お姉さんからの分かりやすい説明、そして謝罪

統一暦499年8月17日午前10時12分

 恵吏えりが家に着いたのは、もう8月17日の朝日が高く昇った後だった。

 東京の片隅の、建物が乱雑に積み重なるエリアの一角に恵吏の借りている賃貸の部屋がある。日照権ってなんだっけ。そう思ってしまうくらい、縦にも横にも密集した構造の、その最下層部にある恵吏の部屋は、電灯を点けないと夜の森みたいに真っ暗だ。ただ、森と違って木々の隙間から地上を淡く照らす月明かりの代わりに部屋の前の通路の薄暗い照明が常に差し込んでいる。

 久しぶりに帰ってきた感慨で「ただいま」なんて言うほどこの部屋に愛着はない。他の人が入ってこない、それだけで、外と同じ「自分が生きられる場所」でしかない。

 泥棒が入ったような形跡はなく、見たところ大事なものはなくなっていない。とりあえずほっとした。

 エルネスタから借りた服からいつもの服に着替え、そして気付いた。何もやることがないと。

 今までは大きな目標があり、やることが決まっていて、それに従って動いていた。ただ、アメリアに誘拐されてからは完全に計画が狂っていた。次に動くのは一か月後。それまでの期間は、完全に休みだった。

「暇……」

 8月31日までは夏休みだし、学校もない。本当に暇だった。宿題?知らないね。


統一暦499年8月17日午後8時41分

 紅音あかねは一人暮らしの部屋に着くなりベッドに吸い込まれて眠ってしまっていた。

 そんな紅音を起こしたのは、三日間自動餌やりに任せっきりだったミケ(黒猫)だった。彼女は、いつだったか恵吏が研究所に忍び込んだ時に置いて行かれた紅音がひょんなことから出会った野良猫だった。

 野良猫を飼育していいのか、許可を得ずに猫を飼っていいのかなど、問題は山ほどあるが、ミケが紅音に懐いているのは確かだ。そして、紅音もミケをかわいがっていた。

「あれ?もうこんな時間……。」

 紅音のお腹が大きな音を立てた。

「そういえば朝ごはん食べてなかったっけ。ていうかもう晩ごはんか。」

 昼夜逆転は避けられなさそうだ、と紅音は苦笑する。

 朝ごはんではなく昼ごはんでもなく晩ごはんを用意し始めた紅音は大量に溜まっていたダイレクトメッセージに目を通し始めた。

 その多くは紅音の友達からのもので、ずっと音信不通だった紅音の安否を心配するものだった。だが、最新の一通だけそれ以外のメッセージが来ていた。

「えりりんから……?」


統一暦499年8月17日午後9時12分

 サングラスを掛けた紅音はなぜか夜のホテル街をウロウロしていた。

「ここ……かな?」

 紅音に届いていた恵吏からのメッセージには、位置情報と「たすけて」とだけあった。ただならぬものを感じて変装(?)して駆けつけた紅音だったが、その位置情報が示すのはホテル街の一角で、そこにはピンクの電飾が眩しいラブホテルしかなかった。

 まさか、そんなはずは……。いや、しかし、少しだけ覗いてみようかな?

 そんなふうに葛藤した末、紅音はその建物の中に一歩踏み入れた。その直後。

「おーい、こっちこっち。」

 紅音は中に入るなり金髪の女に首根っこを掴まれて引きずられていった。

「ちょ、離して、痛いから離してください!」

「はいはい。」

 結局2階の部屋の中まで引っ張られた。

「痛て……。あなた誰なんですか……?」

 部屋の中を見渡してみて気付いた。

「……って、えりりん!なんでこんなとこに⁈」

 ベッドの上に見知らぬ幼女と座っている恵吏は申し訳なさそうに言った。

「ごめん……。私の不注意だった。」


統一暦499年8月17日午後3時30分

 恵吏は品のないドアのノック音で目が覚めた。知らぬ間に寝てしまっていたようだった。

「誰……?」

 テレビドアホンのモニターでドアの前を見てみるが、誰も映っていなかった。しかし、ノック音は聞こえる。

 怪しすぎる。だが、ちょっとだけ見てみようか。

 恵吏はドアをほんの少しだけ開けてみた。

「かかった。」

 ノック音の主はそう言うと数センチ開いたドアの隙間に手を突っ込んで無理矢理こじ開けた。誰も映っていなかったのは加工した映像を流していたからなのか?恵吏はすぐにドアを閉めようとしたが、もう遅い。ドアは既に全開になっていた。

「よぉ、久しぶり……でもないか。」

 そこに立っていたスタイルのいい金髪とその隣の幼女に恵吏は見覚えがあった。ついこの間、あの船で顔を合わせていた。

「けっ、警察!警察呼ぶから!」

「おいおい、まだなんもしてないだろ。なんなら、こっちはあの時お前に思いっきり撃たれたんだぜ。逆に訴訟起こしてやろうか?」

「……とりあえず帰って!もう二度と関わる気はないから!」

 恵吏はドアを閉めようとする。だが、その前にアメリアに強引に引っ張られ、抱きかかえられるように連れ去られた。恵吏は誘拐された。


統一暦499年8月17日午後3時52分

 誘拐された恵吏は、なぜかラブホテルの一室に連れ込まれた。

「……なんのつもり?」

「……謝罪、そしてお姉さんからの解説とアドバイスってとこかな。」

 アメリアは冷蔵庫からワインを取り出してボトルのまま飲み始める。

「うちの組織が何を目指してるか知ってるか?」

「……灯を奪って、悪用するんじゃないの……?」

「んー、残念。それは手段であって、目的ではない。」

「……どういうこと?」

「まぁ、説明を聞いてピンとくるわけないが。……うちらの組織、『マスティマ』はこの世界の必要悪を担う組織だ。」

「必要悪……。陰謀論……?」

「そう思うのも分かる。最初は私もそう思った。だけど、マジだ。第五次大戦が終わって新しい世界を作ろうって時に、アタマがいい方が秘密で設立させたらしい。要は、どれだけうまく統治したって反抗する勢力やなんかは出てくるのはどうにもならないから、それだったら先に悪者を設定して世界中の悪の部分を寄せ集めてコントロールしやすくする、とかだそうだ。指向性を与えることで行動を予測しやすくし、操作可能にする、だっけ。ほんとイかれてる。まあそんなわけで、政府公認の悪役ってわけだ。」

「それと灯になんの関係が……?」

「知らん。」

「は?」

「私たち実働隊は上からの任務を手段を選ばず遂行しろ、しか言われないからな。『なぜ』なんて知るわけがない。……ああ、今こうやって話してるのは任務じゃないぞ。何しろ、この間の船の事件で私たちは死んだってことで組織じゃ処理されてるからな。」

「そういえば、なんで生きてたの?死んだんじゃなかったの?」

「……あの幼女大統領だよ。死んだことにして組織から外されるようなら、こっそり助け出しておいたら何かしらに使えるとか睨んだらしい。おかげでこうしてあの幼女の使い走りさ。」

「……じゃあ、今は味方ってわけ?」

「まあ……そうなるよな。」

「だからってあのことは許さない。」

「許されるなんて思っちゃいないさ。だから、謝罪のつもりでもないが一つ教えてやろうってことだ。」

「教えるだけなら私の部屋で良かったんじゃない?」

「知らないなら教えてやるが、こういうプライベートな場所の市民は監視してはいけないというルールがあるんだぜ。」

「……なるほど。……でも、だったら早くしてよ。……こんなとこ長居したくないし。」

「まあまあ、そう焦るなって。今のこんがらがった状況を説明してやろうってんだから。」

 ボトルに残ったワインを一息に飲み干してから、アメリアは続ける。

「朝倉灯を救いたいって言うんだよな、お前は。だが、分かっちゃいると思うが、あのAIの周りはそう簡単にできてない。いくつもの組織、機関、人間たちがその利権を得ようと常に目を光らせてる。一番でかいのは、もちろん統括政府。あの幼女も、あくまであのAIの利権のために動いてると考えたほうがいい。信用しすぎるな。……二番目は、人工天使計画。これが一番厄介だと考えたほうがいい。これの最終目的は、言っちまえば、神の創造ってやつだ。計画のトップのルキフェリウス・ウェストファリス・メルトリリスって奴が望む『正しい世界』に作り替えるんだとよ。そのために開発中の人工天使を戦線に投入するのも辞さない構えなんだと。話を聞く限りだと、かなりえげつない戦力らしい。物理法則を超越したとか何とかをまじめに話してる時点で相当イかれてる。ここは、ただネットワークを通じて世界を支配できるAIってだけじゃない、踏み込んだところまで知ってるから気を付けないとお前の計画を根本から破壊しかねない。注意しとけ。残りは小物がちらほら。つっても、お前みたいな弱い人間からしたら十分強敵になり得る。注意しとくに越したことはない。」

 ミリリが新しいワインを開けてアメリアに渡す。それを受け取ってアメリアは言う。

「とりあえず、しばらく何もないからって気を抜いてたら死んでもおかしくないってことだ。」

 ボトルの中のワインはどんどんアメリアの中に吸い込まれていく。この人にはアル中って概念が存在しないのだろうか。

「……言うことなくなったなら早く帰してほしいんだけど。」

「確かに言いたいことはなくなったが、やりたいことはまだ残ってる。」

 そう言ってアメリアはおもむろに恵吏の胸を掴んだ。

「ひっ……!」

 恵吏は反射的にその手を振りほどく。

「……あの時のこと、忘れられてないんだろ?」

 両手で胸を抑えたまま、恵吏は黙り込む。

 ――あの時のこと。灯と一緒に連れ去られ、拷問と言ってあらゆる性的な辱めを受けさせられた時のこと。

 恥辱と恐怖で塗れたあの一週間。

「……もう、思い出させないで……。」

 恵吏はそれを思い出すだけで涙がこぼれた。

「お前が性に対してそんなトラウマを持ったのは、私のせいだ。だから、何とかしてそれを直せないものか、ってな。……つっても、どうすりゃいいもんなんだ?」

 作戦会議、と言ってアメリアはミリリを連れて部屋の外に出て行ってしまった。

 しかし、しばらく待ってみても戻ってくる様子がない。恵吏は耳をすましてみるが、どこかの部屋でシているのであろう、聞くに堪えない喘ぎ声しか聞こえてこない。

 しばらく戻ってこないと踏んだ恵吏はすぐにポケットから携帯端末を取り出して咄嗟に1番最近の連絡先に位置情報を入れて連絡した。「たすけて」と。

 だが、送信した直後。

「そいつがお前が1番信頼してる相手か?」

 ドアが乱暴に開け放たれ、そう言って入ってきたのはアメリアだった。

 恵吏はすぐに端末を隠したが、

「目ぇ離すわけないだろ。わざと離れてしばらく戻ってこないって安心したお前が1番先に連絡入れるだろう信頼してる相手を炙り出したかっただけだよ。」

 そうだよ、と何も分かってなかったと思われるミリリが言う。

「信頼してる相手なんて炙り出してどうするつもり⁈」

「ヤらせる。」

「は?そもそも私と紅音はそういう関係じゃ……!」

「分かってるんだよ。あの時お前が嫌がってたのは同性に犯される屈辱じゃなかった。あの時の嫌悪は、純粋に辱めを受けるってだけだ。お前は素質がある。必ずしも男じゃなくても、素質があって信頼できる女がいるならそれで十分だ。その紅音ってのがお前の友達なんだろ?」

 恵吏は言い返せなかった。

「それじゃあ、その紅音ってのが来るまで待つか。」

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