者など問題ではない。問題があるとすれば……【爪】がそこにいるという情報は、間違ってないんだな」
『あぁ、間違いない』
「そうか。それはよかった」
【糸】は動きを確かめるように、指先を大きく開いた。
「【糸】は、【爪】を殺して暗殺者を引退する」
糸こそ、最上にして至高の暗殺道具だ。
だから、【針】は【糸】にとって最上にして至高のパートナーだった。
暗殺者同士が協力することは珍しいことではない。互いの弱点を補い、互いの長所を伸ばす。【雲】もそのあたりは理解しているのか、パートナー登録をすれば同じ依頼を回してくれる。報酬は頭割になるが、そのぶん生存率は上がり、長く安定して仕事ができる。暗殺者同士に限らず、事務や装備の手配を裏方に一任したり、複数の暗殺者と複数の裏方がチームを組んでいる場合もある。
【針】と【糸】に関しては、ひとりの暗殺者とひとりの暗殺者がお互いの能力を引き立てるためのパートナーだった。
針によって糸の威力が増し、糸によって針の操作性が増す。
ふたりは業界でも敵なしと呼ばれるようになった。
ほんの三年前までは。
【糸】と【針】が【爪】のパートナーを依頼のなかで殺した。【爪】による報復で【針】が犠牲になった。
暗殺者の世界では、珍しいことではなかった。
リムジンは【糸】を降ろすとすぐに走り去った。
目の前にはコンクリートの塊。いたるところがひび割れ、草や細木や蔦が突き出し、ガラスは砕け散り、金属は錆に覆われている。
十数年前まで立派に操業していた大型商業施設も、町ごと放棄されればこの有様だ。
逆に言えば、これほど闇取引にうってつけの立地もないだろう。人目は避けられる。周囲への警戒もしやすい。移動にもさして不便はない。
罠も仕掛けられているだろう。【糸】がボディーガードの側なら必ずそうする。もちろんあんな奴らのボディーガードになるつもりはないが。
右手をすっ、と掲げ、周囲に糸を放射。張り巡らされた糸は、防御と索敵を兼ねる。
エントランスに異状はない。
警戒を強めながら、商業施設に真正面から押し通る。
吹き抜け、十一階、正面に長いエレベーターが伸び、左右にフロアが広がっている。地下もかなり深いようだ。柱や店舗と死角が多いが、【糸】は届く限り糸を展開し、すべてをつぶしていく。
と、一瞬指が痺れた。
背後で破砕音が二つ。
前方から打ち付けたような金属音。
ほんのコンマ二秒もないあいだに三つのことが続いた。
狙撃だ。
【糸】は即座に三つの情報を現実として組み立てる。
銃弾が散開していた糸に触れた。これが伝わって指の痺れとなる。
糸に触れた銃弾は真っ二つに割れ、背後の壁を穿つ。これが破砕音。
金属音は発砲だ。糸に触れた重さからして50口径ライフル弾。弾速はマッハ5。そのせいで、背後の破砕音よりも発砲音のほうが遅れたのだ。
三下が――。
発砲音の方向へ、糸を一条投げる。
薄い石板を貫く感触、柔らかい肉の感触、薄い石板を貫く感触、三つが立て続けに伝わる。
あっけない。
引っ張ってみると、額を貫かれた狙撃手がひとり、吹き抜けの最上階から落ちてきた。地面に激突するなり破裂して、赤い色を散らす。
造作もない。予定通りだ。
【雲】は相手のブローカーが【爪】を雇っているとは言ったが、そのほかの情報はくれなかった。【糸】の実力からして影響はないと判断したのだろう。敵が【爪】のほかに何人雇っているのか。
問題ではない。
いまので【糸】の出現は敵に伝わったことだろう。
それでいい。
報せを受けて【爪】は必ずやってくる。
敵が動けば、壁や床の振動を糸が感知して居場所がわかる。
わざわざこちらから標的を探さなくても済む。
正面から入ったのはそれが狙いだった。
敵を叩くときはあくまで正面から。
反応した敵の動きを、糸で察知して確実に殺す。
それが【糸】にとっての最も効率的な殺し方。
あとはエントランスの中央で糸の防壁を張ったまま、敵が動くのを待つだけだ。
動くなら動け。
そして来い――。
――かかった!
