第7話
一時間ほどの公子とのドライブが終わって、私の視界に私が生まれ育った場所が映った。あの夏から一度も足を踏み入れたことがないとは言わないが――去年のお盆も帰ってきたのだが――あれからここで眠っていないことは確かだ。ここは私にとってそんな場所だ。
去年の今を思い起こす。去年もまた父と大喧嘩をした。理由が何だったか、はっきり覚えてる。あの人は人の気持ちを考えない。だから嫌になってしまうのだ。私の父は完璧さを私に押し付けてくる。あいつの中の『完璧な私』は絶対に一人で上京したり、まして女の子が好きだなんて言わないのだろう。だけど私は私なのだ。
私が生まれ育った建物に入って最初に何をしたかというと、おばあちゃんの顔を見に行った。きれいな額縁の中の、私の記憶よりもちょっとだけ若いおばあちゃん。その笑顔に癒される。馴染んだ畳と線香の匂いの中で、仏壇の前で
おじいちゃんとおばあちゃんがあんなにいい人じゃなければ、私がこんなにおじいちゃんとおばあちゃんが大好きでなければ、私はここにいなかっただろう。七年前におじいちゃん、一昨年におばあちゃんが亡くなってからは、それまでは曖昧だった、先祖の霊を
「映子、ほら」
公子に促されて、私は仏壇の前に正座して、鈴を鳴らして手を合わせる。おばあちゃんの遺影を見て、「映子ちゃんが幼い頃からそうだと気づいてたよ」と、頭に手を乗せて言ってくれたあの日を思い出して、私の目から涙が出そうになる。
そんな私の様子に気づいてか気づかずか、公子がぽつりと言葉を漏らした。
「映子はおばあちゃんっ子やったもんね」
本当にね。私はおばあちゃんが大好き。おかえりおばあちゃん、私は元気だよ。
今年もちゃんと伝えられてよかったと思っていると、私が望まない時間が来た。
昼食を食べていけと母が譲らないので、私は今食卓を前にしてる。さっきから父と母は公子とばかり話していて、私は黙っているだけだ。たぶんまだ一言二言しか言葉を交わしていない。でも私はわかっている。あいつらに実家住まいの公子との話題など、そんなにあるはずはない。これはもうすぐ私に話をふるぞという父と母の暗黙の宣言なのだ。
「映子は仕事、うまくいってるんか?」
それきた。思っていた通り、父は私に話しかけてきた。
「まあ」
私は返事をすれど、それ以上は何も言わない。私のやることはなんでも反対するくせに、その
「まあじゃわからんやろ、ちゃんと答えなさい。東京はどうなんや? こっちとはやっぱ違うか?」
「たぶん変わらないと思う」
そっけなく言う。別にこの人とトーク番組をやってるわけじゃないんだし、話すことはない。
「去年もそうやけど、盆に休んで大丈夫なんか?」
「別に大丈夫だと思うけど」
まただ。この人は自分の娘が接客業なんかをやっているのが嫌で仕方ないらしい。いつだって土日が休みじゃないと――とか、こういう職種は休みは取りづらいよな――とか言って、同情するようなふりをして私にそれを感じさせる。
「せや、こんど
公子が割り込んでくれる。本当に、公子には気を使わせてばかりで申し訳ない。
「おっけー。ゴキブリもゲジゲジもおらんから安心しい」
そのまま公子と途切れることなく話したかったのだが、父はそれを
「ちゃんと生活できてるんか? なんやったらいっぺん――」
「大丈夫だって。昨日今日始めたことじゃないんだし」
ぴしゃりと言い放つ。父の
「別に男と同棲してたり、急に父親のわからない子供作ったりしないから、何の心配もいらないよ。それに迷惑かけてないじゃん。ほっといてよ」
私が父を
公子には申し訳ないが、私はこういうことを言うのをやめられない。それが反抗期のガキみたいなくだらないことだとしても、どうしてもやめられないのだ。
父は母に目配せをし、母は探るように私に言った。
「あんた、東京に彼氏いいへんの? 公子はもう相手と約束しあってるんやで。あんたもはよう相手見つけ。なんなら見合い話もあるんやけど?」
公子には素敵な彼氏がいて、仕事の都合がついたら結婚するということは、公子が何度も電話で話してくれるから知っている。
私は母の言葉にがっかりした。ひとつ、私のことを知っているくせに、ふざけたように「彼氏がいないのか?」と聞いてくるところ。ひとつ、公子を引き合いに出して、私が母の思う生き方をしていないのだと指摘してくるところ。そしてやっぱり、私の人生を勝手に決めつけたように話してくるところ。
