雪山へ
「意外と買えたな……」
食糧品の詰まった袋を抱えて、閃は宿への帰路につく。
麓とはいえ、これ以上寒さが本格化すれば商人も足を運ばなくなる。彼らが持ち込む食糧も手に入らなくなるし、ジダ村にいる猟師も狩りができなくなる。村が冬を越すのに十分な食糧を確保すると、旅人に分け与えられるものはほんの僅かしか残らない。それ自体は来る前から予測していたことだ。寧ろ、ほんの僅かな余剰を素直に売りに出してくれるかは五分五分だと思っていた。
蓄えはいくらあってもいいはずだ。雪山では食べ物も早々腐らない。
だが、当たり前に買えた。そう値上がりもしていない。確かに品揃えは良くなかったがそのことを謝られる始末だ。閃からしてみればそれなりの質のものを良心価格で買えるだけでありがたい。村中の店を回って少しずつ買い足すうちに結構な量になっていた。大食らいを抱えているせいで常に糧食が尽きる危険と隣り合わせになっている身としてはありがたい。何せこれから冬の雪山に登るのだ。飢える前に凍って死ぬ気もするが。
買い物ついでに山路を確認すると、村の人々には本当に登るのかと心配され、やめたほうがいいとまで言われてしまった。今年は本当に寒波が酷くなる予想らしい。適当に誤魔化して聞き出すのに苦労した。
また一晩宿に泊まり、早朝に巴を叩き起こした。なかなか起きないため強制的に布団を剥ぎ取り、寒気を浴びせて夢から醒した。びやあと珍妙な悲鳴を上げて
「なんだってこんな早くに……」
「雪山で野宿なんかしたくねえだろ。道中に狩人や登山者が自由に使っていい山小屋があるんだと。そこに辿り着くのが今日の目標」
「だからってぇ…………ねむい」
「寝るなよ、死ぬぞ」
目をぐいぐいと擦る様子は幼子そのもので、仕方なく世話を焼くはめになる。初日に村で買った防寒具を着せて、しっかり
受付には部屋の鍵ともう発つ旨を記した
宿から出ると、外は夜ほどに暗かった。防寒着を着こんでも、素肌に触れる空気は凍えるように冷たく、閃は
静まり返った村を抜け、山への入り口に向かう。巴の頭は首のすわらない赤子のようにかくんかくん揺れていて、閃は溜め息を吐いて懐から小瓶を取り出した。
「飲んどけ」
「……毒?」
「ちげーよ。この間も飲んだだろ」
唐辛子を溶かして作ったホットドリンクだ。瓶の
空になった瓶をしまう閃を眺め、巴も眠気でおぼつかない手つきで
「……んえ……ねえ、なんかすごい辛い」
「は? そんなわけ……辛いな?」
巴の小瓶を少しだけ舐めると、唐辛子そのままの痛みが舌を襲った。自分が飲んだものと全然違っていて困惑する。
「水鈴蘭入れるの忘れてない?」
「……」
その指摘に否を言うことも今度はできず無言で懐を漁る。巴より更に早くに起きていたから、今の巴くらいには眠い中での準備だった。不備があってもおかしくない。
果たして、小分けされた水鈴蘭の蜜の瓶が一つ余っていた。
「……悪い」
「おんぶして」
「……ほんと悪い」
ぅえーと出した巴の舌は真っ赤に腫れている。完全に眼が冴えたらしいが眠気ではない意味で涙目になっている。目尻が凍りつきそうだ。
蜜を入れて瓶を返すと、巴は恐る恐るそれを舐めて、今度こそ飲み干した。口直しのキャラメルヌガーを渡してやった上で閃はおとなしく巴をおぶってやる。そうしてやっと、大粒の雪の降り積もる雪山に足を踏み入れた。
初めは緩やかだった山道は、先に進む程に雪が
「土属性便利だな」
本来なら足がずぼりとはまりこみ、歩くだけでも疲労する深雪の上を、まるで石畳で舗装された道であるかのように歩いていく。土属性の固定によるものだ。
――世の総ては土人形である。
——此れらは固く結合し、今の座標を動かない。
――新たに増えたものとも固く繋がれ。其れらの座標も不動である。
――そうであると固定する。
つまるところ、雪の定義に干渉し、それが踏み締められても動かないように固定したのだ。不動の雪は鉄鋼のように硬く、沈み込むことも雪崩を起こすこともない。なんだか妙な気分だが、体力を余分に削られることなく歩けるのならそれに越したことはない。
ほつほつと雪の降り積もる音。時々吹く風は鋭く、皮膚を切り裂くようだった。ふぁあふ、と耳元で大きなあくびが聞こえた。また眠たくなってきたらしい。寝たら死ぬぞと声をかけながら、呑気な上に淡白なガキだなと思う。
帝都のある旧ネイジャー領も冬季になると南部以外一面の雪景色だったが、ここはそれ以上だ。立ち並ぶ木々も葉と葉の隙間までびっしり雪に覆われ、遠目ではのっそりとした雪男のようだ。見上げれば、空は限りなく白に近い水色で、
眼が潰れるほどの真白。耳鳴りがするほどの無音。そんな世界に、ともすれば立ち尽くしそうになる自分を、閃はどうにか律して足を進める。子供一人分背負って、沈まない分マシとはいえ傾斜続きで疲労は溜まっていたけれど、脚が止まるのはそのせいではなくて――ただ、美しかった。
背中の熱に、不本意ながらほっとしていた。
あまりにも美しくて、美しすぎて、こわいくらいだ。
自己すら塗りつぶされそうな中、熱だけが輪郭を縫い留めてくれている。
「きゅーっ!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます