第20話
午後十時三十分。私は由美ちゃんの家を目の前にしている。
由美ちゃんの家は世田谷にあるマンションだ。大きくて、暖かい色のタイル張りと緑の植木――ガラス張りのエントランスの高級感あふれる外観から、どこから見てもたいしたところで、私は委縮してしまう。ここに続く道も今は季節外れの桜並木がたくさんで、昼間に歩けば木漏れ日が素敵だったに違いない。ここはそんなすごいところなのだ。
それを見て思う。もしかして、由美ちゃんってものすごいお金持ちの生まれなんじゃないだろうか。そんなところの娘さんを、安月給の変な女が
「じゃあハミちゃん、行きましょう。今度は私のベッドで一緒に寝ましょうね」
何気なくさらっと、由美ちゃんはとんでもないことを言っている。しかし私は今、それにもどきどきできないほど緊張している。由美さんと交際させていただいています――なんて、私が男だったとしても、なかなか言えないことだ。ましてや男手一つで今まで育ててきた可愛い娘を、安月給の変な女がものにしているなんて知られたら、私は生きて帰ることができないんじゃないだろうか。――これが修羅場ってものなのか。
「ハミちゃん? 行かないの?」
由美ちゃんが沈黙した私の手を引いて、エントランスへと続く短い階段を昇っていく。私はいつぞやと同じように由美ちゃんに引っ張られていく。
由美ちゃんが一階のインターホンを押すと、由美ちゃんのお父さんの、マカロニウエスタンの吹き替えみたいな渋い声がきこえてきた。「今日は大事な人に泊まってもらう」なんて由美ちゃんが言うものだから、私は慌ててしまって、「あわわ」って本気で言ってしまう。
映画の中でしか見ないような優雅な音楽がかかっているエントランスを抜けて、エレベータで階を上がる。神宮寺宅を前にし、由美ちゃんが元気に「おーい、おとうさーん」と言いながらノックすると、ドアが開いた。
そこにいたのは、由美ちゃんとは間違っても似ているとは言えない男性。堀が深くて、オールバックで、身長の高さなんかも日本人離れしている感じだが、その風貌に反して若く見える。
由美ちゃんのお父さんは私を一瞥すると、その強面な顔立ちのままに言った。
「こんばんは、荒木須美さん。由美の父で、
平坦な声色。歓迎されていないことが一目瞭然……そしてめっちゃ私の名前、間違ってるやん。
それを由美ちゃんが私の隣でクスッと笑う。
いやいや、笑ってないで訂正してよ。私は由美ちゃんのお父さんが笑顔を見せてくれないことが怖くて、がちがちに緊張したまま言った。
「私は浜――浜映子といいます。由美さんとはその――仲良くさせていただいてます」
頑張ってにこやかに自己紹介をしても、由美ちゃんのお父さんは表情一つ変えない。うわっ……なに? 怒ってる? 帰りたい……。
永遠に思える数秒が過ぎると、由美ちゃんのお父さんは事務的に言った。
「じゃあ、あがってください。――由美、ご案内して」
「はーい」
由美ちゃん以外に笑顔がない。……うーん、怖い。由美ちゃんのお父さんは私に背中を向けて、家の中へ入っていく。
「……お邪魔します」
由美ちゃんに導かれて、その背中を追うようにリビングに向かった。
なんだなんだ、由美ちゃんのお父さんの思考が全く読めない。どういうつもりで私を家にあげたんだろう。娘の友達? 今から何か言われるのだろうか。だけど由美ちゃんの言い方では、いろいろと話して……ええい、よくわからん!
などと考えているうちにリビングにいた。由美ちゃんの家のリビングは、豪華でインテリアの趣味も良くて、それこそボンド映画で見るようなところだった。洋風で、天井が高くて、観葉植物の緑が木製家具とよく親和していて――リラックスできる空間を演出している。なんだか『黄金銃を持つ男』のスカラマンガが住んでいそうな感じで、私は自宅の畳の部屋との違いに息を呑んだ。こんなガラスのディナーテーブルは、レストラン以外では見たことがない。
テーブルの上座にどっしりと腰を下ろして、由美ちゃんのお父さんが私を見ている。部屋着なのだろうか、上下ともに紺色のジャージを着ている。それでもなんだか恐ろしくて、私にはドンコルレオーネに見えた。
由美ちゃんのお父さんが口を開いた。
「須美さんとお呼びすればいいかな?」
訊ねるように私を見ている。私はその瞳をびくびくしながら見つめ返す。愛想笑いをする。さっきから須美さんってなんなんだ……?
