多剤の間に失ったもの
38.失ったもの①若さ②記憶
多剤大量処方から抜け出した私は、まず初めに自分のその時の年齢に愕然とした。
母によって精神科に連行されたのが二十歳の時(二十一歳になる年)だった。それからもう十四年の年月が経ち、私はついその前の月に三十四歳になった所だった。
社会から隔絶された生活を送って十四年も経ってしまっていたのだ。その間、軽いバイトはした事があったが、まともな職歴も無く、せっかく専門学校を出たのにそのスキルを活かす事も無く生きてしまった。厳密には、ほぼ何も成していない生活を送ってきたのだ。
もう、三十四歳……。
むやみに年を重ねてしまったことに愕然としただけではない。この時、私は過去の記憶がほとんど曖昧になってしまっていたのだ。記憶にすっぽりと穴が開いたかの様だった。そんな私を、M先生は『スリーピングビューティー(眠り姫)と同じ状態だったんだよ』と諭した。むしろ『死んだ状態から生き返って、赤ん坊と同じ状態』だとも言った。
赤ん坊と同じと言われるくらい、私の認知機能は破壊されていた。この頃、私は一単語で話す事が多かった。例えば、美味しそうな天ぷらを見たとする。そうすると、「てんぷらー」とだけ言葉を発するのだ。綺麗な花を見ても「たんぽぽー」としか言わなかったりして、まるで幼児が話しているかのようだった。
おそらくだが、身のこなしとかも年相応ではなかっただろう。それは令和三年五月の段階でも身に付いてはおらず、私は相変わらず子供っぽい話し方に身のこなしだ。
頭がはっきりしたころから今までずっとある感覚がある。それは、何をしても、何を見ても新鮮で楽しいという事だ。
頭がはっきりしたこの年は、同時に父も倒れて入院した年だった。母にとっては苦難の一年だった。その年の年末には、私も父も大分落ち着いていて、二人とも家に帰宅していた。すると、母は「お母さん、今年遊んでない。このままじゃ世話しかしてない一年になってしまう!」と年末に千葉県の房総に私を連れて旅行することになった。
その時訪れた旅館は、多剤大量処方の間にも行ったことがある所だったが、私はせっかく両親が連れて行ってくれた数々の旅行の記憶も吹き飛んでしまっていたので、この時の旅行をとても新鮮に感じて、また何もかもが楽しく感じたのだった。
多剤大量処方の間も、両親は私を色々な所に旅行に連れて行ってくれたらしい。私はおぼろげにしかその記憶が無く、そのことを両親に告げたら、母は言葉を失ってしまったようだった。
記憶も、若さも失ってしまっていることに私はもの凄くショックだったが、M先生は「記憶は作っていけばいい」みたいな事を言ってくれた。「いい記憶で悪い記憶を上書きしていくことが大事」という事も言っていた。
次回は、多剤の間にこじれてしまった友人関係やきょうだい関係についてです。ちょっとヘビーですが、今までのエピソードに比べればなんてことないです(笑)。
いつもお読み下さり、本当にありがとうございます! この『失ったもの』シリーズが意外と単品では書きづらく、書いている間に項目をまとめてしまったりしたので、ちょっとこのエッセイの回数が短くなりました。失ったものシリーズは四回の予定で、おいたん(Eさん)はまたその後登場する予定です♪
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