第9話

 その日はとても楽しかったし、それは夏休みが終わって、木々が鮮やかな色を見せてくれるようになった十月の今も続いている。


 由美ちゃんは単位をたくさん取っているからもうほとんど授業がないらしく、だから私の都合さえ合えばいつだって会うことができた。ほとんど毎週、それまでのお互いの話をしながら、二人で根津神社とか葛飾帝釈天とか、そういった観光地を回る。私の使い慣れたカメラはなんと、私以外の人間もフィルムに収めるようになった。家で眠ってしまう前に、紅葉の前で私と並んだ由美ちゃんの笑顔を見ていると、私は誰かに写真を撮ってもらうことも悪くないなと思えるようになった。


 それまで灰色だったのだと――今ならわかる私の毎日が、急に色づき始める。私は由美ちゃんと別れると、すぐに次の土曜日のことを考えるのだった。


「じゃあ、遂に一緒に飲みに行くことになったんや?」


 受話器の向こうから聞こえる公子の声は、私と同じくらい喜んでくれているように聞こえる。私は寝間着で部屋の窓を開けて、目の前の電柱――そのさらに向こうで月の光に照らされるビル群を眺めながら、電話を畳の上、身体のそばに寄せて、気を抜けば大きくなる声を抑えながら言った。


「うん、今までは夕方になったらお別れしてたから、来週が初めてやねん」


「良かったやん。にしても大学生を酒場に連れ込むなんて、映子は不純ですな」


 姉のおどけるような言い方に、私は壁の向こうのお隣さんに気を使って、小さく笑った。


「由美ちゃんに嫌われるようなことはしいひんし、言わへんよ。今がいちばん幸せやから、そんなことして台無しにはしいひん。なあ公子、もし私が、あのコといられることを当たり前みたいに言い出したら、その時は叱ってな」


 今の時間が失われてしまうことへの不安が、なぜだかつのる。


「そっか、ようわかった。今日は電話でも元気やってわかるわ。大事にせなあかんで、ほんまに。良かったな、映子?」


 私の口からふっと息が漏れる。一泊空いてしまったので、仕切り直しに公子をからかうように言った。


「うん。公子も景亮けいすけさんを大事にしいや。愛しのフィアンセやろ?」


 公子は全然動じなかった。


「大事にしてんで? 会うたび好きって言うてるし。今日も電話して、年末は『ゴジラ』観に行こなって」


 公子の恋人は冬目ふゆめ景亮さんという。公子とは、私が上京したころくらいからの付き合いらしい。私は会ったことがないが、公子の話によるとすごくいい人のようだ。


「ほうほう、景亮さんも怪獣映画好きなんや。男の子やもんね――ん? だから私もキングギドラとか好きなんかな?」


 私はふざけてそう言った。別に女の子が好きなだけで、男になりたいわけではいのだが。受話器の向こうから、公子が声をあげて笑っているのがきこえる。


「せやね、子どもの頃から大好きやったもんね。メカゴジラとか覚えてるで」


「そうよ、あれから九年ぶりなんよ? これを観に行かずに何観るって話。ほんまやったら、またおじいちゃんに連れてってもらいたかったんやけどな」


「うんうん――懐かしいなあ。……あ、やばっ、お母さん来たから切るわ、おやすみ」


「そっか、おやすみ公子」


 やっぱり、人が本当に幸せになるのは、大切な人とその喜びを分け合えた時だと思う。公子と話して、私は二倍も三倍も幸せになった。

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