第8話

 それから数日経って鳥居をくぐった私の気持ちは、初めてだったあの日と違って完全に底に落ちていた。いろいろな気持ちがまじりあって何も言えない。ここに公子がいなくて、おばあちゃんもいなくて、心底寂しい。誰もいなくて、繋がりもなくて、悲しくてやりきれない。寂しくて泣きそうになる。


 私はあまりに寂しくて、気を紛らせたくて拝殿の前に立った。


「公子、ありがとう」


 思わず言葉に出してしまうほど、私は公子に感謝してる。私が飛び出した夜、公子は私に電話をくれた。私が謝ると、公子は笑って許してくれた。公子はいつだって優しい。学校の先生になれるくらいなんだから当たり前なんだろうけど、私とは懐の深さが違う。おばあちゃんに会えなくなった今、私の家族は公子だけだ。いつだって私が言いたいことを黙って聴いてくれて、私は公子がいなければ、今まで生きてこられなかった。公子は、私が一目惚れした――好きなコができた――女の子が好きになった――と言っても受け入れてくれた。私の勇気に報いてくれてありがとう。私は公子を、公子の思いを大切にすると誓う。


 両手を合わせた。やっぱりあの日のことを考えてしまう。


 おばあちゃんにもあんなところを見られたのかと思うと、公子に迷惑をかけたと思うと、帰らなければ良かったのかもしれない。だって、私が私でいるだけで、なんであんなことを言われなくちゃならないんだ。だけど公子の優しさを知れたから、そう思うことはやめにしよう。これからはバカみたいな期待をせずに済むんだし。


「映子さん」


 セミの声が消える。私は閉じていた目を見開いた。さっと振り返った。鳥居の形をくっきりと浮かび上がらせる日光を受け、女の子の輪郭がくっきりと浮かび上がっているのが目に入った。由美ちゃんだ。


 由美ちゃんが来てくれた。由美ちゃんはこんな私に会いに来てくれたんだ。


 私の心は、由美ちゃんを見るだけで穏やかになった。情けない話、目が潤んだ。私の心のモヤモヤを吹き飛ばしてくれた。私は由美ちゃんにバレないように涙をぬぐって、明るい声を作って言った。


「こんにちは、由美ちゃん。カブトムシは見つかった?」


 何も知らない由美ちゃんは、人さし指で鼻を触りながら言った。


「いやー、やっぱり昼間は見つからないですね。夜行性ですから」


 由美ちゃんの得意げな言い方がおかしくて、私はクスッと笑えた。由美ちゃんはそのまま近づいてきてくれる。


「ずいぶん熱心にお祈りしてましたけど、何をお祈りしてたんですか? ……あれ、泣いてるんですか?」


 由美ちゃんに潤んだ瞳を覗き込まれて、驚いたようにそう言われて――私は少し恥ずかしくなって――なんと返したものか――と考えた結果、ちょっと困らせてみることに決めた。


「あくびしただけ。それで、何をお祈りしてたと思う?」


 私が涙を拭ってイタズラっぽくそう言うと、由美ちゃんは笑顔になって、「うー」と唸って、「わかりません」と言った。正直なコだ。そりゃ、わかるわけない。


「実はね、由美ちゃんともっと仲良くなれますようにって、祈ってたの。だから由美ちゃんが会いに来てくれてとっても嬉しい」


 公子の応援があったから、私は前よりずっと積極的になれた。それに前は由実ちゃんという女の子をつかみかねていたけれど、今回は前よりはずっと、どんなコなのかわかっている。


 由美ちゃんはかーっと顔を紅潮させてうつむいた。


 それだけで、すっかり私は幸せになっていた。……しかしこのコ、女の私が言うことにこんなに顔を赤くしてるなんて、カッコいい男の子なんかに口説かれたら、ころっと落ちちゃうんじゃないだろうか? 誰かこのコを守ってあげられる女が近くにいればいいのだが……。


 私がそんなことを考えていると、由美ちゃんは私の横に立って、ぱんぱんと手を合わせて目を閉じた。


 お賽銭は? そう思いながら私が目を丸くして見ると、由美ちゃんは目を開けて、こっちに向けて言った。


「私も、映子さんともっと仲良くなれるようにお祈りしました」


 ……ああ、抱きしめたい。私は鼻の下を伸ばす。


 バイクを失った由美ちゃんは、今日はバス停からここまで歩いてきたらしい。カブトムシを探すためというのは方便で、実はけっこう信心深いのだろうか? そう聞いても良かったが、私はそれをやめておいた。由美ちゃんも、私がどうしてここにいるのか聞かなかったからだ。


