7.「お母さんを休ませてあげて」

 修正型電気けいれん療法(m-ECT)の後も私の希死念慮は治まらず、リストカットを繰り返す日々だった。この頃は寝ているか切っているかのどちらかという状態で、母は段々疲弊していった(それに私は気付いていなかったが)。


 そんなある日、T先生から「お母さんを休ませるために入院してください」と言われた。何が何だか分からなかったが、入院すれば寝ていられるし、とりあえず入院することにした。


 この頃の私は母を気遣う余裕も無かった。ただただ「死にたい」の一点張りで、周りを見ることが全く出来ていなかった。


 ここで私が入院したことで母が休めたか、というとそうでもないと思う。その理由は前回書いた『病院食のクソ不味さ』にあった。


 はっきり言って食べられたものじゃない。お味噌汁はダシの味が全くしない味噌を溶いただけのもの、パンはびしゃびしゃ、煮物はひたすら甘く、魚もパサパサ。それでなくても食欲が無いのに、この味は酷い。


 見かねた母は、毎日お惣菜を作って持ってきてくれていた。この頃母は満員電車に乗って都内まで仕事に出ていたから、きっと凄く疲れていたに違いない。なのに、私はそんな母の疲労に気付く事がなかった。今にして思うと情けなくて、怒りすら感じる。自分で自分を殴りたいくらいに思ってしまう。


 入院すると寝ていられると上の方に書いたが、それは私が自傷行為防止の為にもと、二十四時間安定剤入りの点滴をされていたからだった。それをやられると凄く眠いのだ。A病院は大学病院だったが、精神科専門の病棟が無かったから、私は一般病棟の大部屋に色々な病気の人と居た。そこで問題を起こされたら大変なのだろう。今にして思うと、専門病棟も無いし、治療が集中的に行われるわけでも無いし、母はおかずを作って持ってきていたし、この入院に意味があったかは謎である。ただ言える事は、この一カ月の入院の間は私は自傷行為も自殺未遂もしなかった、というより出来る環境になかった。だから、その心配だけは無かった分母は少しホッとしたのではないだろうか。


 当時を振り返って母はこんな事を言っていた。


「あの頃は、仕事から帰るとあんたが血まみれで倒れてたりしたから、玄関を開けた時に『お帰りなさい』が聞こえないと本当に心臓が止まりそうだった」


 こんな思いを親にさせた私はとんでもない親不孝者だと思う。私の親不孝の酷さはこの後のB病院編でさらに加速度を増してしまう。はっきり言ってしまうと、親が私を警察に突き出さなかったり、始末してしまわなかった(凄いお茶を濁しましたぁ)のは、とにかく両親の愛情の強さだ。私ならこんな娘途中で刺してしまうかもしれない、と思うことがある。しかし私の両親はそれをしなかった。母はいつも信じていたのだ。医学の進歩を、いつか精神病が治る日が来るに違いないと信じて疑わなかったのだ。


 A病院編はもうちょっと続きます。次回はちょっとライトなノリで「陽性転移」についてです。むむむ。無雲、今から照れますと同時に穴があったら入りたいです。(笑)

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