商人の孫

「あーっと、暁、は何処の宿なんだ?」

「ああ、そこだよ。おんなじ宿。というかこの村に宿はひとつしかないからね」

「そうなのか」

 宿を選り好みする時間もなかったから知らなかった。確かに見て回った感じ宿らしい様相の家は他になかったか。ということは、あの宿には温泉があるのか。

 温泉がある場所はなかなか珍しい。天然でない温泉は幾つかあるけれど、そういうのは基本的に富裕層御用達の高級宿だ。閃には縁がない。巴なら或いは、あれでも高給取りだからあるかもしれない。

 まあしかし、黒髪であることがバレれば叩き出されるだろう。人のいない時間を狙うにしても危険リスクが高い。大人しく諦めておこう。

「暁はなんでまたジダ村に?」

 宿への道を並んで歩きながら尋ねる。ベリジャニアで話していた感じからして、雪山の方に来る気はなさそうだったのだが。暁はなんだか照れ臭そうにはにかんだ。

「あーいや……閃のことが心配でさ」

「俺?」

 予想外の答えに、閃は覆いフードの奥で金色の瞳を見開いた。それこそなんでまた。少し話した程度なのに。

「……俺、まだ商売始めたばっかでさ。それで、同い年くらいの旅人さんなんて、閃が初めてだったんだ」

 同い年くらいなのに、すげーなって、思った。暁はただ前を向いている。俺はまだひとりじゃ外套ひとつ売れないへなちょこなのに、閃はひとりで旅してて、すげーな、って。琥珀の瞳が少し伏せられた。浮かぶ悔しさ、羨望。


「俺ももっと頑張ろうって、思った」


「……そっか」

 別に、羨ましがれるような生き方はしていない。閃の正体も、旅の目的も、知らないからそう言えるだけだ。

 でも、その羨望を壊す必要性もない。

 羨んで妬んで思考停止するのではなく、向上心に繋げられるのなら良いことだろう。

「……だから、あんな事件があって、すげー心配になって。そしたらばっちゃんが、『生きてるんならジダ村に行くだろう』って言ってくれて。ばっちゃんも、あの失踪の噂をもう少し調べたいからって……」

 だんだんと語尾が小さくなって、誤魔化すように「なんか、気持ち悪いな! ごめんな!」と暁は後頭部を掻いて視線を泳がせる。閃は苦笑して「いや、」と首を横に振った。

「ありがとな」

 暁は一瞬呆けて、それからにへらと笑った。


「ジダ村にはいつ着いたんだ?」

「一昨日の深夜だよ。うち馬車だし。だから情報は多少持ってるよ。失踪の件もね」

「まじか」

「大まじ」

 其処は詳しく訊いておきたい。こちらの部屋に招くのは、巴が茶々入れてきそうではばかられるが、暁の部屋に邪魔をすることはできないだろうか。じっと見つめると、暁は思案するように顎を撫でた。ぱ、と表情を明るくして、指を鳴ら――そうとして、けれど革手袋をした手では擦れる音がしただけだった。

「折角だし、温泉にでも入りながら話そうか」


 ぴしりと体が凍りついた。


「妙案だろ? あったまるし、なんかこう裸の付き合いって言うんだっけ? 面白そうだよな」

 そう言って笑う暁に「そうだな」とも言えず、視線を彷徨わせ、覆いフードを更に目深に引っ張る。どうやって断るか。だが情報を欲しがっておいて、それを断るのはあまりにも不自然だ。首の後ろを流れた汗が冷やされて、寒気がした。

 垣間見た暁の表情に不審が浮かび、幾らかの沈黙の後、「もしかして、」と唇が動いた。

「閃、お前、」

 驚愕に見開かれた、琥珀。


 まずい、バレる。


 幸運にも宿はすぐ目の前だった。引きつった笑みを浮かべて、空気を断ち切るように「じゃあ」とだけ告げ宿に飛び込もうとして、その寸前で腕を掴まれた。

 気づいただろうに、まさか自分から触れてくるとは思わなくて、動きが止まる。


 暁は、穏やかに、少しだけ泣きそうな顔で笑うと、閃の耳元に口を寄せた。


「四刻後、温泉な」


 その時間なら人もいないから。その内容もまた、すぐには理解できなくて。思考停止した閃の頭をぽんと撫でると、暁は先に宿に入っていった。


「……は?」


 彼がいなくなって暫くして、漸く彼の言葉を飲み込んだが、やはり意味がわからなかった。

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