六階。右奥。直線距離にして百メートル。足音。悠々とした運び。暗殺者の出現に慌てる金持ちのものではない。もっと軽快で、芯がある。
「おやおやあ? 派手な音が聞こえたと思ったら【糸】さんじゃないですかあ」
六十メートル。
攻撃射程の半分。
間髪入れずに糸を投げつける。
先端が何か硬いものに触れて――。
方向を変える。直後に岩のような抵抗。
「ちっ」
【糸】は舌を鳴らす。
防がれた。先ほどは悠々と狙撃手の額を貫いた糸だったが、【爪】相手にはやはりそう簡単にはいかない。
「おー、怖い怖い。やっぱり【糸】さんは違うね」
通路から姿を現した【爪】は、【糸】と同じくスーツこそ着ているが正反対の佇まいだった。
長身痩躯、腕も異様に長い。ぼさぼさに伸ばした髪を後ろで乱暴にまとめている。
そして指の先。
彼女が扱う最大の武器である手の爪は、なんの特徴もなかった。
しいて言えば、きれいに切りそろえられ、磨き上げられている。きれいだな、と思っても、それ以上の感想が頭に残ることはない。当然だ。これが彼女の武器なのだか。
「いきなり襲い掛かってくるなんて。そんなに命が大事かい? あのときもひとりだけ生き残ってさ」
「その口を閉じろ!」
【糸】は跳んだ。先ほど放った糸をひきつけ、【爪】との距離を瞬く間に詰める。
【針】は、ひとことで変な暗殺者だった。
大抵の暗殺者は好むと好まざるとにかかわらず世間から落伍し、生き残るためにしかたなく体と技を磨き、ただ依頼に従って殺すだけだった。
【針】は、依頼をえり好みした。標的がまともな人間なら依頼は受けなかったし、標的がろくでもない人物だった場合にだけ確実に殺した。
それを可能とし、それが許される程度には腕が立った。
【糸】が【針】と出会ったのは、とある護衛依頼だった。最初の印象は、長い髪がうっとうしい。次の印象は、思ったよりもやる。三つ目の印象は、悪くない。
ふたりはすぐにパートナー登録をした。申し出たのは【針】のほうだった。【糸】は二つ返事で了承する。
【爪】のパートナーを殺すのは、それから一年たったころだった。
六階の高さをひと跳び、【爪】に向かって無数の糸をばらまく。床、壁、天井に突き刺さり、あらゆる場所を経由してまた突き刺さり、糸の牢獄を作り上げていく。
逃げ道を封じられた【爪】に焦りの色はない。ただ棒立ち。何も考えていないのか、あるいは【糸】のほうにまだ明確な攻撃の意思がないと理解してのことか。
油断してはならない。まず後者だ。
事実【糸】は糸を手繰って空中で加速、【爪】を飛び越えて通路の奥へと降り立った。
奴には、類稀な勘と身体能力がある。爪という武器で生き残ってきたのが何よりの証左だ。
獣。
これは戦いではなく、狩り、そう自らに言い聞かせる。爪が届く範囲は長く見積もって三メートル。狙撃手を射抜くほどの糸と比べれば射程の差は歴然。
そう――
「充分な距離をとって、網で魚の群れを絞り上げるみたいにして糸で追い詰めていけば勝てる……そう思ってるんじゃなあい?」
【爪】が動いた。
両腕を広げ一旋。それだけで、周囲の糸をたやすく断ち切った。
「もろい、もろいねえ、糸なんて。でも困るんだよ、そんなに弱かったら。復讐相手が弱いとつまんないでしょ――っ!」
十メートル、あったはずだ。
その距離を【爪】は、体を傾けるだけで詰め寄った。
丸い、よく磨かれてはいるが、なんの変哲もない五枚の爪、【爪】の右手が目の前にある。
【糸】はその攻撃にわずかな傾きを見て取った。視界の左上から右下へ。純粋な突きではなく、袈裟懸け。右目を骨ごと抉り取るつもりらしい。
「とった!」
腕を最後まで振り下ろし、勢いのままさらに数メートル進んで着地。
雫が滴る音。右腕に広がる熱。感触はなかったが、頭蓋骨を砕く程度、【爪】にとっては何の障害でもない。それこそ空気を掻くように。
「強すぎてわからなくなったのか?」
「あれ? 【糸】、殺したはずじゃ」
