ゾンビ回

8:悪役令嬢・オブ・ザ・リビングデッド(前編)

 乾いた血が指先から剥がれて、花弁のように落ちた。



 ハーデスティは長い廊下を進む足を止め、来た道を振り返った。



 テレサ・カスタベットが死んだ。

 宮廷劇場の華と言われた彼女の最期はあまりに呆気なかった。

 埋葬する場所も時間もなく、ノヴァ––––フィンリー・シェパードが破ったドレスの布で覆ってやっただけだ。



 視線を感じてハーデスティが向き直ると、前を進んでいたシャンシーとフィンリーが彼女を待っていた。



 ハーデスティは少々俯いてから、普段の冷徹な令嬢に見えるよう表情と声を作って言った。


「それで、ノヴァ……いいえ、フィンリー。なぜあなたがそこに来たのか、聞かせてくださる?」


 フィンリーは頷いてから、再び歩き出して答えた。



「シェパード家は貿易をやっていてね。父から仕事を教わるため、よくポロニア港を訪れていたんだ」

「そこなら私の従者もときどき行っていましたわ」

 もう何年も会っていないようなギュンターの顔が浮かぶ。


「そうかい? 会ったことがあるかな……そこで、妙な船を見たんだ。人目を避けるように、鮫も多いしときどき竜巻も起こるような危険な航路を通っていた。港に着いたところを忍び込んで見たら、大量の積荷があって全てロバートソン家に宛てたものだった。中身は……」


 フィンリーは口を噤んで、怒りに耐えるように表情を強張らせた。


「毒を持った動植物、かつて刑場で使われていた拷問器具や処刑道具、獣用の罠に武器。他にもまだ大量にありそうだった」

「婚約パーティで使うようなもんじゃないな」


 シャンシーが肩を竦めた。


「ダミアンについてよくない噂も聞いていたんだ。彼との縁談を受けた令嬢が心を病んで帰ったとか、館に使用人が居着かないとか……真偽はわからなかったけれど、病弱な姉を行かせたくなかった。まさかここまでは想定してなかったけれどね」



 シャンシーが片手で銃を弄びながら言う。


「そういえば、俺の親父も最近西から妙なクスリを大量に卸してくれって需要があったとか話してたな」

「あなたのお父さんということは、麻薬ですの?」


 ハーデスティの声に、シャンシーが頷く。


「まぁ、そうなんだけどさぁ。一応分別はあるんだぜ。商売相手を潰しちゃマズいし、安くてろくでもないもん他のとこから勝手に売られたらみんな駄目になっちまうだろ? だから、ある程度は必要悪っていうか、正義の麻薬王っていうか……」

「麻薬に正義はありませんわよ」


 シャンシーは頭を掻いて口を噤んだ。



「それは置いておいて、妙なクスリというのはどんなものなんだい?」


 フィンリーが振り返って聞いた。

 その肩の向こうに小さなひと影が揺れている。


 シャンシーはそれには気づかずに答えた。

「あぁ、何ていうか、キョンシー……いや、こっちだとゾンビっていうのかなぁ。あんな感じになるんだよ」


「ゾンビ?」

 ハーデスティは眉をひそめた。

 ひと影が徐々に近づいてくる。揺れて見えたのは、距離による錯覚ではなく、実際に小刻みに震えていた。


「そう。そのクスリやると、頭がおかしくなっちまって、話が何にも通じないどころか、ずーっとぼんやりしてんだ。でも、ひとを見るとすげえ力で襲いかかってきて、ぶん殴っても痛くないみたいに全然止まんねえんだ。普段はよだれ垂らしてフラフラしてんだけどな」