私は心底がっかりした。前のお盆から丸一年。それだけの時間があれば、私の思いを理解してくれているかもしれないという、馬鹿みたいな期待をしていたからだ。
「彼氏なんているわけないじゃん。私のこと知ってるくせに、見合いなんて言わないでよ」
私が無機質にそう言うと、一気に空気がこわばる。公子が彼氏との
父はそんな話を聞き流しながら、私の方に目をやって、小さく溜息をついて、独り言のように言った。
「双子やっていうのに、なんで映子は普通にできんのや」
ぐっと、胸に圧力がかかった。苦しくなった。あの夏と同じだった。あの夏、ここで私は同じ意味のことを言われた。私が辛くて悲しくて、もう一人で抱えていられなかった思いを、父さんは「おかしい」と言った。辛かったから――もう抱えていられなかったから――だからみんなの前で思い切り泣いた私を、父さんは励ますどころか否定した。なんで普通にできんのや――か、……やっぱり父さんはそう思っていたんだ。私のことを普通じゃないと思っているんだ。
どんどん悲しくなってきた。どんどん寂しくなってきた。視界が歪んできた。女の人を好きになることは、そんな風に、やっぱり、がっかりされるようなことなのか。私が心に従うことは、冷たく溜息をつかれるようなことなのか。自分の耳が信じられない。息ができなくなって、まぶたも閉じれない。
だけど父はそのままの息で箸を進めていて、私の視線にすら気がついていない。私は悔しくて、情けなくて、その場で立ち上がった。頭に血が上っている。 感情が一気に沸点を超える。
「双子だから何? 普通にできんってどういうこと?」
私は目を閉じて、ぎゅっと歯を食いしばって、机を力一杯叩いて、大きな声を出した。
「普通にできんってなんなんよ!」
部屋が静まり返る。父と母が驚いて私を見上げ、公子が青ざめている。
何を驚いてるんだ。何をびっくりしてるんだ。そうだ、大嫌いだ。結婚して子供を産んで――そんなもの以外は絶対に幸せだと感じることのできないこんなやつら、大嫌いだ。私に、好きでもない男と結婚して、セックスして、子供を産んで――そんなことをしろというのか。普通じゃない私はそうじゃなければいけないのか。そうじゃないからいけないのか。だから溜息をつかれるのか。
テーブルの上に二滴、何かがぽつぽつと落ちた。私は自分の目から出ているものに気がついて、父の顔も母の顔も見たくなくて、何も言わずに荷物を持って家を飛び出す。
「待って映子!」と、公子が私を止める声も聞こえたけれど、そんなことは関係ない。
「追いかけないで!」
大きな声で、私はここにいたくなかった。近所の人が見てるとか、そんなことを全く気にせずに、家を出て方向も関係なく、バカみたいに感情を爆発させて全力で走った。父と母から距離を取りたかった。
気がついた時には、おばあちゃんとおじいちゃんのお墓の前にいた。
私がまだ世間で一般的でない思いを持っていることも、私が逃げるように上京した時、どんな気持ちだったのかも、おばあちゃんが私にどう言ってくれたかも、別に父と母は知りたくないのだろう。あいつらにあるのは、私を思い通りにしたいということだけ。別にどんなことも、どう思おうが勝手だ。だけどそれを私に押し付けるのは間違ってる。
ここから見える一面の棚田を眺めると、心が落ち着く。優しかったおばあちゃんのことを思い出す。おばあちゃんがいてくれたら、今だって私の味方になってくれて、あいつらを叱ってくれたのに。いつだって私の気持ちを分かってくれたのはおばあちゃんだけだったのに。今日ここに来たのだって、おばあちゃんのためだったのに。
公子に悪いことをしてしまった。私は公子の前に姿を現すたびに、嫌な思いしかさせてない気がする。もう迷惑はかけたくない。去年も今日ほどじゃなかったにせよ、あいつらとは喧嘩しかしなかった。
お供えを置いて、おじいちゃんが好きだった缶コーヒーを撒いて、ゆっくり腰を上げる。はやく東京に帰ろう。来年は顔を見せずに、一人で墓参りをしよう。もう二度と、あいつらの顔は見たくない。
私ははっとした。
なんていうことだ。私はたぶん、自分も、公子のこれまでの時間すらもダメにしてしまったのだ。仏壇を拝んで、あいつらには何も言わず、公子にだけバイバイを告げて、さっさとあそこを出ればよかった。思えばもっと、上手くやれたはずだった。
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