「浜映子です」
再び名乗る。この人が私のことを『須美?』と呼ぶことには、何か深い意味があるのだろうか。
私が困惑していると由美ちゃんが笑い初めて、しっかり十秒ほどで笑いを収めて言った。
「もう、お父さん、ハミちゃんを困らせちゃだめだよ? というか、覚えてないみたいだし――ね、ハミちゃん?」
由美ちゃんはいたずらっぽく笑いながら私に目を向ける。覚えてないって何だろう?
そんな私をよそにクスクス笑いながら由美ちゃんが言う。
「ほら、この間ハミちゃん、お父さんと電話したでしょ?」
「電話? うん」
合点がいかないまま頷く。お父さんと電話って――あの日のこと? ……ん? あの日はたしか他人のふりをしたはずで……あ! 荒木須美って、あの日私が名乗った偽名じゃん! ……は? つまりどういうことなんだ? バレてたの? だけど私のことは話してたんでしょ? ますますわけわからん。
「あのねお父さん、映子さんは私の初めての人なの。それでね、もう二回もしちゃってるんだよ」
ちょっと!
また由美ちゃんが、とんでもないことを言う。由美ちゃんのお父さんは表情を変えない。怖くなって、私は慌てて、だけど冷静にフラットな声で弁明する。
「一回だけです」
そう。私は一回しかやってない。準ずることや亜種的なことは何回もやってるけど、それはノーカンだ。二回分の制裁を受けるいわれはない。
秘密を暴露すると、当然のように由美ちゃんが驚く。黒目が小さくなる。
「え? だって夜と朝で二回じゃ――」
「一回目は嘘なの」
私はあっさりと言った。由美ちゃんに対するいたずらなんか、今のこの状況ではどうでもいいことだ。
「ええ! じゃああれが初めてだったんですか? ハミちゃんズルい、私をリードするために嘘つきましたね!」
由美ちゃんがほっぺたを膨らませて私を非難するように見る。
ごめんね由美ちゃん。でもね由美ちゃん、今はそういうことじゃないの。お父さんの前でそういうこと言わないで!
由美ちゃんのお父さんは、直立している私のつま先から頭頂部までを、見定めるように、鋭い、鷹のような目で見上げていく。そりゃそうだろう。娘の初めての相手が、男手一つで育ててきた可愛い一人娘の初めての相手が、こんな安月給の変な女だなんて許せるわけがないだろう。そもそも由美ちゃんは、ほんとに自分がそういう思いを抱いているということを、お父さんに理解してもらっているんだろうか。
……ああ、私はたぶん殺されるんだ。スイッチ一つで丸焦げにされてしまうんだ……。
私が由美ちゃんのお父さんの顔をうかがって
……ええ? 私はその意図を測りかねて動揺する。その笑いはどういった笑いなの?
私がふらふらしていると、由美ちゃんのお父さんが言った。
「安心して、映子さん。別に怒ってませんから。すいませんね、実は由美と
…………はあ?
つまりどういうこと?
四百字詰め原稿用紙数枚で解説してほしい。じゃあ、あの電話はなんだったの?
私はよほど動揺していたのだろう、由美ちゃんのお父さんは急に申し訳なさそうな顔になって、今度はお父さんのほうが私に弁明するような言い方になる。
「つまりですね。こっちは映子さんのことをずいぶん前から由美から聞いてて、俺もそのことを知って応援してて――で、あの日、家から送るときに由美に言ったんですよ。うまくその人の家にあがり込めたら電話しろって。――でも、ただ普通に電話してもつまらないから、ちょっとその――映子さんをからかってみようというかなんというか……」
言葉の最後のほうが小さくしぼむ。
私は三十秒ほど頭をひねって、ようやくその意味を理解できた。つまりあれだ、由美ちゃんとお父さんは、二人して私をからかっていたと。私の一人二役を笑っていたと。緊張する私を見て楽しんでいたと。さっきまでやたらと怖い顔をしていたのも冗談だったと。
「おーい!!!!」
ここまでコケにされるのは初めてだ。というか、ふりが長い!
「ちょっと由美ちゃん、これはさすがに!」
「ハミちゃんだって私に嘘ついてたじゃないですか! 無防備な私にキスマーク作って!」
ぐぬぬ……それを言われると言い返せない。
それでも私が由美ちゃんを睨もうとすると、由美ちゃんは私の身体に正面から抱きついて、私の胸に顔をうずめて、それを防ぐ。――ズルい。だけどこうやってやられたら、私も怒れないわけで……
由美ちゃんのお父さんの笑い声で、私ははっと我に返る。楽しそうに笑ってるけど、この人は娘の初めてを私に奪われても、何とも思っていないんだろうか……? なんなんだ、この親子は!
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