8:悪役令嬢・オブ・ザ・リビングデッド(中編)

 ゾンビが地獄の炎のように真っ赤な口を開く。



 エルムが絶叫した。

「騒がないで!」

 ハーデスティが声量を抑えて怒鳴ったが、既にゾンビは令嬢たちに向かって走り出していた。



 フィンリーが前に進み出て、レイピアで刺突する。


 切っ尖が荒れ狂う老女の額にぶつかり、衝撃に弾き飛ばされたフィンリーが、棚に叩きつけられた。

 大量の缶が音を立てて、床に散らばる。



「こっちに来る!」


 エルムが素早く立ち上がって、ハーデスティを盾にするように隠れた。

 シャンシーが銃を抜く。



「駄目だ、銃声でさらにゾンビが来る!」

 床に這いつくばったフィンリーが叫んだ。

「そんなこと言ったってしょうがねえだろ……」


 シャンシーが撃鉄を起こしたとき、エルムが後方を指差した。

「こんなところに斧が!」


 散乱した物資の中に、古びた木の柄と鈍い光を放つ鋼が覗いている。

「ついていますわ!」


 シャンシーが引金を引くより早く、ハーデスティは斧を拾い上げ、目前に迫ったゾンビの頭に叩きつけた。


 硬さと柔らかさの混じった、不快な音が響く。


 老女は一瞬、頭に止まった蝿でも見るかのように脳天に突き刺さった斧を白い目で仰ぐと、そのまま後ろに倒れた。



 ハーデスティは感触を打ち消すために、手の平を自分の腹に擦りつけた。

 シャンシーがゾンビを踏みつけながら、勢いをつけて斧を引き抜いた。


「やるじゃん」

 渡された斧を携えて、ハーデスティが視線を上げると、物陰で音に反応して集まったゾンビが何体も蠢いている。



「ねえ、これ、わたしのせいじゃないよね! そうでしょ?」

「騒ぐなと言ったでしょう、放り出しますわよ!」

 言い合うエルムとハーデスティの元に、フィンリーが駆け戻った。



「あの数じゃ無理だ、バリケードを組もう」

 棚と棚の間から、ゾンビたちが満ち潮のように寄せているのが見える。

 四人は無言で頷き合い、両端の棚を引き寄せた。


 一列目の棚を倒し、二列目の棚を正面に固定して、中にそこら中の箱や貨物を詰め込んでいく。



 ゾンビの姿は見えなくなったが、バリケードを隔てたすぐ先から荒い息遣いと呻き声が響いていた。



 四人は棚を背に立ちながら、息を呑んだ。

「何とか防げたけれど、これじゃ進めなくてよ……」

 ハーデスティが呟く。


「あっちの扉は?」

 エルムが指した方を見てフィンリーが首を振った。

「駄目だ、僕たちが来た方もゾンビが待ち構えてる」



 エルムはまじまじとフィンリーを眺めた。

「あの、誰?」

「……ノヴァ・シェパード。本当の名前はフィンリーだ。訳あってここに来たんだけど––––」



 バリケードの向こうから何かがぶつかり合う音と、ゾンビたちの声が響き、四人は身をすくめた。



「そういうお前は、何でひとりでここに? シロノと一緒だったろ」

 エルムが目を剥いた。


「あの女、本当頭おかしい、人間じゃないの!わたひのこと全然守ってくれないし、カースティだか何だかと急に戦い出して、それで変な鎧男も出てきて、だから、逃げてきたんだけど、こっちもゾンビが出るしで最悪!」