「映子さんは大学生さんですか?」


 なんと二人で下町の方に遊びに行こうという話になって、私たちはまた駅のほうへ、田園風景が広がる道を歩いている。


「ぶぶー、もう自立して働いてるよ。私はね、時計屋さんなの」


 由美ちゃんが立ち止まって目を見開く。小鳥みたいに首をかしげる。


「時計屋さん?」


「うん、時計屋さん」


 デパートで働いてるよって言えばそれまでなのに、私は敢えてこんな言い方をした。頭の上にクエスチョンマークを浮かべた時の由美ちゃんの可愛さが尋常ではないからだ。


「時計屋さんって、時計屋さんですよね? じゃあ映子さん、ルパンみたいな眼鏡とかするんですか?」


 ルパンみたいな眼鏡? 毎週やってるアニメのあのルパン? いや、ルパンって眼鏡かけてないしな……うーん……あ、もしかしてお祖父さんのほう? 怪盗紳士のほう?


「ルパン? 由美ちゃんが言ってるのって、ルーペのこと?」


「ルーペ? わからないですけど、あれですよ。ほら、時計屋さんって、片方にだけ眼鏡つけてるじゃないですか」


 やっぱりルーペだ。時計屋っていうと、たしかに髪の白いおじいさんがルーペをつけてるイメージかもしれない。あれ、片眼鏡に見えなくもないか。ルパンか……確かに怪盗紳士といえば片眼鏡だよね。こんなことを一生懸命に話すんだから面白い。何度も言ってるけど、やっぱり由美ちゃんは可愛い。


「ルーペだね。あれでね、時計の中身を見るんだよ。私は売るのが仕事だから使わないんだけどね。ていうか私、デパートで働いてるだけなんだ。時計屋さんなんて言うと、店を構えてるみたいだよね。ごめん、誤解するような言い方をして」


 それでも由美ちゃんは、私のほうに身を乗り出してくる。


「すごい! 映子さん、デパートで働いてるんですね! だからオシャレさんなんだ!」


 両の拳を握り締めて、由美ちゃんは私を見上げてそう言ってくれる。なんだかとても嬉しくて、恥ずかしい。私は頭を掻きながら言った。


「私、オシャレかな? というかそれ、関係ある?」


 由美ちゃんはうんうんと力強く頷いた。


「あります。おおありです! だってデパートで働いてる人って、みんなオシャレさんじゃないですか。納得です。だから映子さんはオシャレさんなんですね。今度、私の服も選んでください」


 いやいや、嬉しいけど、それ、嬉しい偏見だし、なんだか恥ずかしいよ。私は自分の服を引っ張ってみせた。


「こんなの、どこにでもあるやつだよ?」


 褒められた時、素直にそれを受け入れられないのは私だけではないだろう。素直にありがとうって言えたらいいのに。


「ノースリーブで色っぽいです。なんだかすごくオトナな感じ」


 由美ちゃんは背伸びをして、私のそばに寄った。


「私も映子さんくらい身長が欲しかったなー」


 ふわっと、シャンプーの匂いが鼻まで届いた。我慢できなくなって、私はずっと触ってみたかった由美ちゃんの頭に手を置く。手触りがすごくいい。


「女で背が高いって、いいことばかりじゃないんだよ? それに由美ちゃんはちっちゃい方が可愛い。この髪も日本人形みたいで、羨ましいくらい」


 そのまま頭をぐりぐりといじると、由美ちゃんはほっぺたをふくらませて私を見上げる。


「私は映子さんみたいに、カッコいい感じになりたかったんです。持ってる人が持ってない人に、羨ましいなんて言わないでください」


 批難するように目を細める由美ちゃんが可愛くて、私は声を出して笑った。


「隣の芝は青いから。だけど私の真似して髪切ったらだめだよ? 由美ちゃんは今がいちばん。採点したら百点。自信を持って」


 私は由美ちゃんの髪をすくように撫でた。


 さっきからずっと同じところ、道の真ん中で立ち止まっている。私たちは気が合うようだ。

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