声に【爪】は振り返る。頭どころか全身揃ってぴんぴんしている【糸】が、変わらない位置に立っていた。
そこでようやく気が付いた。
この雫の音、それは【糸】の血ではなく、【爪】自身の血なのだと。
【爪】の右腕は尖っていた。先端、もともと前腕の中ほどだったはずの場所は淡いピンク色、黄色を帯びた乳白色、黒ずんだ赤と続いて、皮膚につながっていた。
「は……はははは……」
乾いた笑いがこだまする。
「そうかそうか、あんた、わたしの右腕を削ったんだな、鉛筆みたいに。攻撃が届く直前に糸を巻きつけて引き絞ったんだ。だから、わたしの一撃は当たらなかった。右手の先っぽが削り取られちゃ、間合いがずれるに決まってるじゃん」
しきりに納得する様子は、なぞなぞを正解した子供だった。
「そうなんだろう、【糸】? 昔より糸の扱い方がうまくなったじゃないか」
「わかったところでどうなる。貴様はここで死ぬ。わたしが殺す」
「いいねいいね、そうこなくっちゃさ。……ん?」
突然、【爪】は振り返り、左腕を払う。何かがはじけ飛んで床に跳ねた。
ナイフ。通路の奥から投げ込まれたものだった。
その場に何者かがいることは【糸】はすでに察知していた。だが、気にするほどの相手でもないと判断し無視していた。投擲の速度も狙いも甘く、間違った判断ではなかった。
だが、【爪】のほうは腹を立てていた。【糸】に背を向けて、闖入者のほうへ闊歩する。
「あのさぁ、どこの誰だかは知らないけど、わたしの邪魔しないでくれるかなぁ」
右腕を削り取られた直後とは思えないほど何気ない素振りに、削った当人である【糸】は言葉を危うく聞き逃すところだった。――どこの誰だかは知らないけど。ナイフの主は【爪】の仲間ではないのか? 当然、【糸】はひとりでこの場に乗り込んでいる。では、ナイフは誰に雇われたのか?
確かめる間もなく、短い断末魔が響いた。
【爪】はその右腕で、暗殺者を突き刺していた。
「へぇ、便利じゃん。これ」
どさり、と肉の塊が落ちる。
「でも所詮は骨と骨髄だしなぁ、一回使ったら欠けるし研がないといけないじゃん」
あらわになっている自らの骨の先端を、【爪】はかじり出した。
「……痛覚がないのか」
「なぁに。爪の本質は肉体強化。爪が剥がれれば指で。指が削がれれば骨で。骨がなくなれば歯で。それがわたしの戦い方だよ」
「それを言ってどうなる。貴様にどれだけ戦い方が残っていようと、ひとつずつ潰していくだけだ。その右腕を見ればわかるだろう。大人しく、わたしに殺されろ」
「さぁ、言ってどうなるかなんて考えてないよ。だって、あんたは今から死ぬんだから」
同時に、体勢を傾けた。
「え、なに!」
「……っ!」
【爪】が叫んだ一瞬あと、【糸】の指先は周囲の糸が緩むのを感じ取った。
視界がぐるりと回る。
さかさまになる。
天井が、床が、壁が、崩れる。
瓦礫に遮られ【爪】の姿すら見失ってしまった。
この状態では糸による索敵もできない。
【糸】は、張り巡らせていた糸を己の体に巻き付け、防御態勢をとった。
三年前だ。すべてが狂い始めたのは。
あの日もこんな廃墟だった。
【針】とともに標的を抹殺した【糸】はその場を去ろうとコンクリートの通路をふたりで歩いていた。
あの日も、視界がぐるりと回った。
足元の床が崩れ落ち、浮遊感に包まれる。
舞い上がる砂ぼこりのなか現れたのは、髪をぼさぼさに伸ばした一匹の獣。
【爪】の奇襲だった。あろうことか下階から床面を突き破り精確に攻撃を加えてきたのだ。
奴の左腕が【針】の右太ももを貫通している。とどめと言わんばかりに、もう片方の腕が【針】の胸元を、その先にいる【糸】までをも狙っていた。引き絞られた筋肉が解き放たれるのを【糸】は非常にスローな世界の中で目の当たりにしていた。
【針】を助けなければ。
指先は自然と動いた。
【針】は右脚を文字通り釘付けにされ逃げ出せない。
