第17話

 数日後の午後七時。地下鉄月島駅を出てすぐ――隅田川沿いの立地には、高層ビルや商業施設などが立ち並ぶ都会的な風景が広がっている。だけど大通りを抜けると、そこには伝統的な下町的風景が広がっていて、ここはそんな対極の二つが同居する実に不思議な場所だった。古いものと新しいものが混じり合って、ごちゃ混ぜ感がブレードランナーみたいで、私はここを好きになる。もう少し寒くなったらトレンチコートを着てこようか。


 そしてそんなノスタルジックかつアーバンな場所にある、有名な、駅から徒歩ですぐのこの店も、すごく良いところだ。壁に貼られた手書きのお品書き、ボトル容器に入った油、酔っ払うサラリーマン、黄色っぽい木の内装、一つ一つのテーブルの間隔の狭さ……由美ちゃんのお気に入りの店は、私のお気に入りの店になる。私もアットホームな店は好きだ。


「じゃあ、今はすっかりみんなと仲良くなれたんですね」


 私の前で、由美ちゃんが鉄板の上のキャベツとマグロを炒めながら目を輝かせる。


「うん。私ってずっと、中学くらいから友達とかあまりいなかったんだけど、今はお昼とか先輩と行ってるんだ」


 人差し指で鼻を掻く。鉄板の上で煙をあげるマグロがすごく美味しそうだ。


「それって女の人ですか? それだったら浮気です。許しません」


 由美ちゃんはコテを使ってドーナツ状の土手を作りながら言った。私は笑ってしまう。「男の人だよ」、「浮気なんかじゃないよ」って弁解するのがこんなに楽しいなんて。目を細めて由美ちゃんを見る。


「覚えてる? 由美ちゃんが私を押し倒したんだよ? 私びっくりしたんだから」


「覚えてますよ。私、すごく頑張っりましたもん」


 由美ちゃんはそう言って楽しそうに微笑んだ。可愛いからほっぺたをつまんで、もんじゃを作る邪魔をする。柔らかくていいなぁ。


「もうハミちゃん、もうちょっとでできるから邪魔しないでください」


 由美ちゃんが私を咎めるように見る。ほっぺたを膨らませたことに満足して、私は手を離してあげることにする。そしてすかさず頭を撫でる。


「よしよし、早く作ってね。私の人生初もんじゃだから、楽しみにしてるよ。――それにしても由美ちゃんは、私の初めてをたくさんもらっていくね――いろんな意味で」


 由美ちゃんは顔を真っ赤にする。ちょっといじめすぎたかな? また頭を撫でる。


 今言ったように、私はもんじゃ焼きというものを食べたことがなかった。関西の生まれだから、粉物といえばお好み焼きで、広島焼きだって認めたくないくらい面倒くさい人間だ。だってもんじゃ焼きって、酷く下賎な言い方だけど、年末の駅の階段にあるアレに見えない? 出来損ないのお好み焼きに見えて、あまり食べる気になれなくて……。


 だけどこの間、由美ちゃんに「ぜひ食べて欲しいです。お勧めのところを紹介します」と言われたから、二つ返事で、こうしていっしょに鉄板に向かい合っている今に至る。東京に魂を売ったと――地元の人には言われそうだけど、そんなの知らないや。私は由美ちゃんの笑顔があれば、魂だって売ってやる。それにここ、月島という場所も気に入ったし、もんじゃ焼きなのに美味しいマグロが食べられるというこの店は、入る前からグッドなスメルがしていて、もう私はここを愛しているとすら言っていい。細長い店内では周囲の客の声がひどくうるさいが、それすら不快なものではなかった。


