第15話

 扉を閉めて廊下で一人になる。唇を触ってみる――まだ唇の感覚が生々しい。頬をつまんだらちゃんと痛い。


 その場で喜びが、笑いが、私の顔全体になだれ込んできた。私はその場にかがみこむ。両手で口をふさいで、声にならない声で叫ぶ。


 私は今幸せだと、公子に伝えたかった。私はうきうきして楽しかった。気持ち悪いくらいにやにやしてしまった。心臓の鼓動が早くなったまま戻らなかった。息が荒くなって過呼吸になってしまいそうだった。由美ちゃんが好きで好きで仕方がなかった。幸せいっぱいで、他のことはどうでもよくなってしまった。


 シャワーを浴びながら、人生の春の到来を、身もだえながら歓喜する。不審者かっていうくらい笑いが止まらない。さっきの由美ちゃんの柔らかい感触が忘れられない。いつもよりも丹念に身体を洗って、由美ちゃんが浸かったお湯に鼻まで浸かってどきどきして、風呂場から出る。また緊張してきた。いつも容易に開けている扉は、今、文字通り私の新しい人生を開く扉なんだと思うと、そう簡単には開けられない。


 再び洗面台に戻って、鏡の向こうの私を見る。いつもはちょっと外にはねているショートカットが、風呂上がりでしゃんとしている。今の私は、いつもの冴えない私ではない。だって私は、天使様を見つけたんだから。


 そして扉を開けた。これから私と由美ちゃんは、友達以上になるのだ。……ダメだ、そう考えることにすら幸せを感じる。


「お待たせ、由美ちゃ――」


 部屋は静かだった。ちゃぶ台の上にビール缶が二つ、空の状態で倒れている。由美ちゃんはちゃぶ台につっぷして私に後頭部を見せている。恥ずかしいんだろうな。


「お待たせ、由美ちゃん。私も茹でたてだよ」


 過剰なくらい明るく言っても、由美ちゃんは何も言わない。黙っている。 すーすーと息を吐く音がする。


 ……え? まさか――と思って、私は由美ちゃんのほっぺたをつまんでみた。


「おーい、由美ちゃーん?」


 それでも無反応なので、今度は思い切って肩を揺すってみる。


 由美ちゃんはごろんと私の方へ顔を向けた。目を閉じて、可愛い寝息をたてていた。


「…………は?」


 長い髪をかき上げてみる。顔全体を確認する。そのまぶたは閉じられている。


 由美ちゃんは完全に眠っていた。私がけっこう強めに肩を揺さぶっても、全く起きる気配はない。このちゃぶ台の上のビールが原因に違いない。


 …………ちょっと待ってよ! 今から長い晩を一緒に過ごすんじゃん! ここで寝落ちって、それはないよ!


「ちょっとちょっと由美ちゃん、お願いだから起きて!」


 私はほとんどパニックになって、由美ちゃんの両肩に手を回して、その身体を持ち上げる。そしてぶんぶんと身体を揺する。なんかもうプロレスみたい。しかしそれでも由美ちゃんは全く起きる気配を見せない。


 恥ずかしい話、私は泣きそうになった。こんな時に酔っ払って寝ちゃうなんて酷いじゃない。ちょっと……。


「ええぇ……」


 口からだらしない声が漏れて、私は由美ちゃんを抱えたまま、その場に崩れ落ちる。ちょっと涙が出る。


 すると寝ている由美ちゃんが私に抱きついて、私の胸に顔をうずめて呟いた。


「……映子さん」


 ふにゃふにゃしていて聞き取りにくかったけれど、たしかにそう言った。 


 ぎゅっと、身体を抱きしめる。 再び由美ちゃんの柔らかい身体を預けられて、私はその甘さに、笑ってしまう。なんだか由美ちゃんが大きい赤ん坊みたいで、不思議と安心してしまう。ほんとにこのコは、どうしようもないコだ。ほっぺたをつまんで遊ぶ。


 布団を敷いて由美ちゃんを寝かせる。なんと可愛い寝顔なんでしょう。そのまま一緒に朝を迎えようと思ったのだけれど、ちょっといたずら心が湧いてきた。肝心なところで眠っちゃう悪いコには、軽くお仕置きしてやろう。


 私は由美ちゃんの服を脱がせにかかる。上を脱がせて、下を脱がせると――すっぽんぽんにした。……この体操服は家宝になるな。


 私は由美ちゃんの右胸の上に唇をあてて、そこにキスマークをつけた。初めてにしては、なかなかうまくできたんじゃないだろうか。びっくりする由美ちゃんを想像すると口元が緩む。ふふふ、明日の朝が楽しみすぎる。


 それからビールを一缶飲んで、歯を磨いてから、電気を消して布団に入った。布団に入って、由美ちゃんを抱き枕のように抱く。この季節、裸で眠っても風邪なんてひかないだろう。ましてや私が暖めてあげるんだし。


 可愛い寝息と柔らかい感触を楽しみながら考える。明日の朝、どんな顔をすればいいんだろう。堂々としてればいいの? ……恥ずかしすぎるぜ。


 だけど柔らかくて温かい由美ちゃんを感じていると、私はまどろみ、いつの間にか眠ってしまった。


 甲高かんだかい悲鳴を耳にして目を覚ます。声の大きさに、頭ががんがんする。


「ハミちゃんハミちゃんハミちゃん!」


 激しく身体を揺すられる。眠いから……うーん。


「どうしましょう! 遂にやってしまいました!」


 私が目をこすりながら身体を起こすと、布団で胸まで隠した由美ちゃんが、顔を真っ赤にして取り乱しているのが見える。えーと、なんで由美ちゃんがいるんだっけ……あっ、そうだった。私は状況を思い出してほくそ笑む。


「おはよう由美ちゃん」


 私はいたずらの成功を心の中で笑いながら、手慣れた感じで由美ちゃんの頭を撫でる。髪の毛をすくように撫でる。ふふふ、肝心なところで寝ちゃった報いだ。ほらほら、もっと恥ずかしがりなさい。


 それで由美ちゃんの頭がまた沸騰する。


「どうしましょう! 私、初めてだったのに、酔ってて全然覚えてないです!」


 慌てる由美ちゃんは可愛いけれど、この音量はお隣さんに怒鳴り込まれそうなので、人差し指で唇に蓋をする。


「ねえ、昨日みたいに映子さんって呼んでよ。ハミちゃん、じゃなくて」


 余裕を見せてそう言う。由美ちゃんは泡を吹きそうなくらい慌ててる。


「あの……映子さん、私たち……その、しちゃったんですよね……? 服脱いじゃってますし……その……胸に……」


「けっこう激しかったよ」


 私がニッコリ笑ってそう言うと、由美ちゃんはうつむいて、目をパチパチさせて、ぶつぶつと何かを言い始めた。可愛いから抱きしめる。


「映子さんごめんなさい。私、映子さんと一緒にいると変になっちゃうんです」


 由美ちゃんはぎゅっと私にしがみついてそう言った。その背中を撫でる。


「なんで謝るの? すごく嬉しかったよ」


 由美ちゃんには悪いけど、昨晩のことは秘密にしておこう。そうすれば私は、経験者を装えるんだから。


「じゃあ由美ちゃん、覚えてないなら今から二回戦だね」


 そして今度は、私が由美ちゃんを押し倒した。

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