弐拾参
早速言われた通りに小瓶の蓋を開け、聖水を垂らしてみる。
すると水は、重力に逆らうことなく硝子を伝うようにして下へと流れていく。
水が流れた箇所は、さも不思議な洗剤が混ざっているかのようにべったりと染み付いていた手形を削ぎおとす。
しかも汚れをおとし終えた水は赤い滴の玉になることもなく、蒸発するかのように消えてしまっていた。
確かにこれなら、窓中にぎっしりと付いている手形を消すのは、雑巾がけよりは楽だろう。けれど、いくらただ振り掛けるだけと言っても隅々までともなると、それはそれで結構な事だ。
淡々と作業を続けつつも、俺はついつい不気味な赤い手形を観察してしまう。
手形は、外側、即ちベランダ側から、執拗に何度も叩きつけたかのように幾重にも重ねられて付けられていた。しかも、もがくかのように、爪先をたて、擦り付けるように赤い筋が伸びている。
窓越しに見える室内は、生活感がある女の子らしい家具が綺麗に配置されている。
たった一人で、この部屋にいた美衣子の事を思うと、恐ろしいの一言じゃ済まないだろう。
這い出してきた時の殆ど半狂乱の状態も頷ける。
せめて、今度こそ安心して眠れるよう、綺麗に消してやりたい。
目の前で消えていく手形のように、出来ることなら、美衣子の心の傷痕も、綺麗さっぱり消してやりたかった。
『なんだ、お前か。』
『よっす!暁!!』
突然、何もない筈の空間から声がかけられる。
天空猫神と地陸猫神だ。
二匹は、俺と尊さんの届かない外壁に付いている手形を、聖水で消しているようだった。
『バカ狐、お前も手伝えよー』
『誰が、バカや!アホ猫!!暁、ワイもやるっ!』
地陸猫神に挑発され、まんまと乗せられたイナリは鼻息荒く自分も役にたつと小瓶を渡すようにとせがむ。
単純なイナリの反応に、「はいはい」と一本小瓶をわたした。
『バカだからバカって言ってんだろー。じゃあ、低級って言えばいーい?』
『なんやとぉ!そんなん言うんやったら、ワイが低級やないって事を思い知らさせたろかー!?』
果たして、仲が良いのか悪いのか、イナリと地陸猫神は隣に並んで競うようにせっせと赤い手形を消していく。
天空はと言えば、そんな二匹を無視して、淡々と作業を進めている。
しかしながら、モコモコの動物にしか見えない奴達がメルヘンチックな事に、人間の言葉を喋り、いがみ合う姿はもの凄く心が和む。
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