選択肢はひとつ。彼女の右脚を切断し、【爪】の攻撃から解き放つ。幸い糸ならその程度の芸当は簡単だった。ゆで卵を切る際に糸が使われるように、【針】の右大腿に糸を巻き付け引き絞る。切断した後、脚の根元に今度は糸を軽く巻き付け止血。同時に引き付け奪還、この場を退散する。
躊躇はなかった。狙いも確かだった。
誤算は、【針】の手が一瞬はやく、【糸】を突き飛ばしたこと。それによって、精密すぎる糸の動きは突き飛ばされた分だけずれ、【針】に触れることもできなかった。
それでも、まだ自由な糸を飛ばし、どうにか【針】の右脚に巻き付けることは可能だった。引き絞り、予定通りに【針】の足を切断。さらに糸を飛ばす。
そのときにはもう、【針】の心臓は穿たれていた。即死。【糸】は無傷だった。
ひとつの階を自由落下し、着地するまでのわずかな時間に、ひとりの暗殺者が命を落とした。
「あーあ、外しちゃった。もうちょっとだったのに。まぁいいや。奇襲は失敗したらすぐに逃げなきゃ。またね」
敵は冷静だった。床の崩落に乗じて身を翻す。
追いかけることは不可能だった。
足元に、心臓と右脚を失った女性の死体がひとつと、そこから広がる血だまり。
彼女の足を切り落とした糸は、【糸】の指につながってはいるものの、行先もなく、広がる彼女の血だまりに浮かんで真っ赤に染まっていた。
【糸】は、ひとりだけ生き残ってしまった。
そのときの赤い糸は、誰ともつながっていなかった。
落下時間は三秒ほどだったろうか。高さにしてビル十数階分。最終落下速度はおよそ毎時百キロ。いくら全身を糸で縒り固めようとも衝撃は相当のものだ。
内臓がいくつか損傷したらしい。
呼吸を整える。少量の吐血はあるが任務に支障はない。
糸をほどく。
薄暗がりに瓦礫が山と積みあがっている。光源ははるか上方。まるで井戸の中から空を見上げている心地だ。
いったい何が起こったのか。ビル十数階分の落下、つまりそれだけ建物の床が抜けられたということ。意図的な破壊でもない限り不可能だ。爆弾を扱う暗殺者の仕業だろうか。確かに旧商業施設は壁面と柱だけを残し、床だけがきれいに落とされている。ありえるとすれば人身売買のブローカーを狙った爆破なのだろうが。いや、普通に考えればこんな破壊的な暗殺はあり得ない。標的の生死が確認できなくなるし、そもそもこんな大事になった時点で暗殺でもなんでもなくなってしまう。
【糸】は、いやな閃きに囚われた。
現場に来て最初に出会った暗殺者は狙撃。
その次に出会った【爪】。
【爪】が現れた時、彼女はなんと言っていただろうか。
――おやおやあ? 派手な音が聞こえたと思ったら【糸】さんじゃないですかあ。
【爪】はあくまで音によって異変を察知したのであり、狙撃手と直接的なやりとりはなかったということになる。なぜだ。ふたりともこちらの命を狙ってきた。ブローカーのボディーガードとして雇われているはずだ。それなのに連絡を取り合っていない? 万が一の同士討ちの可能性もあるのに?
つまり、【爪】と狙撃手はまったく別の雇い主に雇われている。
そして三人目のナイフ。ナイフは明らかに【爪】を狙っていた。だが【糸】自身にナイフとの面識はない。【糸】はあくまでこの場に単独で潜入している。
加えて、やはり気になる【爪】の言葉。
――あのさぁ、どこの誰だかは知らないけど、わたしの邪魔しないでくれるかなぁ。
やはり【爪】もナイフとの面識はない。
では狙撃手とナイフの関係は? 狙撃手は敵の接近を嫌う。あくまで未知数だが、協力関係にあるなら、狙撃手はナイフをそばに置きたがるだろうし、ナイフもそれを断る理由はないはずだ。狙撃手とナイフも独立している可能性が高い。
この場には少なくとも四人の暗殺者が、別々の雇い主に雇われて集っていたと考えていい。そんなことをすれば暗殺者同士が殺しあうのは目に見えているだろう。まがりなりにも暗殺者保護を謡う【雲】がそんな下手をうつはずがない。
なぜだ? なぜ暗殺者を集めた?
