聖女様

 流石にその言葉は聞き逃せなくて、閃は目を見開いた。

「は……? いや、暁、お前、……それ何年前のことだよ?」

「えっと十……十一か十二年くらい前、かな。本物の聖女様じゃあないと思うよ」

「だよな……」


 聖書に曰く、聖女には世界の歪みを正す力があり、彼女の愛を受けた者は、如何なるものにも脅かされなくなる。

 世界の歪みとは、すなわち黒髪のことを指すらしい。呪われた子の、その呪いを聖女は浄化してくれる。

 呪われた子の、生まれながらの罪人の、生きているだけで迷惑極まる害獣から、不幸にも呪いを受けた罪もない哀れな被害者を救ってくれる。

 誰にも生きることを望まれない、生きることすら許されざる生き物が生きることを許してくれる。

 

 聖女の存在は、黒髪の言い伝え同様に、昔から世界中に語り継がれられている。厳密には黒髪の言い伝えの方が早いのだが、数百年という長い時間の中では誤差だと、閃は思う。

 そんな昔の咄に出て来るような人物が、そんな十数年前にいるわけがない。教会の敬虔な教徒たちが、信仰対象である聖女を自ら名乗るなどという畏れ多い真似はしないだろうし、変なカルト教団の仕業だろうか。


「まあ何だったのか、今となっちゃわからないんだけどね――妹は、そいつに連れていかれた」

 黒髪の子の呪いを浄化するのだとか、言って。

 街の人々は渡りに船と喜んで、父に妹を渡すように言った。父は戸惑ってはいたけれど、浄化が終われば返しますと女に言われ、結局妹を引き渡した。暁は最後まで妹を連れ戻そうとしたけれど、街の人々に引き剥がされてしまった。おにいちゃん、と泣きながら伸ばされたちいさなちいさな手を、掴むことは叶わずに。


 妹は、そのまま帰ってこなかった。


「何年経っても帰ってこない妹に、父さんは心を病んでしまって、体調も崩して、去年死んじゃった。それで俺は、ばっちゃんに商売を教わる為に……違うな、あの街に居たくなくて、街を出た」

 街の人々が悪人だったのかと言われれば、そうではなかった。やさしくて、あたたかくて、ただ黒髪を恐れていた。それだけだった。聖女を名乗る女に、妹を渡すよう言ったのも、善意からだっただろう。彼らの信じる善意だった。

 その善意が、暁から妹も父も奪っていった。


 地獄への道行きは善意で舗装されている。


「暁、」


 やるせなさそうな表情を浮かべる彼に、思わず声をかけた。けどその先は続かない。言葉に迷って、閃は視線を落とした。暁ははっとして、へらりと笑う。

「長々、関係ない話までしちゃったね。ごめん」

「いや……」

「まあだから、俺が黒髪に抵抗がないのは、それで」

 この話はおしまい、と言うような笑顔で、暁は打ち切った。そう言われれば、閃も深追いはできない。

 くしゃりと、湯気でしっとりと濡れた黒い髪を掻き混ぜる。この色が悲劇を生む様は、行く先々で沢山見てきた。けど。


(聖女様、か)


 それは初めて聞いた。昔いた――今はいない黒髪の話なんて、聞くことがなかったからだ。黒髪の所在を探す中で、その話が出て来なかったということは、ここ数年は活動していないと見た方がいいだろう。カルトだとすると、潰れでもしたのかもしれない。


 本物の、聖書に出てくる聖女が黒髪の呪いを浄化する、というのは、恐らく事実だ。一般に聖女は雪のような白い髪をしていると言われる。黒髪――闇属性よりも更に稀少な、光属性の、色。光の特性は『浄化』らしい――そこから、黒髪の呪いも浄化すると、言われているのだろう。聖書の素となった聖女が魔術師だったのなら、闇属性が『破綻』した定義を『浄化』できる。

