駄々

「ええーっ、行こうよ雪山」

 温泉から戻り、怠い体で一眠りしたら、思った以上に疲労が溜まっていたのか、閃が目を醒ました頃には巴もすっかり起きていた。不覚である。寒さは厳しいが人の善さそうな村だから、彼が起きる前に逃げてしまおうと思っていたのに。

 朝餉を食べながら雪山には行かない旨を伝えれば、上記のような台詞が返ってきた。ぷくりと頬を膨らませて上目遣いで見上げられる。かわいこぶる子供に閃は白けた目を向けて、汁物に口をつける。サヤエンドウのポタージュだ。他にも、溶けるほど煮込まれたジャガイモや玉ねぎが入っていた。まろやかな牛乳は、ここの特産だというチーズの原料だろうか。黙々と飲んでいる内に、身体の内側が完全に温まる。

「行くなら一人で行け」

「うわっひどい。こんな子供に一人で雪山に行けなんて。君には良心ってものがないの!?」

「殺人鬼に良心を求めんな。普通のガキならともかく、お前が野垂れ死のうが知ったことか」

「わーガチじゃん。ひっどい」

 酷いという癖に巴はケラケラと笑っている。閃は重たく溜め息を吐いた。本当に、わけのわからないガキだ。

「ねーえー。行こーよぉー」

「なんでんな行きたがんだよ……」

 何かあるのか、と問えば、巴は真剣な顔をした。緩かった空気が引き締まり、閃も自然と表情を硬くする。巴は、閃が広げていた地図の一点をとん、と指で叩いた。一番傾斜が緩やかで住人が多い雪山の、中腹よりも上方にある村だ。

「珍しくも寒さに強いレモンの木がこのへんに群生してるらしくてね」

「一人で行け」

「で、このミレア村の淡冷フグのしゃぶしゃぶはタレにそのレモン使ってるらしくて」

「一人で逝け」

「あれ発音が違う気がする」

 真面目に聞いた自分が馬鹿だった。閃は頭を押さえる。頭痛がする。憤然と唇を尖らせる巴に、怒りたいのはこっちだと言い返したくなるのを呑んで、桃色鯛を混ぜ棒マドラー二つで解体していく。巴がしげしげと手元をのぞき込んでくるのが邪魔だ。細かい骨まで取り除いてしまって、淡く花の香りを纏うやわらかな魚肉を口に運ぶ。簡素な塩焼きだが、それがいい。

「……君、実は結構いいとこの育ちだったりする?」

「は?」

「いや……」

 変なことを言い出した巴は曖昧に口を噤むと、小刀ナイフ突き匙フォークで魚をつつきだした。ぼろぼろとやわらかな身が崩れていって皿にぐちゃぐちゃに散らばる。大惨事だ。

「まあ冗談はさておき。その雪女には興味あるんだよねぇ」

狩猟者ハンターに行かしとけよそんなの」

「まだ魔物と決まったわけじゃないじゃん。もしかしたら魔術師かも」

 魔術絡みなら確かにバランサーの仕事だ。が、どのみち閃には関係ない。

「なら部下に一緒に行ってもらえ」

「嫌だよ面倒臭い」

「部下の方がお前を面倒臭がってるだろうよ」

 何処かの蒼穹で輪がくしゃみをしたのだが、二人とも知り得ぬことである。解せないと言いたげに顔をしかめた巴に、閃はひっそりと彼の部下たちに同情した。

「ねー、いーこーぉーよぉー」

「うっせー。黙って食えよ。飯に唾飛ぶだろうが」

「くそ真面目」

「くそ面倒臭ぇやつ」

「くそとか品がないよ」

「どの口が?」

 応酬が一区切りつけば、また「ねーいこー」と猫のように駄々をこね始める。食事を終えればさっさと村を出るために動き始めるだろうと予想しているからか、今日の巴は執拗だ。その予想は正しい。