「あんな風に?」


 ハーデスティは前方を指した。

 彼女の指の先には、卵白のような濁った目をした男が両手で宙を掻きながら、ゆっくりと進んでいる。

 その肌は土気色だが、ところどころが炎症を起こしたように赤く血が滲んでいた。


「そうそう、あんな風。っていうかアレだ……」

 鷹揚に頷いたシャンシーに、男の虚ろな目が焦点を結ぶ。

 半開きになった口から滝のような唾液が流れた。



 三人は息を呑む。


 男が獣の威嚇のように身を震わせると、先ほどまでが嘘のような俊敏さで、こちらに向かって唐突に駆け出した。


「アレだ、じゃないよ!」


 フィンリーがレイピアを構え、眼前に迫っていたゾンビの腕を払う。

 赤黒い血が飛び散るのにも構わず、ゾンビはフィンリーに組みついてきた。



「な、何だコイツ!?」


 剣の先が何度身体を刺しても男は怯む様子すらなく、狂犬のようにフィンリーにしがみつく。



「早く撃ってくださいません!?」

 ハーデスティに肩を揺さぶられたシャンシーが狼狽える。

「無理だ。フィンリーに当たっちまう。それに……」

「それに?」

「おれ、駄目なんだよ、キョンシーとかそういうの!」

 シャンシーの顔は蒼白だった。



「キョンシーみたいな名前してるじゃありませんこと!?」

「そういう問題じゃないだろ! 生きてる人間はどうにかなるけど、死人が動くのって––––」



 ブーツの先でフィンリーが男の顎を蹴り上げる。

 派手な音を立てて床に昏倒したゾンビの胸に、フィンリーはレイピアを突き立てた。



 男は一瞬動きを止めたが、床に縫いつけられたまま物凄い力で再び暴れ始めた。

「心臓だぞ!?」


 狼狽するフィンリーに、シャンシーが叫ぶ。

「頭だ! 頭を潰せばたぶん死ぬ!」


 乗馬用のブーツがゾンビの頭上に叩き降ろされ、肉が潰れる不穏な音が響く。

 男は電池が切れた機械のように、動きを止めた。



 フィンリーが荒い息で体勢を立て直し、レイピアを拭った。


「戻る……?」

 ハーデスティが震える声で聞くと、シャンシーがしきりに頷いた。


「そうだな。別の道を探そう……」



 背後で喧騒が聞こえた。

 振り返ると、来た道の向こうから大量のゾンビが洪水のように押し寄せてくる。


 ふたりは悲鳴を上げた。



「ハーデスティ、シャンシー、走るよ!」


 ノヴァの声に弾かれて、ふたりは事切れた男の横を通り過ぎ、駆け出した。



 屍を踏み越えたゾンビたちの群れが三人に迫る。

 目の前に暗い壁が立ちはだかっていた。


「行き止まりよ!」

「扉がある! 僕が開けるからすぐに飛び込んでくれ!」


 フィンリーはそういうと、肩でぶつかるように鋼鉄の扉を押し開けた。


 薄く差し込む光の方に向けて走るハーデスティの髪を、ゾンビの腕が掴む。



「触らないで!」

 ハーデスティはギュンターなら渡されたナイフで、ひとふさの髪を切り落とした。

 彼女の腕をシャンシーが掴み、ふたりは扉の向こうへ飛び込んだ。



 フィンリーが素早く扉を閉ざし、錠を下ろす。


 分厚い鉄の向こうから、亡者たちの呻きと扉を掻き毟る爪の音が聞こえた。



「とりあえず、入ってこないみたいだ」

 フィンリーが呟いた。



 ハーデスティは呼吸を整えながら辺りを見回す。

 辿り着いた先は倉庫のようなだだ広い無機質な空間で、棚や何かが詰まった箱が大量に並んでいた。


 物陰の向こうに、ボロ切れのような衣類と髪を垂らした老女が彷徨っているのが見えて、ハーデスティは口元を押さえた。



「騒がなければ気づかないと思う」

 声量を抑えて言ったフィンリーに、シャンシーが頷く。

「銃は駄目だな。気づかれないように切り抜ける方法を考えよう」


「そうですわね。できるだけ静かに移動して––––」



 ハーデスティがそう言った矢先、近くで甲高い少女の悲鳴が上がった。

 老女のゾンビが振り返る。


 シャンシーが小さく舌打ちした。


 並べられた棚の間から、金色の髪が覗く。

「誰かいるんでしょう!?」



「あれは……」

 フィンリーが困惑と焦りの表情で声の先を見た。


 ハーデスティは苦々しく呟いた。

「あれだけ騒ぐのはひとりしかいませんわ。エルム・クルーガー……」



 エルムは涙で濡れた顔を手でこすりながら立ち上がった。

「もう最悪、やっと逃げられたかと思ったら何でわたしばっかりこんな目に遭うの? 助けてよ!」



 エルムの叫び声に反応したゾンビが、令嬢たちに向かって一直線に駆け出した。

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