 聖女を信仰する教会は、同様に黒髪の呪いを解けるのだと言われている。黒髪に触られたら教会に行く、が市井の常識だ。信仰しているからと言って、彼らが光属性の魔術を使えるわけではないから、効果なんてものはない。敬虔な教徒たちの信仰が本物でも、効果がないものを効果があるのだと偽るのなら、寄付金目当ての詐欺とどう違うというのか。


 そのを名乗った女だって、光属性でないのなら、属性の魔術は使えない。


 だが……もし。

 もし、その女も、光属性だったのなら。


「……暁、その聖女のパチモン、髪の色はなんだったか、憶えてるか?」

「髪の、色?」


 光属性だったのなら。

 浄化の魔術が使えるのなら。


 ――定義の浄化とは、すなわち、自然的な、あるいは魔術的な書き換えを受ける前の状態に還すことだ。それまで積み上げていたものを、ゼロに戻すことだ。


 目的は検討もつかない。彼女が黒髪の子たちに接触を続けていたのなら、もしかしたら。


「えっと……確か、白、だったかな。聖女様と同じで、珍しいなって、思ったんだ」


 ぎり、と手に力をこめた。

「どうか、した……?」

「いや?」

 閃の顔色に気づき、恐る恐ると尋ねてくる暁に、僅かに笑って首を横に振る。

「ほんとに聖女様みたいな格好してたんだなって」

「ああ……そうだね。街の人たちも、それで本当に聖女様なんだって思ったんだろうし。白い髪の女性って言ったら、やっぱり聖女様だもん」

 だからって、そんな大昔の人が今も生きてるわけないのに。ぶつぶつと愚痴る暁は、誤魔化されてくれたようだった。


 白い髪だったというのなら、『浄化』の魔術を使えた可能性は高くなる。活動していた時期も

 確証は何もない。

 だけど、もし。もしも、その聖女の偽物が、関わっているのなら。

 捜し出さないと。捜し出して、問い詰めないと。


 奪い返さないと。


 キリキリと脳の神経が痛んでいる。


「そういや暁、……悪いんだけど、お前のいた街って何処?」

「えっ」

 閃の問いに暁はぎょっと目を見開いて、眉を寄せた。

「……行くつもり? やめた方がいいよ。あの街……いや殆どのとこじゃそうなんだろうけどさ。黒髪に対しては……酷いし」

 普通に賑やかで、穏やかで、やさしい、あたたかい街だ。けどそのあたたかさは、黒髪には与えられない。黒髪に対する差別に、彼らは何の疑問も抱かない。差別することが当たり前だと思っている。迫害することが当たり前だと思っている。子供が黒髪である妹を蹴り飛ばしても、被害者となるのは黒髪に触れてしまったその子供の方だ。そういう街だ……そういう、世界だ。

 妹と同じ黒髪である閃を気遣っての言葉だったが、閃は呆れたように半目になって、ため息を吐いた。

「ちげーよ。逆だよ逆」

「……逆?」

「行かない為に、聞いてんだよ。危険リスクは可能な限り避ける。旅の鉄則だろ」

「あっ……」

「新米め」

「ううううるさいなぁっ」

 悪戯っぽく笑うと、暁は顔を真っ赤にした。ぐう、と唸って、暫くしてから、そういうことなら、と口を開く。

「シラヴァットって街だよ。南の旧クレゴ軍国領の、『聖域サンクチュアリ』寄りのとこ」

「シラヴァット、ね。じゃあ南に行くときには気をつけないとな……」

 後で地図を確認しておこう。暁にはああ言ったが、実際には行く気だ。その聖女の偽物を捜すには、無闇に放浪するより、目撃されたという場所に行った方が早い。危険リスクは当然高いから、そこまでの道中で情報を得られれば、それに越したことはないのだが。

 今後の行程ルートを吟味していると、それより、と暁が口を開いた。

「失踪事件の方は訊かないの?」

「……あっ」

「忘れてたの!?」

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