第7話

 興(おく)ヶ原(はら)に告白したその日の夜、俺は一睡もできずに朝を迎えた。

 目の下には酷い隈ができていて、目は充血に充血を重ねて、血走っているようにしか見えない。

 それでも登校しないわけにはいかない―――、むしろ俺はいつもより早く家を出て、学校へと向かった。


 俺の登校ルートだと、高校の敷地内に入ってから、後者に行くまでにグラウンドの周りを一周する必要がある。途中で朝練に励む野球部だとか、後者周りで走り込みをしているバスケ部、はたまた壁打ちをしているテニス部の姿が視界に入る。


 入り口付近で壁打ちをしているテニス部の前を通れば、


「九ノ瀬君、おはよう。顔、大丈夫?」

「おいっす。ちょっと緊張でな……」


 グラウンドでキャッチボールをしている野球部の前を通れば、


「スグルー! 今日早くね?」

「お前らほどじゃねえよ。良いから練習しとけって」


 校舎に近づくと、走り込みをしているバスケ部共が現れて。


「九ノ瀬じゃん。珍しいね、こんな時間に」

「まあ、ちょっとな」

「? そう。それより、今度大会があるんだけど、よかったら助っ人に来てくれない?」

「気が向いたらな」

「頼んだよ!」


 とか言って、走り去っていった。

 一年のころ、色々な部活に入っては抜けるを繰り返していた俺は、なんだかんだで顔が広い。

 普通なら途中で抜けた奴なんてハブられ気味になるものだけれど、嬉しいことにむしろあいつらは好意的だった。

 興(おく)ヶ原(はら)という完璧超人の隣に立つには、自分もそれに見合う男になる必要がある。だから部活を転々として、頼られるようになるくらいにまで練習して、上達しては抜けていた。


 すべては興(おく)ヶ原(はら)に認めてもらうためだ。


 幸いにも運動神経はそこそこ良かったようで、ある程度練習すれば『部活に入ってないくせに運動神経が良い奴』くらいにまではできるようになったから、幸いだった。


 二年に上がって、勉強に集中するために部活はきっぱりとやめた。

 そして、文芸部の部員となった。





 教室にいっても、誰一人としていなかった。流石に早く着きすぎたらしい。


 自分の席について、置き勉しておいた教科書を机から取り出して、開く。


 興(おく)ヶ原(はら)に相応しい男になるには、勉強だってできなくてはいけない。

 そんな思いから始めた勉強が、正直一番きつかった。


 授業のほかに、一日8時間きっかり。今まで勉強してこなかったツケも回って来て、最初は全然成績が伸びなくて、教科ごとの先生につきっきりで教えてもらったりもしていた。


 それがどうにかこうにか、テスト対策を完璧にして学年一位になるまでに至ったわけだけれど、二位の興(おく)ヶ原(はら)とは1点差だった。

 先生は短い期間によくやったと褒めてくれたけれど、あまり納得はいっていなかった。学内テストの対策という限定的なことをしておいての結果が、一点差だったから。


「頑張ったよな、俺」


 自分に言い聞かせるように、小さくつぶやく。

 これまでの努力が、成果に実りますようにという祈りを込めて。


 すべては、今日この日のためだった。


 去年の春。自分が一目惚れをするとは微塵も思っていなかった。

 今まで何をやるでもなく適当に過ごして、無難に物事をこなすだけだった俺の、初恋だった。


 興(おく)ヶ原(はら)は新入生の中で主席で合格したようで、曰く、全国模試二桁の才女。テレビを見なかった俺は知らなかったけれど、中学生までは子役として芸能活動をしていたとのこと。

 その時の俺は、これは不味い、と思った。


 何も才能のない、やる気もない、ただどこにでもいるようなモブと。

 未来の明るい才女で、周りから期待されているような主人公。


 俺と興(おく)ヶ原(はら)では、明らかに釣り合わない。

 だからこそ、一年間。必死に、生き急ぐように、努力してきた。


 すべては、興(おく)ヶ原(はら)の隣に立てるように。


「先輩、おはようございます」


 教室の入り口から声が聞こえて、俺は顔を上げた。

 周りを見ても、まだだれも来ていない。つまり、俺のことだろうと入り口の方をみた。


 衣替えの期間だというのに、黒いブレザーと膝下まであるスカートを履いた少女。

 文芸部の後輩。

 部室で勉強をしている俺の隣で、いつも本を読んでいる。

 三碓奈緒が、両手をお腹の前でもじもじとさせながら立っていた。





◆ ◇ ◆




 椅子の向きを180度変えて、三碓は俺の目の前に座った。


「なんだよ、こんな時間に」

「えへへ。校舎に入っていくのが見えて、ちょっと追いかけてみました」

「わざわざ二年の教室まで?」


 一年生の教室は、渡り廊下を超えた先の校舎にある。

 つまるところ、こことは反対側だった。


「いいじゃないですか、誰もいないんですから」

「いや、そういう意味じゃ……まあいいけど」

「先輩、目が赤いですよ」

「ちょっと寝不足なんだよ」

「また勉強ですか? ほどほどにしないと、身体、壊しますよ? きちんと休みましょう?」

「まあ、今度な」


 それだけ答えて俺が勉強を再開すると、三碓は頬を膨らませて、視線だけで異議を訴えてくる。


「………わかったよ、どうすればいいんだ」

「放課後は、部室で寝てください。今は……」

「今は?」

「私とお話ししましょう」


 三碓は目を細めて俺に微笑みかけてくる。


「わかった、わかった。どうせ、今日はあまり集中できないからな」


 告白の返事が気になって、それどころではない。


「じゃあ――――」


 三碓が話すのをを聞きながら、少し前までの三碓を思い出す。

 前までは小動物みたいに、目を合わせるだけで怯えられたんだけど。

 どうしてこうなった。


 文芸部に入部する際、部室に空調があると聞いて、勉強する場所に決めたその日のこと。

 部室で一人、本を読む三碓がいた。


 最初は驚かれたけれど、勉強をしに来ただけといっても、俺に対する警戒心を解こうとしない。

 面倒に思った俺は、そのまま無視して勉強をすることにしたのだけれども。

 それが続くうち、ある日から、三碓から声をかけてくるようになった。

 その時の三碓は、猫みたいだった。


 クラスには居づらいとか何とか言っていたから、俺が話し相手になってやろうかと提案してみたところ、朝も昼も放課後も、部室に来てほしいとか言われた。

 なんでもその時間、いつも部室にいるとのこと。

 文芸部の部室は勉強する場所にもってこいだったので、俺は何も考えず引き受けたわけなのだけれど。


「勉強がお好きなんですね?」

「え、部活をとっかえひっかえしてたんですか? プレイボーイなんですか?」

「よかったら、私と一緒に本を読みませんか? 国語の成績が伸びるかもしれませんし」


 勉強している間、三碓はたまにそんな雑談を挟んできた。

 最初は五月蠅いとしか思わなかったが、一人でずっと勉強していると集中力が落ちると言うのは本当だったようで、参考書をめくるペースは上がっていった。

 そのおかげかはわからないけれど、そのころから段々と模試の点数が上がっていったのを覚えている。


「あ、もうこんな時間ですね」


 少しずつクラスメイトが登校してくるのを見て、三碓は話すのをやめて、立ち上がる。


「それじゃあ、また放課後に、待ってますから」

「へいへい。またな」

「約束ですからね」


 三碓はそう言い残して、教室を後にしたのだった。

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