凍華

「もしもし。……ああ、『祝福』が漸く解けていましたので、ご報告を」


 通信端末から仄赤い光が溢れていた。

 西の隣国、レビエイジ工業国から輸入され、国家機関や富裕層を中心に使用が広まっている通信端末は、この国では電力ではなく魔力を媒介に通信を可能にしている。通信距離によっては魔力が足りずに繋がらないこともあるけれど、外部からの傍受や干渉を受けにくいのが利点だ。近年改良が進み、より魔力効率をよく、より持ち運びやすくはなってきているが、魔術師でなければ使えない仕様である以上、市井しせいには全く出回っていない。

 つまり、このすぐれて豊かだとは言えないジダ村で、こんなものを持っている彼は、随分と異端だった。


「宜しいので? ……はい。では、引き続きこちらで」

 通信が切断され、光が融けるように消える。彼は頬に手を当てて、酷く悩ましげにため息を吐いた。

「好きに、か。今代はなかなか無欲で、転がしにくい」

 代わりに勝手に転がってくれるけれど、それはそれでやりにくい。

 長い睫毛に縁取られた瞳が伏せられ、けれど楽しげにを見る。針金のような指が伸びて、濡羽色の髪をやさしく散らす。


 知っている男だ。

 ぼんやりと、頭の芯が痺れている。夢見心地のまま、閃はただ、自分に触れてくる男を見上げる。体は糸が切れた操り人形のようにぴくりとも動かない。思考もまた停滞している。知っている男だ、とだけ、頭が反芻していた。それ以上思考が続かない。誰だろうかと考えることすら、塞がれていた。

 下りてきた男の指が、蟀谷こめかみを、頬を、首筋を撫でていく。戯れのように太い血管の上で力を込められ、呼吸が乱れた。それはほんのひと時のことだったのに、くすりと零れた吐息に身が竦んで、息苦しさだけが継続する。愛玩動物の仕草に微笑うのと同質のものだったのに、どうしてか、つめたくて。けれど撥ねつけることなど、思い浮かべることすらできなかった。うっとりと目元を緩めて、男は両腕を閃の首裏へと回した。密着する体。華の匂いがした。せかえるような、豊潤で、甘ったるくて、溺れそうになる。ぐらぐらと視界が回って、思考が塗り潰されていく。

 耳元に唇が寄せられる。息がかかると、生理反応で体が跳ねた。耳に吹き込まれる言葉が、頭の中でうわんと反響する。


「大丈夫。ちゃんと迎えにくるからね。私の可愛い、可愛い傀儡にんぎょう


 だから早く、





「――――、――ン、セン、おい閃ってば! 起きなって!」


 ぱちりと目を開けると、視界が光に眩んだ。眉間に力を入れて、数度瞬きを繰り返す。すぐ目の前にあった琥珀色の瞳が、呆れたようなほっとしたような色を浮かべた。

「…………アキ、……?」

「うん。はあ、まったく……こんなとこで寝たら風邪ひくぞ? 体冷えてるじゃんか。早く温泉入ろう」

 暁は閃の肩から手を離して、自分の服に手をかける。ぼたんを外していくのをぼんやりと眺めながら、閃は記憶を掘り起こす。

 そうだ。此処は脱衣場だ。言われた時間になったから来たはいいけど、暁はまだ来ていなくて、椅子に腰掛けている内に意識が遠ざかってしまったのだったか。

 ふと、視界が妙に広く、明るいのに気づく。ぎょっとして頭に触れる。手に触れるのは覆いフードではなく、濡羽色の髪だ。覆いフードを落として寝ただろうか。それとも寝てる間に落ちたのか。こんな、いつ誰が来るとも知れない場で。

 冷たい汗が首裏を伝う――豊潤な華の匂いがした。

(……香水コロンか?)

 なんで、こんな匂いが。


 ぽんと、頭の上に掌を置かれた。

「…………暁?」

 あ、意外とやわらかい、などと言いながら、暁はわしゃわしゃと掌を動して、閃の髪の毛を乱していく。

「おりゃおりゃー」

「な、に……!?」

「あーすごい。クセになりそう。きもちー」

「~~ッ、やめろ!」

「あぐっ」

 腹目掛けて手刀を突き出す。どすりと、音。鳩尾に入った。奇声を上げながら暁はうずくまる。自業自得だ。ぐしゃぐしゃに乱された髪を掻き上げて、閃はダンゴムシのように丸くなった無様な背中を見下ろした。

「何がしたかったんだ暁」

「元、気、……でるかな、って……」

「だからって」

 一応閃を気遣ってのことだったらしい。それでどうして髪を掻き乱すなんて手段に出たのかは知れないが。

(つーか、髪……)

 触ったからって、害があるわけではない。ない、筈だ。「呪われた子に触れたら怪我を負った」などという話も聞いたことがあるが、信憑性は如何程のものか。人に害があるなら物にだって害があるはずだ。閃の覆いフードは特にほつれやすいということもない。

 ただ、絶対にない、と言い切れることでもないのだろうとも思う。

 暁の掌を見ようにも、腹を押さえているその格好では見えやしない。けど、その手に痛みがあるなら腹を押さえることは苦痛だろう。

 暁は汗を浮かべた顔を上げて、へらりと笑った。

「とりあえず、入ろうよ。寒い」

 それは半裸になっているからだと思う。いでぇーと呻きながら下も脱いでいく。


「閃」


 ぼんやり眺めていると、名を呼ばれた。振り返った琥珀色の瞳が、真摯に見つめてくる。


「中には誰もいないし、此処に来るまでにも誰も見なかった」

 だから、大丈夫だよ。

 やわらかい声で言われて、臓腑の奥底にへばりついていた不安が溶かされていく。

「……そう、だな」

 ようやっと、閃も自分の服に手をかけた。人と風呂に入るのなんて、一体何年、……いや、そんなこと、そもそもあったのだろうか。服を畳んで籠に入れる。


(……そういや、何に気付いたんだったっけ)


 服をぽんぽんと叩いた。こうすれば思い出させるような気がしたのだ。けれど端すら掴めない内に暁に急かされて、浴巾タオルを持って温泉へと向かった。

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