 由美ちゃんが中央の穴みたいなところに出汁だしを入れる。


「私からすると、もんじゃ焼きのない生活なんて考えられないですけどねー。高校の帰り道とかによく食べましたもん。友情を深めるには必須ですよ」


 由美ちゃんの手慣れた手つきで、鉄板の上のマグロとキャベツは素敵な音と匂いを放つ。


「じゃあ私も食べないとね。でも、東と西の違いだねー、私は制服でお好み焼き食べて帰ったことあるもん」


 由美ちゃんはもんじゃを焼き続ける。手を動かし続ける。


「恐るべし、関西! 奈良にもお好み焼きさんって多いんですか?」


「私ね、一時期大阪の高校に通ってたの。だから道頓堀どうとんぼりとかも詳しいんだよ」


 言い終えた時、もんじゃ焼きが完成したようだ。とっても美味しそう。


「じゃじゃーん、完成です。マグロ・インもんじゃ焼き――私たちのソウルフードを、ぜひ関西のハミちゃんも食べてください」


 由美ちゃんがちっちゃいヘラみたいなものを渡してくれる。


「さっきから周りの人のん見てたけど、なんでこのヘラ、こんなちっちゃいん? ちょっとずつしか食べられへんやん」


 おどけて関西弁で言ってみる。由美ちゃんは目を見開いて私を凝視する。


「おお、ハミちゃんのネイティブ関西弁、初めて聞きました」


 ちょっと恥ずかしい。持て余した手でヘラをいじりながら言う。


「こっち来てからもね、なかなか抜けなくて困ったんだよ。やっぱり恥ずかしいからさ」


 由美ちゃんは柔らかく笑って、自分もヘラを持つ。


「ハミちゃんの関西弁、可愛いですけどね。――このちっちゃいのはですね、ヘラじゃなくて『はがし』といって、もんじゃ専用のものなんですよ。こうやって――」


 由美ちゃんはまっすぐ伸ばした人差し指と親指でそれをはさみ、残る三本の指でその柄を握る。


「こうやって持って、端からかき取るように剥がして食べるのが江戸っ子です――まあ、私も生まれは東京じゃないんですけどね……さあ、食べてください」


 私は手を合わせる。


「いただきます」


 はがしを由美ちゃんと同じ持ち方をして、もんじゃを端のほうをすくいとる。そのまま口に運ぼうとして――ぽろっとそれを落としてしまった。


「あれ? やっちゃった。こぼしちゃった」


 こぼしてしまったもんじゃを拭く。何やってんだ、私。


「ハミちゃん、見ててください」


 由美ちゃんは私に目配せしてから鉄板の上にはがしを動かす。


「まずこうやって、食べる量を剥がし取ってー、ぎゅーっと押さえつけます」


 はがしで鉄板にもんじゃを押さえつける。じゅーっと美味しそうな音が鳴る。


「こうすると水気がとれてこぼれないんですよ」


 鉄板から離したはがしにもんじゃがくっついている。私はそれを見て感嘆の声をあげた。


「ほほーっ、なるほど。これが東京の技術なんだ……スゴイね由美ちゃん」


 由美ちゃんは照れたように顔を赤らめる。


「焦げたか焦げてないか――くらいが食べごろですね。じゃあ、これ、どうぞ」


 由美ちゃんはそう言って、もんじゃのついたはがしを私のほうへ差し出す。


 ――こ、これは……!


 固まった。


 ……これが世に言う『あーん』というやつか。恋人同士にしか許されないあれを、この私が体験することになるなんて、こんなことあっていいんだろうか。……めっちゃ恥ずかしい。でも、楽しい。

 口を開けてもんじゃを食べる――寸前に、待ったをかけられる。


「熱いから気をつけてね。それにしてもハミちゃん、顔真っ赤だよ? かわいいなー」


 由美ちゃんは自分も顔を真っ赤にしているくせに私をからかう。私は返事をせずに、ぱくっともんじゃを口に入れる。もぐもぐと噛みしめ――られない! 熱っ! これはハフハフ必至のやつだ!


 私が悶絶していると、由美ちゃんは手で口を押さえながら爆笑する。


「あはは、だから気をつけてって言ったじゃないですかー」


「らってごんなあづいとおもわないじ!」


 断固抗議する。私は猫舌なんだもん!


 だけど熱も冷めて、よくよく味わってみると、なんというか、とても美味しかった。


 なるほど、もんじゃ焼きとはこういうものか。こうやって誰かとつっつくのが楽しい料理なんだな。最初は不要に思えたマグロもいい味を出している。


「美味しいでしょ?」


 由美ちゃんにニッコリ笑って顔を覗き込まれる。私は頷いた。


「美味しい」


 由美ちゃんがえへへと笑う。――なんでこんなに恥ずかしいんだろう。私は視線を外して言う。


「でも人前ではそういうことしないって約束したでしょ? 今のが最後だからね」


「ハミちゃんはほんとに照れ屋さんですね。顔真っ赤っか」


 私はそれをごまかすためと、喉の渇きから言った。


「これ、ビールがあいそう。すいません、生二つお願いしまーす!」

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