その価値は5千円・2
まさかの休みだった。
係長が欠勤て。いや、風邪らしいからしょうがないけど。
しかし落胆も大きかった。知り合いとはいえそこまで仲がいいわけでもない相手に交渉を持ちかけるのだから、結構気合を入れてきたのだ。それがまさか欠勤だなんて。ただ、心のどこかで「これでよかったのだ」という思いがあることも確かだった。たかが3千円のためにあたしは何をやっているのだろう。すでに心の中で3千円で確定しているあたりが自分の器の小ささを表しているような気がする。そもそも額の問題じゃないし。
バイトが終わっても、すぐに帰る気にはなれなかった。来る前は相当気負っていたので、その気が抜けてしまったせいかもしれない。控え室で椅子に座って、ぼんやり天井を眺めていた。
右手を蛍光灯に向けて掲げる。その指の間には、役に立たない宿泊券。
なんでペアなのかな。いいじゃん別に。1人でも。そっちの方が気楽なんだから、少しは融通利かせてよ。シングルで宿泊でもそこそこ楽しめるのに。おいしい料理も温かい温泉も、あたしは嫌いじゃないよ。だから、いいじゃない、1人でも。
「ちくしょうめー」
「どうしたの?」
唐突にどこかからか男の声が降ってきた。うひゃあと変な声が出てしまった。パイプ椅子から転げ落ちそうになるのをなんとかこらえて、あわてて周りを見回す。
長机越しに、同僚の男が立っていた。男の子といってもいいくらい、線の細い、童顔の、背の小さな相手だった。
お互い担当商品が違うから、そこまで話をしたことはなかったけど、名前くらいはわかる。たしか……
「か、川中くん?」
相手はにっこり微笑んだ。どうやら合っていたみたいだ。
「どうしたの、久坂さん。深夜の人たち、もうすぐ来ちゃうよ」
倉庫には深夜も荷物が運ばれてくるので、その時間帯にも働く人たちがいる。深夜なので、時給はあたしたちよりも高い。ちょっとうらやましかったりする。
「あ、いや、その……」
あたしは口ごもってしまった。うまくしゃべれない。友達ができないことにはそれなりの理由があるわけで、口下手なこともその一つだった。ましてや特に親しいわけでもない異性が相手だ。おとなしそうな子で、男臭さというかいかつさは感じないから、そういう意味での抵抗は少ないけど、だからといって自然に話せるわけでもない。
「それは?」
固まっているあたしの手元を指差す川中くん。そこには宿泊券が入った封筒が。茶封筒ではなく白い厚手の封筒で、表にはご丁寧に「○○温泉旅館ペア宿泊券」と印字されている。
彼の視力はそれなりにいいらしく、あたしが隠す前にその文字をしっかり捉えたようだった。
「宿泊券? 久坂さん、旅行に行くの?」
「あー……それは、その……」
口下手ということだけではなく、今度は説明そのものに困ってしまった。あたしは行かない。その代わりに行ける人を探している。それをどうやって説明しようか。それともごまかそうか。
と、そこでふと思いついた。
どうせ係長は休みなのだ。ならば、別の人間に話を持ちかければいい。
「川中くん」
「ん?」
「よかったら、いる?」
本来なら、よく知らない相手に交渉を持ちかけるなんて真似は願い下げだ。しかし川中くんはどうやらこの券に興味を持ったらしい。それはつまり「相手に興味を抱かせるために話をする」という手間が省けるということだ。もちろんただではくれてやらないけど、話の切り出し方としてはこんな感じでいいだろう。
「え、くれるの?」
案の定、川中くんは食いついてくれた。
「あ、……買ってくれないかなって、話なんだけど……」
「え?」
途端に川中くんの目が怪訝なものになった。いやまあ、そりゃそうだよね。
小細工はしない。そんな話術もない。正直に打ち明ける。正面突破だ。どもらずに言えるかな。
「えっと、これ、くじ引きで当たったやつなの。でも、ペアチケットなの。あたしにはいっしょに行く相手とか、その、いないから、あー、誰かに買ってもらおうかなって……」
言ってから、失敗したかもと少し後悔した。ここまで正直に言う必要あったんだろうか。買ってもらおうかななんて、その言い方はあまりにストレートすぎる。
川中くんの表情が微かに曇った。引かれちゃったかな、ひょっとして。
言い訳タイムだった。
「あ、いや、別に売りつけようってわけじゃなくて、できればってだけで、でもこれ、本当なら何万円もするんだけど、二、三千円くらいで買い取ってもらおうかってほんのちょっと思っただけで、だ、だから変なこと言ってごめん、ごめんなさい」
うわ、どうしようどうしよう。ものすごくテンパってる。しかも諦めが悪い。言い訳にすらなってない。最悪だ。いやほんと、ただの出来心だったんです、ほんと、
「いいよ」
ですよね、世の中なめてますよね、もうあたしったら何やってんだろばかみた
「え?」
……いま、なんと?
「うん、いいよ。買うよ」
……まじで?
川中くんは財布からお札を取り出す。
「1万円札と5千円札しかないや。5千円でいい?」
「え、あ、え」
「おつりはいらないから」
そんな台詞を現実に吐くやつが本当にこの世にいたなんて。
「ごめんね。1万円はさすがにあげられない」
いいえ、樋口さん上等です。諭吉さんはさすがに恐れ多いです。ちょっと前まで皮算用していた自分が恥ずかしい。5千円までならまけてやってもいいとか思ってて誠に申し訳ございませんでした。
こうして無用の長物だった宿泊券が、あっという間に樋口さんに化けた。なんだこれ。化けたというか、化かされている感じだ。
もちろん5千円なんて、ちょっと働けばすぐに手に入る。しかしくじ引きで5千円当たったとなると、これはそこそこうれしいものだ。少なくとも使えない紙切れなんかよりはるかにうれしい。
それもこれも川中くんがあたしに話しかけてきてくれたからだ。ありがとう、川中くん。先ほどは話をするのもめんどくさいとか思ってしまって誠に申し訳ございませんでした。さっきから謝ってばかりだなあたし。
と、そこで気になる問題が。
「あ、さっきも言ったけど、それペアチケットだからね。誰かといっしょに行かないとただにはならないよ」
「うん、わかってる」
「彼女でも誘って行けばいいよ。友達でもいい」
「彼女なんていないよ」
「いや、誰でもいいんだけどさ。なんなら好きな相手を誘ってみるのもいいんじゃない。告白の道具に使ってくれてもいいから」
思えばこのときのあたしは普段と違ってずいぶん口が滑らかだった。たぶん調子がよかったのだろう。おもいがけない幸運にめぐり合えて舞い上がっていたのだ。安い調子だった。
すると、川中くんは苦笑いを浮かべた。
少し驚いた。あまり知らない相手ではあるけど、そういう困り笑いのような表情はイメージにない顔だったからだ。ややぎこちなさがある笑みだった。
「じゃあ、そうしようかな」
川中くんは財布を仕舞うと、あたしに向き直った。
ちょっとだけ、気おされた。
なんだろう。一体。
川中くんはあたしの顔をじっと見つめると、落ち着いた声で言った。
「久坂さん、いっしょに温泉旅行に行こうか」
…………
…………え?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます