悪夢の招宴 その一
悲鳴がこだましていた。咽せかえる血臭に、心臓が跳ねる。賑わっていた大通りは、この世の地獄に変わっていた。煉瓦造りの家の壁には毒々しいほどに鮮烈な赤が飛び散り、石畳の上にも血溜まりが広がっている。石と石との隙間を、血がじわじわと流れ、その面積を広げていく。
悲鳴がこだましていた。誰の悲鳴だったのだろう。こだまだけが遺っていた。
賑わっていた筈の大通りには、今は大量の死体ばかりが転がっている。
閃は口元を手で覆った。かたかたとその手は震えている。ひどい血臭だ。心臓が早鐘を打つ。浅くなる呼吸をなんとか落ち着かせようと、奥歯を食いしばった。
血の海へと、足を踏み入れる。ぬちゃりと、まだ乾いていない血液が、足の裏で音を立てた。
商人、作業着を着た労働者、親子、更には警邏まで、死んでいた。殺されていた。腹部で切り離されて、首を斬り飛ばされて、殺されていた。その全てが、豆腐でも切ったかのような、綺麗な切断面。
「あ、さっきのおにいちゃん」
子猫の甘えるような高い声が、地獄に響いた。
閃は足を止めた。呼吸を宥めながら、ゆっくりと横道に視線を向ける。
血潮に濡れた黒い髪の少女が、錆つき刃こぼれした
「おにいちゃん。さっきはぶつかってごめんなさい。あと、
ぺこりと頭を下げてはにかむ少女。陽だまりの中でなら微笑ましかっただろう。血の惨劇の中では、余りにも不釣り合いな表情だ。
だが閃は、少女の表情を気に掛けることなどできなかった。彼女の足元から目を逸らせなかった。
首のない体。
体格の良い成人男性。逞しい腕には見覚えがある。着ている服にも。
少女は閃の視線に気付くと、ああ、と声を漏らして踵を返し、少し向こうに転がっていた何かを拾い上げると、それを彼の方へと放り投げた。血溜まりの上を数度跳ねたそれは、閃の靴にぶつかって転がるのを止める。血走った目が、閃を見上げてくる。
焼き鳥屋の店主の、生首だった。
口元を覆う手に、力が籠もる。思わず背を丸めた閃を気遣うように、少女は笑みを明るくする。
「大丈夫だよ。おにいちゃんは殺さないであげる。律を助けてくれたし、怒らないでくれたから」
「……、」
「みんなひどいんだよ? 黒いからって、いじめるんだもん。律は何もしてないのに、ばけものばけものって……それでママを……」
黒い髪が、俯いた少女――律の目元を隠す。
「……ママを、ころした」
ぎゅうと、
閃は、生首の濁った目から視線を外して、少女を見る。口から手は外せそうになかった。くぐもった声で、尋ねる。
「……殺したのは、チンピラじゃなかったか?」
「そう。こわいおにいちゃんたち。……でもね。律、聞いてたの。みんなが話してるの。律が黒いから、ママは殺されたんだって。のろいを産んで、育ててたんだから、しかたないって。死んで、当然だって! そんなことないのに!」
律は泣き出しそうな顔で叫んだ。
ママはやさしかった。いつも守ってくれた。だきしめてくれた。大丈夫って、笑いかけてくれた。
死んで当然だなんて、そんなこと全然ないのに。
「だから、殺してるのか」
昨日の殺人事件の被害者は、中央を屯しているチンピラたちだった。恐らくは、律の母親を殺した者たち。
でも今のこれは、ただの殺戮だ。復讐ではない。
律は、俯いていた顔を少しだけ上げた。だらりと、手から力を抜いて、
「……みんなね。律が殺したおにいちゃんたち見て、殺人鬼の仕業だって言ってたの。おにいちゃんは知ってる? 『黒髪の殺人鬼』。律とは違う、黒髪の人が、たくさん殺してるんだって」
「……ああ、知ってる」
『黒髪の殺人鬼』。
何年も前から、あちこちに出没しては何十人も殺している殺人鬼だ。顔どころか性別すらわかっていない。ただ、目撃者がいたのか、黒い髪をしていることだけが明らかにされている。
――その殺人鬼が殺した死体の切断面は独特だ。豆腐でも切ったかのように滑らかに、脂肪も内臓も骨も綺麗に両断する。
ここに倒れる死体たちと、同じように。
「そうなんだ。ほんとに有名なんだなぁ。すごいなぁ……。それでね、律が殺したおにいちゃんたちも、律が殺したのに、その殺人鬼さんの所為になってたの」
みんな、黒髪の殺人鬼が来たんだーって、怯えてたね。律は目尻に浮かんだ涙を、血塗れの手で拭った。べちゃりと隈取りのように赤く染まる。
「おかしかった」
発狂した光を宿した桃色の眼を見開いて、彼女は恍惚と嗤う。
「おかしかった! おっかしかった! 律がやったのに! みんな違う誰かに怯えてた! ばっかみたい!」
くすくすと、きゃらきゃらと、嗤う。嗤う。響く。鈴が鳴るように。耳鳴りのように。甲高く、響く。
嗤いは、ぴたりと、止んだ。僅かな反響も、やがて消える。
「――それでもだぁれも、律を助けてくれなかったぁ……」
誰も彼女を気にかけなかった、というわけではなかっただろう。焼き鳥屋の主人のように、恐れながらも律を心配している人はいたはずだ。
でも、行動しなければ、伝わるはずもなかった。
伝えようとしなければ、伝わるはずもなかった。
……その結果が、これなのだろう。閃は、足元に僅かだけ意識を向ける。血錆の匂いで充満した、鮮烈な赤の、地獄。
「それでも……みんなが怯えてる間は、よかったんだよ。うん、たぶん……よかったんだよ」
ざまあみろって、嗤っていられたから。律は力なく笑った。
「本物の、『黒髪の殺人鬼』が来ちゃうから。街の外で殺しちゃうから……みんな、殺人鬼が街から出てったんだって、言い出した」
律が此処にいるのに、殺人犯は此処にいるのに、皆安堵した。怯える様を嗤えなくなった。
「だから……だから、殺したの。『黒髪の殺人鬼』じゃない。律が殺してるんだって、わかるように、いっぱい殺したの」
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