山小屋の朝 その一

「ツナトーストが食べたいです」

 雪山二日目の朝、巴の第一声がそれだ。旧グレイヴァース領で仕入れたもち麦をスープに入れたところだった閃は思わず沈黙した。

 さほど大きくもない無人小屋ヒュッテでは、居間と台所はすぐそこだ。居間の暖炉の前で布団にくるまったまま、巴は仰向けに閃を見上げてくる。まだ覚醒しきっていないのか、白藍色の瞳の焦点は閃に合っていない。

「ツナ食べる夢見た……ツナトースト食べたい」

「……麺麭パンは別で準備してたんだが?」

「それは当然食べるけど」

 急にはっきりと発声してくる。いけ図々しいことこの上ない。

 とはいえ、巴が大量に消費することを前提にしてすでに作ってしまっているから、食べないと言われても困るところではある。

 ため息を吐き、頭を掻き回そうとして、衛生的な観点からギリギリでやめた。

 ツナが食べたいと言われても、海の方には一年ほど立ち寄っていない。最後に寄ったのは巴に会うよりもずっと前のことだ。保存の魔術具に入れていたものも、当然とっくの昔に使い切っている。

「缶詰でいいか?」

 ベリジャニアで買った、ダースで銅貨いくらのツナ缶を取り出し、これを断られたら面倒だなと思ったが、巴は満足そうに頷いた。

「……なんで意外そう?」

「お前の味覚は庶民的だな、と」

「それこそ今更なのでは?」

 散々閃に作らせた料理を浴びるように食べているのだ。そう言われればそうだが、正直なところ、閃は演技ポーズだと思っていた。演技ポーズであって欲しかった。美味しくお高い食事の出るだろう艇に帰って欲しい。



 雪山一日目は予定通り、山小屋で一晩を明かした。前に使用者が丁寧に扱っていたおかげで、草臥くたびれた体で掃除から始めなければならない、ということにならずに済んだのは僥倖だ。防寒具に油脂に缶詰に香辛料。鍋も、暖炉で使える鉄製のものや雪を煮沸消毒する用の小さいものなど、一通り備えつけられていた。雪山の村々の共同所有なのか、他からも支援があるのか、なかなかに充実している。

 山小屋自体は断熱性に優れた木材で組まれたもので、職人の腕がよかったらしく、断熱用の布が壁にかかっていることを差し引いても隙間風ひとつない。大所帯あるいは複数の集団が同時に訪れたときのためにか居間の他に三つ大きめの部屋があったが、暖炉があるのは居間だけなのもあって、少なくともこの時期は使われていないようだ。居間に堂々と寝袋が畳まれてあった。

 大部屋の埃が多かったのもあり、何より断熱されていても寒さには敵わなかったため、閃たちも居間で眠りについた。交代で火の番、は巴が一度寝たら朝まで絶対に起きてこないため不可能だが、巴が暖炉の火そのものをするという暴挙に出たため、寝ている最中に薪が尽きて火が消えることも、逆に燃え広がることも起き得なくなったことで、閃も普通に寝ることができた。念の為、炉の下側三分の一ほどの高さに空間の仕切りも設け、万が一にも火事にならないようにしておいたが、その必要もなかったくらいに、朝起きて見た火は大人しいものだった。



 調理が終わって居間を振り返ると、巴はまた布団の中に潜り込んでいた。まんまるになった布団から、亜麻色の頭頂部だけ見えている。

「おい、布団片せ」

「んえぇ」

「邪魔なんだよ」

 暖炉の真ん前、居間のど真ん中を占拠している布団饅頭を足で小突き、部屋の隅に追いやられていた折り畳み式の座卓テーブルを広げる。その傍に鍋を動かし、中身を椀によそう。においに食欲を刺激されたのか、ぎゅごるるろ、などと、魔物の鳴き声のような形容しがたい音を響かせる腹を抱えて、巴はのたのたと布団から這い出してきた。とはいえ毛布はひっつかんだままだが。毛布を床に引き摺って座卓の前まで来た巴に、閃はため息を吐く。

「トマトだあ」

「そうだな。はい、まずはこっち」

 具だくさんのトマトスープに引き寄せられるちいさな手に、先んじて湯呑を握らせる。不服そうにむくれた顔は、湯呑の温かさとそこから匂い立つ芳香に気を削がれてか、すぐに興味深そうなものに変わった。翠がかった青色の、冷たい海のような色をした液体に親指ほどの大きさの果肉が浮いている。青いオレンジは雪山の麓に生える耐寒性の強い種だ。

「ジダ村で買ったんだよ。なんか疲労回復効果があるとかで、勧められた。先飲んどけ」

 ついでに身体も温められる。唐辛子で作ったホットドリンクの方が即効だが、今は急ぎでもない。

 ミレア村までは、天候が悪化しない限り日暮れ前につける算段でも、まだかなりの距離がある。昨日の疲労が抜けていないまま登るのは、子供の身にはよっぽど堪える。巴が途中で限界を迎えると、閃が担いで登らなければならなくなる。

「そこで雪山に捨てずにちゃんと担いでくれるのが優しいよねえ。人殺してるのに」

 「こいつ、俺が殺人鬼だって認識あったのか」と思いつつ、揶揄してくる巴を脅しつける。

「捨てられたいなら捨てっけど?」

「捨てたらやだ~。この山地図から消すよ~?」

「冗談が冗談に聞こえねーんだよ!」

 冗談で言ってないからね、とは言わずに巴は湯呑に口をつける。火傷しないよう気を付けつつ、果肉の弾力のあるぷちぷちとした食感と、沁み出した甘味と酸味を味わう。身体はしっかり温まるが、喉にすうっと爽やかさが残り、目がだんだんと醒めてきた。前に落ちてくる亜麻色の髪が邪魔なことにようやっと意識が向き、髪紐を視線だけで探す。布団の傍に落ちていた。

「てーぎします」

 あぐあぐと湯呑の食みながら魔術を。のんびりとした口調でも繊細に編まれた魔術は的確に機能する。風もないのに髪紐が浮き上がる。同じく見えない手でもあるかのように整えられた髪に、髪紐がしゅるりと巻き付いた。

 台所から皿を運んできた閃は、げんなりと顔を歪めて呟いた。

「無駄に器用か。横着しやがって」

「無駄じゃないもん。これおいしー」

「横着は事実なんじゃねえか。あんま数ねえから大事に飲め」

 巴が一杯飲み終わる頃には、朝食は並べ終わっていた。元々の予定だったのだろうスモーブロ。カリカリに焼き上げられたライ麦麺麭パンの上に、茹でた卵とじゃが芋の薄切りスライスにベーコン、マヨネーズがみっちり乗っている。鍋からよそわれたトマトスープは、鳥のささみやしめじの他、もち麦とキャベツで明らかに嵩増しされたものだ。そして巴要望のツナトースト。

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