その価値は5千円・3
広々とした10畳の和室は、それはもうすばらしい部屋だった。
何より窓からの景色が美しい。植物についてはよくわからないけど、緑色づく山々の景観は天気のよさもあいまってため息が漏れるほど綺麗だった。
窓を開けると心地よい風が体を撫でた。澄んだ空気がとてもおいしい。ここにいるだけで悟りが開けそうな、そんな清らかさに満ちている。すばらしい場所だった。
これがまあ一人旅ならリラックスもできようものだけど。
「いい眺めだね、久坂さん」
背後から聞こえた声に、あたしの体は思わず固まってしまう。
おそるおそる振り返ると、川中くんはにこにこ顔であたしのことを見つめていた。ちょっとたじろぐ。
10畳もの和室を用意してくれているということは、つまりはそういうことなわけで、一人部屋なわけがないのだった。
「あのさ」
少し距離をとりつつ、あたしは口を開いた。
「やっぱりこれってよくわかんない状況だと思う」
あたしの言葉に川中くんは笑った。
「それはもうここに来るまでに何度も聞いたよ」
そのとおりだ。しかし何度でも言いたくなる気持ちも少しは理解してもらいたい。なぜならこうして旅館までやってきているというのに、いまだに納得できずにいるのだから。
宿泊券を買い取ってもらうまではよかった。しかしそのあと彼が、それを売りつけた当人を誘うという理解できない行動に出ることはまったく予想できなかった。
あたしは何度も断った。しかし彼はあきらめずに繰り返し誘ってきて、さらにはこちらの見落としを指摘してきた。
「確認してみたんだけどさ、この宿泊券は久坂さんがいないと使えないらしいよ」
「……は?」
「転売防止のためだろうね。旅館側も久坂さんの名前で登録してあるんだってさ。身分証のコピーもあるみたいだし」
「まじで?」
「まじで」
そういえばなんか紙に名前を書いた覚えが。あれってそのためのサインだったんだ。学生証のコピーも身元の確認くらいにしか思っていなかった。
「ということは」
「やっぱり久坂さんはぼくの誘いに応じるべきだね」
「行かないという選択肢も」
「5千円返してくれるなら考えるけど」
……とまあそういうわけで、気乗りしないまま彼といっしょに旅館にやってきたのだった。
5千円返そうかとも思ったけど、それはさすがに悪い気がした。もちろんそれは倉庫内作業バイト6時間分の額だからというわけではなく(そこまでセコくはない)、一度売りつけたものを返してもらうのはさすがに気が引けるのだった。それに見落としはこちらのミスなわけで、元々温泉旅館自体には行ってみたかったわけで、といろいろ理由をつけながら道中を過ごして今に至る。
1日くらいならいいんじゃないかとは考えなくもない。しかし相手はちんちくりんのおっとり型とはいえ男なのだ。それもそんなに親しい相手でもない。来てしまった以上、覚悟を決めるべきなのだけど(もちろん変な意味ではなく)、そこはそれ感情というか気持ちの問題なので、簡単に割り切れるものでもなかった。
「とりあえずどうする? さっそく温泉にでも入る?」
そんなあたしの葛藤など気にも留めない様子で、川中くんはお風呂に行く準備を始めた。来たばかりだというのにせっかちな。
「あー、あたしは後から入るから、お先にどうぞ」
「そう? じゃあお先に」
着替えとお風呂道具を抱えて、川中くんはどこか楽しげな様子で部屋を出て行った。あたしは一人になった途端、大きなため息をついてしまった。
いかんいかん。せっかくの温泉旅館だ。彼のことは気にせず、できるかぎり楽しもうじゃないか。下の売店には何があるかな。お土産を買っていく相手なんて親以外いないけど、お土産は必ずしも他人のためにあるわけじゃない。おいしいお菓子があれば買って帰りたいじゃないか。家でおいしく食すのだ。
ふと、クローゼットを覗いてみた。
やはりあった。浴衣だ。
そりゃあね。温泉旅館だもんね。あるよね。
しかし、これを着ることはないだろう。川中くんがいるのだ。これはさすがに恥ずかしすぎる。それ以前の問題か。隙がありすぎる。
今からでも部屋を分けてもらおうか。けど、それなら追加料金はいくらくらい取られるのだろう。
座卓の上にあったお茶請けのせんべいを食べながら、あたしはそれから温泉につかるまでずっと益体もないことで悩み続けた。
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