第10話

 その夜から一週間が経って、十月も半ばになった。


 私は公子に報告した通り、由美ちゃんを家の近所のダイニングバーへと招待した。いつものように神社で待ち合わせて、それから夏から印象を変えた小金井公園を一緒にまわって――由美ちゃんと写真をたくさん撮って、そして向かい合って料理を食べている今に至る。時間は午後六時、ちゃんと由美ちゃんが家に帰れるように配慮したのだ。


 この店はけっこう評判の店で、私も今日を除けば一度しか入ったことがなかった。ピンスポットと間接照明の温かい光が差し、木製テーブルの上にはピンク色のキャンドルがあって、すごくゴージャスな気分になれる場所で――一応軽いドレスコードもあるところ。だから私も由美ちゃんも、ドレスっぽいワンピースを着てここに臨んでいる。だけど見た目に反して値段はそこまで高くなくて、だから私の財政状況でも二人分の支払いは出来るのだ。


「フランス料理って、名前が複雑怪奇だと思いません?」


 私の正面で、ちょっと大人っぽいワンピースを着た由美ちゃんは、満面の笑みを浮かべてオマール海老のなんとか――とかいう料理をもぐもぐと噛みしめながらそう言った。


 由美ちゃんとこういうしっかりした食事をするのは初めてだが、本当に美味しそうに食べるコで、由美ちゃん自体がおかずになる。


「そうだね。私もなんとなくでしか頼んでないかも。前にこの店に来たときに頼んだのも美味しかったんだけど、やっぱり今日のは店主のオススメだからかな。前のより美味しい」


 私はそう言って牛テールの煮込みを口に入れた。とんでもなく美味しい。


「このボリンジャー? ってゴレンジャーみたいなお酒も美味しいです」


 由美ちゃんがシャンパングラスを光にあててから、それをぐいっと飲む。


 私は美味しそうにブドウ酒を飲む由美ちゃんを見て、嬉しくなりながら言った。


「惜しい。それ、ボリンジャーじゃなくて、ボランジェって読むんだよ?」


 私が口を押さえてくすくす笑いながらそう言うと、由美ちゃんはグラスを口から離して、不満そうにお品書きに書かれた文字を、上から順に指さす。


「B O L L I N G E R これでボリンジャーじゃないんですか?」


 由美ちゃんの指摘ももっともだ。


「うん、それでボランジェ――だよ。正直、知らなかったら私もボリンジャーって読んじゃうと思う」


 二人で笑った。読み方についてぶーぶー文句を言った。


「読み方は納得いかないけど美味しいです。これ、よく飲むんですか?」


「たまにね。気分がいい時、へこんでる時のどっちかに」


「今日はどっちなんですか?」


 私は手を伸ばして、由美ちゃんのほっぺたにそっと触れる。私の手は冷やっとしていたのか、一瞬由美ちゃんがびっくりする。


「もちろん今の私は絶好調。……にしても由美ちゃん、けっこうお酒飲めるんだね。びっくりだ」


 由美ちゃんは誇らしげに胸を張る。やわからそうなおっぱいだ。


「はい、お酒は好きですよ。お父さんと二人でよく飲みに行きますから」


 由美ちゃんは私がほっぺたを触るのをいさめない。なるほど、由美ちゃんみたいな娘だったら、可愛くて仕方ないだろう。きっと母親の目を盗んで行ってるんだろうな。


 私は由美ちゃんの頬を解放してあげる。


「お父さんと仲いいんだ。いいことだね」


「ハミちゃんとこは仲悪いんですか?」


 ハミちゃんというのは、私の愛称だ。映子さん、アキさん、アキちゃん、あーちゃん、はまちゃん、あーはまさん……といろいろあって、ハミちゃんで落ち着いた。由美ちゃん曰く、「わたしが『ゆみ』だから、『はみ』のほうがバランスがいい」らしい。正直よくわからないが、悪い気はしないから良しとする。


「うちはあんまり仲良くないね。性格合わないんだ」


 由美ちゃんは首をかしげる。


「そうなんですか? 残念ですね」


「うん」


 嫌だなあ、あの父はこんな時にも嫌がらせをしてくる。私は話を変えるべく、自分の皿の牛テールをちょっと、由美ちゃんの皿の上に置いた。


「とっても美味しいから由美ちゃんにもおすそ分け。食べてみて」


「はーい」


 由美ちゃんはなんの遠慮もなくそれを口に入れる。可愛いなあ。小さな口を頑張って動かすのがいい。私はそれをさかなにボランジェを飲む。食べっぷりがいいコは見ていて楽しい。


「ああ、幸せ……」


 官能的な味に、由美ちゃんはほっぺたを押さえて目を細める。気に入ってもらえてよかった。どんどん餌付けしたい。


「じゃあハミちゃんにもこれ、どうぞ」


 今度は由美ちゃんが、私の皿の上にオマール海老のボイルを置いた。そして私がこれから食べるのを、ボランジェを飲みながらじっと見守っている。ちょっと恥ずかしかったけれど、それを口に入れる。


「美味しい」


 自分で言ってて味気ない言葉だなと思ったけれど、シンプルにそう思った。美味しい、と。


「どんどん食べてどんどん飲みましょう」


「よし、飲もう!」

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