ふと、瓦礫の隙間から人の腕が伸びていた。すぐそばには日本刀。
五人目の暗殺者が死んでいる。
「てめぇ、ふざけやがって……!」
「それはこっちのセリフだろうが!」
離れた暗がりで、二人の人間が互いに殴り合いをしていた。ひとりはサック、ひとりは棒。落下のダメージがあったのだろう、互いに呼吸も絶え絶えで、間もなく同時にこと切れた。六人目と七人目の暗殺者が死んだ。
異常だ。何もかもが間違っている。
【糸】は携帯を取り出して【雲】にアプローチをかけた。
『やっぱり生きてたか。さすがだね。でも呼吸が荒いよ。さすがにノーダメージ、というわけにはいかなかったんだね』
「ふざけるな。一体何が起こってるんだ。どうして一つの現場に暗殺者がこんなにいる。そうならないようにするのがお前たちの仕事だろう」
どうして。暗殺者当人としては考えたくない理由がひとつあるが、それを【雲】はあっさりと口にした。
『これはいままでお世話になってきたから教えるんだけど、もうね、暗殺者が必要な時代じゃなくなってきたんだよ』
「な……」
『そういうわけだから』
通話は掻き消えた。返事をする気力も湧かなかった。
暗殺者は必要なくなった。
だから、嘘の依頼をでっちあげて暗殺者を一所に呼び集め、殺し合いをさせる。建物が崩落したのも暗殺者を確実に殺し合わせるため。万が一生き残っても、脱出できなくさせるため。
それが、【雲】の意図なのだ。
「ふ……ふざけるな!」
糸を放つ。旧商業施設は広大ではあるが、高さは地下を含めても二十階、数十メートル。この程度、糸が届かないわけがない。
「ふざけるな。ふざけるな。こんなところで死ぬものか。絶対に生きて帰る……【針】の分まで生きるんだ、わたしは」
壁面に突き刺さった糸を引き抜く。が、なんの手ごたえもなかった。糸を支えていた壁面の一部が糸ごと落下してきた。爆破の影響でかなり脆くなっている。
「そんな……」
糸の最大の弱点。周辺地形の影響を多大に受ける。糸を空間内に張り巡らせるためには、地面、床、天井、あらゆる物体に引っ掛け、絡め、突き刺し、張り詰める必要がある。糸を支える地盤が弱ければ、糸は真の威力を発揮しない。この状況では、ちょっとした飛び道具や鞭として使うほかない。
「ああ、わかった。わかったよ。そっちがその気ならそうやって生き延びてやる」
糸によって地形を破壊する。
上向きの坂を作って、地道に地上までたどり着く。それが唯一の脱出方法。
口元の血液をぬぐう。内臓損傷による失血死が先か、地上にたどり着くのが先か。
【糸】は壁面に向かって突き進んだ。
が、足が止まった。
「残念でしたあ!」
吹きあがる土、瓦礫。
【爪】が、鼻先をかすめた。
「貴様、まだ生きて!」
「あっれー、取ったと思ったんだけどなぁ」
額が割れ、顔を血に染めて敵は笑う。
「あんた、ひとりで生き残ろうったってそうはいかないよ」
「知っていたのか、【雲】のこと」
「こっちきてあんまりにも襲ってくる暗殺者が多かったからさぁ、何人か絞ってやったんだよ。でも、そんなことどうでもいい。あんたよりちょっとでも長生きできればわたしの勝ちなんだから」
「させるか!」
糸を足元に散開、瓦礫を吊り上げて、投げ飛ばす。
人より大きな岩塊を【爪】は難なく躱す。
「おっと」
岩の陰から迫る糸まであっさりと見切る。
「ちっ……」
「今度はこっちのばーん」
【爪】が体を傾けた。接近。【糸】は前方に投げた糸の半数を放棄。背後の瓦礫に括り付け、引き付けながら跳躍、距離をとる。
が、【爪】はなお速い。
「つーかまーえ――」
【爪】の右手、もはや槍と化したそれが心臓を狙っている。もっとも避けにくい、完全な最短距離、直線の動き。
後方に投げた糸を捨て、空いた指の間に新たに糸を張る。槍に触れた。出来損ないの琴に似た不協和音。下手糞な弦楽器。手のひらを外側に向け、わずかに槍がずれた。だがまだ足りない。片腕。槍の先端が手首に触れた。片腕を犠牲にするしかない。尺骨と橈骨の間で槍を滑らせ、はじく。
「――た?」