「ちょっと待ってくださる。カースティって、あのカースティ・セノバイトですの?」

 ハーデスティの声にエルムが頷いた。

「そんな訳ありませんわ、だってカースティは……」



 その言葉を遮るようにバリケードの棚から赤いトマト缶が弾け飛び、一本の腕が突き出された。


 エルムが悲鳴を上げた。

 掻きむしったように血まみれの腕が並んだ缶を薙ぎ倒す。


 ハーデスティは斧を振り下ろして、ゾンビの腕を断ち切った。

 腕は床に落ちて、まだ獲物を探すように宙を掻き、動きを止めた。



 棚の隙間からゾンビたちの血走った目と汚れた歯が覗き、唾液の雫が飛ぶ。

 硬い金属を軋ませる音が四方から響いていた。


「崩れるぞ!」

 シャンシーが声を上げ、エルムがハーデスティの肩にしがみついた。


「くっつかないでくださる? これ以上騒がないで!」

「まだ何も言ってないじゃない!」


 軋む音はヒビが破れるような小さな音に変わった。



「僕が抑えるから三人は棚を逃げてくれ。たぶん向こうに道があるはずだ」

 フィンリーが表情を強張らせて言った。

「大丈夫、僕もすぐに追いかけるよ」


 彼の固い笑顔を見つめながら、自分よりも数歳幼いのだろうとハーデスティは思う。

「今さら置いていけませんわ」


 棚が大きく振動した。



「避けろ!」

 シャンシーの声に弾かれて、四人が飛び退いた。


 崩れた棚を乗り越えて、大量のゾンビが押し寄せる。

 ハーデスティは斧を握りしめた。



 そのとき、薄氷を破るような音が響き、天井が崩れ落ちた。



 ゾンビたちの上に瓦礫が降り注ぐ。


 石造りの天井の破片に次いで、白銀に輝く鎧が宙から降りてきた。

 さらにその甲冑に、ふたりの女が乗っている。


 四人は時が止まったように、身じろぎもせずそれを眺めた。



 轟音と共に時間が動き出した。

 ゾンビたちを押し潰した瓦礫の下から赤黒い水が染み出す。


 全身を鎧に包んだ男は、首と手足が奇妙な方向に曲がっていた。



 甲冑の騎士を下敷きにして着地したひとりの女–––シロノ・アガサは着物の裾を翻し、刀を構える。


 そして、もうひとりはシロノから距離を取って、額に降りた藍色の髪を払い、目だけ動かして周囲を見回した。



「嘘でしょう……カースティ?」

 斧の柄を握りしめたまま、ハーデスティが呆然と呟く。


「畜生、本当についてないわ……」

 カースティ・セノバイトは彼女を平然と見下ろして吐き捨てた。




「どういうこと……」

 ハーデスティの声に、カースティがわずかに肩をすくめるような仕草をした。



 次の瞬間、シロノの刀が素早く虚空を切り裂き、鋭い金属音が響く。

 刀身に弾かれた何かが弧を描いて飛び、近くにいたゾンビのこめかみに突き刺さった。



 ゾンビの身体が電流が走ったように大きく震え、数回痙攣してその場に倒れた。

 顔中の穴から白い泡が溢れる。

 こめかみには銀色の針が突き刺さっていた。



「こういうこと、でしょうか」

 シロノが口元だけで微笑みを作ってそう言った。



「嘘よ、だって……」

 ハーデスティの声がゾンビたちの咆哮に掻き消された。



 失っていた勢いを取り戻した亡者の群れが、瓦礫を踏み越えて再び攻め寄せる。



「走れ!」

 シャンシーの叫び声に弾かれて、令嬢たちはゾンビの波の間を駆け出した。



 ハーデスティの背後から細い影が迫り、血まみれの腕が視界に入った瞬間、絹を滑らせるような音がして、影が搔き消える。



 鈍く光る銀の刀と血を吹き上げながら飛ぶゾンビの腕を見留めて、肩越しに後ろを振り返ると、シロノが亡者たちを次々と斬り捨てていた。



「みんな、こっちに道がある!」

 フィンリーが声を張り上げた。


 棚と棚の先に続く、仄暗い四角形の穴がある。

 ハーデスティが速度を上げたとき、前を走るフィンリーとカースティが、横から飛び出してきた巨大な何かに弾き飛ばされた。



「フィンリー!」

 煙幕に掻き消されてふたりの姿は見えない。


 駆け寄ろうとしたハーデスティは、誰かに襟首を掴まれたかと思うと、身体が宙に浮き、前方の暗闇の中に放り込まれた。



 硬い床に叩きつけられた彼女に次いで、飛び込んだシロノが着地し、シャンシーとエルムが続く。


 背後で鋼鉄の幕が降り、入り口を閉ざした。



「何をするの! フィンリーたちがまだいましたわ!」

 ハーデスティは自分を放り投げたシロノに詰め寄ったが、彼女は表情も変えずに答える。

「失礼、急がなければ入り口が閉ざされそうでしたので」

「だからって……」



「仲間割れしてる場合じゃねえぞ、これ……」

 呟いたシャンシーが引きつった笑みを浮かべていた。

 どこからか歓声に似た叫び声がこだましている。


「え、何? これ、何の声?」

 エルムがシャンシーの腕にすがりつく。


 ハーデスティは身体を起こして、光と音が示す方向へ進んだ。



 短い暗闇が終わり、目の前に鉄板で造られた平面が広がっている。


 巨大な空間に迫り出した足場に金属の簡素な手すりが設置され、中二階のようになったステージに踏み出して、ハーデスティは恐る恐る見下ろした。



「どうするのよ、これ……」



 階下は床板が見えないほど大量のゾンビで埋め尽くされ、令嬢たちの血肉を求めて喚き立っていた。

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