 雪山での失踪を巴の部下たちも把握していたと、昨日言っていた。ということは、彼らが来る可能性もある。《くじら》が飛んできていれば気づけるだろうが、機動力にも数にも向こうに利がある以上、万が一にも捕捉されたくはない。巴だけ回収してくれるなら助かるが、警察組織が『黒髪の殺人鬼』である閃を見逃すはずがないだろう。

 雪女が黒髪だったのなら危険を冒すのもやむなしではあったが、そうでないのなら避けるが吉だ。


 巴はぷうと頬を膨らませる。

「こうなったら最終手段に出るよ」

「……何する気だ」

 幼子にしては低い声でそんなことを言いだすので、閃は思わず警戒した。食器を置いて、巴を見据える。

 巴は生真面目ぶった顔で口を真一文字に引き結ぶと、小刀ナイフ突き匙フォークを握った両手を机に置いた。どうでもいいが、口の周りはいつもの如く食べかすで汚れており、いまいち真剣みが足りない。

「聞いてくれないと――全力で悲鳴を上げます」

「やめろッ!?」

「逃げようもんなら幼児趣味だって言いふらしまーす! 幼児に対する性的暴行の罪で指名手配させてやるぅ!」

「ばッッッかお前! まじふざけんなッ!」

 加えて巴がすぅぅと大きく息を吸い始めたので、閃は咄嗟にその口を掌で塞ぐ。「ぶびゅっ!」と変な空気音が立った。身を乗り出した拍子に机が揺れ、食器ががちゃんと鳴ったが気にしている暇はない――閃にはないが、巴は目をかっぴらいて中身の少し零れた皿を凝視したかと思えば、恨みがまし気に腕を全力で連打タップしてくる。

 断熱の為に壁が分厚くて助かった。まあまあな騒ぎは、宿の誰にも気づかれずに終結した。

 奇跡的に料理は殆ど無事だった。それでも恨みがましそうにする、そもそもの発端である子供に、閃はぶっといため息を吐き零した。

「お前本当に本気でやろうとしたら、それより先にその首叩き斬るからな。斬って異空間に捨ててやる」

「本気でやらなきゃ斬らないんだ? でも今みたいなの誰かに見られたら、僕が叫ばなくても誤解は広がるよ」

「……やっぱ今斬ってやろうか」

 確かに成人男性が暴れる子供の口を塞ぎ押さえ込んでいたら事案だ。それは認めるが誰のせいだと思っているのだろう。またため息を吐いて睨むが、巴は悠々と食事を再開している。閃の視線に気づくと、きょとんと瞬きして小首を傾げた。

「何? もう食べないなら貰うよ?」

「やらねぇよ」

 遠慮会釈もなく閃の膳へと伸びてきた手を叩き落とす。食われる前にと、残りの食事を口に放り込み、咀嚼していく。

 巴は叩かれた手の甲をもう片方の手でさする。白藍の瞳が瞬く——そこに幼さはなく、理知の光が宿っていた。

「雪女が黒髪じゃないって確証もないんでしょ?」

 閃の動作が止まった。ゆっくりと金色の瞳が上がる。眉間にはしわが寄ったままだ。

「目撃者が髪に着目しなかった……だから黒髪じゃないっていうのは、些か早計すぎやしないかな? その女性が髪を隠していた可能性もある」

「……薄手の衣裳ドレスを着ていた」

「確定は衣裳ドレスまででしょ? 面紗ヴェールをつけてたかもしれないし、それは分厚かったかもしれない。厚くなくても、それで色味が違って見えたのかもしれない」

「……」

「もし、黒髪だったのなら。狩猟者ハンターにせよバランサーにせよ、捕らえられたら困るのは君なんじゃないの?」

 眉間のしわが、更に深くなる。巴はにっこりと笑った。金色の双眸が巴をキツく睨みつける。

 暫くの沈黙の後、閃は苦々しく唇を歪めた。

「……嫌な奴」

「お褒めにあずかり光栄ですってね」

 言いなりになるのは気に食わないが、どうしようもない。また、溜め息を吐いた。頭痛が酷くなってきた気がする。

「つーか理由があるなら言えよ。駄々捏ねてないで」

「ああうん。君を困らせたくて」

「ぶん殴るぞ」

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