吹き飛ぶ血液。歪む左腕。この瞬間、【爪】の左腕は自由。【糸】の右腕はまだ前方に糸を張ったまま。
【爪】は全力で左の突きを叩き込む。【糸】は両腕がふさがっている。防御は取れない。そう確信して。
【糸】は狙っていた。
右手を引いた。
前方に投げていた糸の、残り半分。それらが一気に舞い戻る。暴れ蛇となって【爪】の左腕に襲い掛かる。
スーツの生地と、皮膚と、筋肉と、骨が、赤い霧となって爆ぜた。
ならばと、【爪】は槍を繰り出す。喉笛。読みのうち。右手に残った糸を総動員し巻き付ける。あとはこのまま引き絞れば――
「な……?」
指先に力が入らない。失血の影響が予想以上に早かった。
せめて。
攻撃の方向を変える。
「あ……っ」
目を丸く開いた【爪】。
速度を減じる槍。急に方向を変える槍。
【爪】のダメージも相当にひどかったのか。
――勝った。ちょっとした血液量の差で――。
「まーだだよ」
【爪】の体が小さくなった。
いや、違う。
体を傾けてきた。
それも違う。
全身で倒れてきた。
槍ごと、【糸】に向かって体を預けてきた。
最後の力を振り絞った突撃。
槍が速くなる。
【糸】も最後の力を振り絞り、槍を外す。
ふたりは瓦礫の上に倒れこんだ。
……痛み分け。
いや、【糸】の敗北に近かった。
槍の切っ先は、【糸】の頸動脈に傷をつけた。命に関わる出血量ではなかったが、それでもかなりの血液があふれ出した。力が入らない。のしかかってくる【爪】を蹴り飛ばす力もない。
一方の【爪】。立ち上がる力さえないのだろう。右手からの出血はほとんど止まりかけていた。傷の具合から見るに、血液がもう残っていない。そのうえ槍は瓦礫に突き刺さり、糸にからめとられているのだから、暴れることすらできない。
「へ……へへへ……」
満足げに笑い出す【爪】。
「もう、逃げられないよ。あんたはこのままここで死ぬ」
「ふざけるな。貴様より先に死んでなるものか……」
「蜘蛛の糸って知ってる、東の国のおとぎ話。ひとりだけ生き残ろうったってそうはいかないってお話。あんたはそれなんだよ。【針】が死んでひとり生き残ったあんたはね」
「違う! わたしはひとり生き残ろうと思ったことなど……まして【針】を差し置いて……」
「いいや違わないね。わたしから大事なものを奪って、あまつさえわたしまで殺そうとして、のうのうと生きていこうったってそうはいかないんだよ」
「それはこっちのセリフだ。わたしたちに散々付きまとってきたのは貴様のほうだ」
「平行線かよ」
「どっちが先に死ぬか根競べだ」
「負けるもんか……」
【爪】はその頭を振りかぶった。
「ぐえっ……」
「頭突きなどさせるか」
【爪】の首筋に糸が絡みついていた。
がつ、と嫌な音を立てて、【爪】の頭部は瓦礫にぶち当たった。
「へ……へへ、なるほど……」
かすれた声で続ける。
「わたしが窒息するか、あんたが失血するかって話……」
「いいや……窒息よりも早く、貴様の脳は酸素と血液を失う」
「うえ……?」
糸がすこしだけこすれあった。
血が滲みだした。糸がそれを吸い、赤く染まる。
「もう、貴様の脳に届く血液はない」
【爪】の全身が軽くなった。
「なあんだ。残念。もうちょっとだったのに……」
その一言を最後に、彼女はこと切れた。
のしかかってくる成人女性ひとり分の重み。押し返せない。もう、だめかもしれない。
諦めかけた瞬間、【糸】の脳内に強烈なフラッシュバックが襲い掛かってきた。
赤い糸。
【針】の足を切断し、彼女の血だまりのなかであてもなく浮かぶ赤い糸。
【爪】の首を切り開き、彼女の血液を吸ってなお頸椎に絡みつく赤い糸。
つながっていない赤い糸と、つながった赤い糸。
どちらも、もう一方の先端は【糸】の指先に。
「なぜ……なぜ……」
二度目の爆発。
「なぜこの赤い糸が、貴様のような人間とつながってるんだ……っ」
叫び声は、降りしきる瓦礫に消えていった。
クモのイト 多架橋衛 @yomo_ataru
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます