方舟

統一暦499年8月15日午後9時13分

 嵐の太平洋上を航行する豪華客船、ノア。この船のために開発された硬さと軽さを兼ね備えた合金、ゴフェルで造られた客船である。

 豪華客船で海の上を進むというだけ、しかも、交通手段としては遅すぎる。そんな行為が未だに行われているのは、高度に効率化された社会で鷹揚おうようと過ごす時間を確保したいという人間の心理からか。ともかく、この客船には大金をかけてまでそんな時間を過ごしたいという物好きが数多乗船していることは事実ではあった。その証拠に、今夜のパーティーは3000人以上の乗客の全員が出席するという盛況だ。

 そんな中で、赤いドレスに身を包んでいるアメリア・メアリーハートは焦燥感を隠しきれていなかった。

 金髪でスタイルのいいアメリアは、その容姿のせいか多くの男の目を引いていた。勇気のある者は彼女にアタックをかけようと近づくが、ことごとく玉砕している。アメリアに声をかける前に、である。なぜなら。

「おいそこの馬鹿!馬鹿と言ったら馬鹿に決まってんだろそこの馬鹿!てめえアメリを誘おうとしたな?ご一緒にどうですかとか誘おうとしたな?図星だったらさっさと帰りやがれこの馬鹿!」

 この口の悪い幼女に行く手を阻まれるからである。

「ミリリ、あんま事を荒げるな。面倒だから。」

「……分かった。」

 アメリアはいつにも増して機嫌が悪かった。上から理由も明かされず仕事を押し付けられたというのがあるのだろう。それと、

「侵入者がいる。」

 アメリアはミリリにだけ聞こえるように呟く。

「ここは太平洋のド真ん中だぜ?そんな冗談は……」

「私が冗談言ってると思うか?」

「……ソースは?」

「ご丁寧に、上から直接教えてくれなすった。それほど重要な仕事なんだろうな。」

 アメリアはグラスのワインを一口に飲み干してから言った。

「ミリリ、行くぞ。」


統一暦499年8月15日午後9時12分

 全身をぴっちりと覆う特殊なスーツを身に着けた人間が3人、客船ノアの甲板に降り立った。遥か上空から翼のような飛行装置を駆使して静かに降り立った。

 嵐の甲板には彼女ら以外に人影はない。その中で一番背の高い人物は周りを見渡すと後の二人を引き連れて船内に侵入した。

 スーツを脱いで出てきたのは、私服の赤坂紅音あかね、黒いスーツを着たジェシカ、そしてパーカーを脱いでTシャツ姿の佐藤恵吏えりだった。

 ジェシカは黒いスーツのポケットから携帯端末を取り出し、テレビ電話を繋ぐ。それに出たのは、上空のステルス飛行機の中のエルネスタだった。

「無事に潜入できたようですね。それでは作戦の概要を説明しましょう。」

 画面がノアの三次元見取り図に切り替わった。

「朝倉灯さんは、実行犯の客室に隠されている可能性が高いです。部屋番号は0310で、そこから二層下がって進んでいけば見つけられるはずです。でも、その間に大きなパーティー会場があります。現在そこでパーティーが開かれているんですが、潜入している事実が一般の乗客に露見しないようにしなくてはいけません。そこで、先ほど渡した端子にパーティー参加客風のデータを用意しておきました。もし見つかりそうになったらそれを使ってください。それでは、ご武運をお祈りします。」

 それでテレビ電話は切れてしまった。

「……行こう。」

 無表情で、恵吏は呟いた。


統一暦499年8月15日午後9時15分

 案外簡単にその部屋まで着いてしまった。

 オートロックの扉だが、鍵を開ける方法もなしにのこのこやってくるような間抜けではない。むしろ、最新式の難解を極めた扉の開け方まで用意していた。

 恵吏は、はやる気持ちを押さえてそのドアノブに手をかける。背後には、心配そうな面持ちの紅音と表情の読めないジェシカが立っている。

 一度深呼吸した後、恵吏はその扉を開いた。


統一暦499年8月15日午後9時15分

 薄暗い部屋の中でエルネスタは呟いた。

「本当に、嫌な役目ですね。」


統一暦499年8月15日午後9時16分

 部屋の真ん中には、大きなキャリーケースが置いてあった。高校生くらいの少女の身体なら収まりそうなほどの大きさの。

「その中、なの?」

 紅音が心配そうに尋ねる。恵吏はそれに答えず、ケースを開きにかかる。

 鍵はかかっていなかった。

 見た目のわりに軽いケースをゆっくり開くと、中には白い透き通った肌の少女が入っていた。

「ACARI。」

 恵吏は呟く。


統一暦499年8月15日午後4時21分

「一つ、聞きたいことがあるんですが。」

 G文書を受け渡した地下のバー。これから実行する作戦について大まかな流れを伝えた後、エルネスタは言った。

「……何?」

 恵吏は不愛想に応える。

「朝倉あかりさんの人格が戻らなかったことについてです。」

「……。」

 恵吏は黙り込んだ。

「AIのACARIは、ある人間の魂を核にして作られました。その人間とは、事故死した……と資料の上はなっている、開発者の朝倉あきら博士の一人娘の朝倉灯さんです。……魂。これは、長らく科学が否定し続けてきたモノで、現在も多くの人間はそれを信じていません。ですが、ネットワークに関する最新の研究のいくつかは、魂の存在を確信させる現象を観測しています。朝倉博士は、そんな魂の存在を前提として従来とは全く異なる方式のAIを開発しました。それがACARI。朝倉灯さんの魂から人格情報を除去し、まっさらな魂を作る。それに扱いやすい人工の人格を植え付けてあとは高速演算システムを埋め込めば、人間のように自律して考え、行動するAIの完成です。」

 ふう、と長い解説を終えたエルネスタが溜息をつく。

「問題は、そのACARIの魂に朝倉灯さんの人格情報が残っているのか、です。魂の概念はかなり新しいもので、その実態はほとんど解明されていません。だから、朝倉博士が除去したと公表しているものの、実際のところは残滓のようなものが残っているかもしれない。もしその魂を肉体に戻すことができたら人格も戻るかもしれない。そんな淡い期待を抱いて計画を実行した。」

「それは……」

「そんな薄い目標のためにこんな行動を起こせるのは、よほど自己犠牲を重要視する馬鹿か、行動力の有り余る目先のことしか見ていない阿呆です。あなたはそんな間抜けではない。本当のあなたの目標は、」

「「神の創造」」

 二人の言葉が重なる。

「そこまで知ってるとか、やっぱ本物の大統領閣下なんだね。」

「まだ疑ってたんですか!……じゃなくて、どこでその方法を知ったんですか?それだけが、本当に分からないんです。」

 恵吏は何もない空中に視線をやり、ぽつりと言った。

「……まだ、言えないかな。」


統一暦499年8月15日午後9時16分

 その少女はパチリと目を見開く。

 機械的な動きで恵吏たちのいる方向に向き直る。

「助けに来たんですか?」

 ちゃんと抑揚があるが、感情がない。そんな声だった。

「どんな条件で丸め込まれてるかは知らないけど、これからの世界のために、あなたの身柄は私たちが保護するべきなの。だから、今から一緒にこの船を脱出する。」

 恵吏が抑揚のない声で言う。

「今あなたは」

 感情の読めない目で恵吏を見据えたまま、少女は言う。

「このワンピースから浮き出た私の太ももと胸のラインに欲情しています。」

 ACARIはそのネットワークを通じて全人類の思考を読み取ることができる。

 思わずそばめたくなるようなことを公開された恵吏は、それでも眉一つ動かさない。一方、後ろの紅音はかなり挙動不審だ。共感性羞恥のようなものだろうか。

 暫しの沈黙。

「……分かった?」

 沈黙を破った恵吏の言葉だけが部屋の絨毯に吸い取られていく。

 白髪の少女はキャリーケースの中から上半身だけ起こした格好のまま微動だにせず、一回だけ瞬きをする。

「分かりました。現在をもって、私はあなたたちの側につくことにします。ですが」

「?」

「後ろに」

 彼女がそこまで言った直後だった。

「動くな。」

 紅音の首筋に鋭いナイフを突きつける、金髪の女が立っていた。

「ったく、面倒なことになったもんだ。」

「こっちの科白セリフ。さっさと退けよオバサン。」

「……ああン?もっかいお仕置きが必要かな?」

 恵吏の額から汗が滲みだした。

「……うるさい。」

「おやおや、あれが結構響いてんのか?やっぱガキだよな。」

「……ッ!」

「残念だが、付き合ってやってる時間はない。さっさとそれを渡せ。」

 恵吏は紅音に目線をやる。多分人生で初めてナイフを突きつけられたであろう紅音は目を白黒させて過呼吸気味になっていた。

 この状況はいったいどうすれば切り抜けられる?

「大丈夫です。」

 そう言って立ち上がったのは、他でもないACARIだった。

「あかり……!」

 止めようとする恵吏をジェシカが引き留める。

 ACARIは恵吏に向かって言った。

「これが最善の選択肢です。今は。」

 紅音は突き飛ばされるようにして放された。そして、灯の身体は再び相手の手の内に戻る。

「いい選択だな。最善の選択ってのが気に食わんが。それじゃ、時間だ。」

「……?」


統一暦499年8月15日午後9時18分

 客船ノアの中央付近で大爆発が起きた。それは船体中央の屋根を粉微塵にし、船底に亀裂を生んだ。

 完全に沈没するまで、あと1時間。

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