7:悪役令嬢ズ・ドント・クライ
錆びついた巨大な刃がハーデスティの横をかすめ、硬い床板を鋭く叩く。
鋏をかわして、ノヴァが真っ直ぐに突き出したレイピアを防ぎ、男は後ろに飛び退った。
剣先を正面に向けたまま、ノヴァが叫んだ。
「違う! 私はあの男の刺客なんかじゃない!」
語気に余裕はないが、声は無理に作ったような響きを伴っていた。
「では、なぜあなただけ狙われないの? まるで視界に入っていないようですわ。女を誰彼構わず狙う殺人鬼が花嫁候補を見逃すはずがないでしょう!」
「女を……?」
乾いた破裂声が響き、男が銃口を向けたシャンシーの方へ向いた。
「こっちへ!」
ハーデスティの声に反応したシャンシーが、大きく振り抜かれた刃の下をくぐり、素早くふたりの元に移動した。
「駄目だ、銃が効かねえ。下に鎧か何か着てるみたいで……」
シャンシーが苦々しく呟く。
黒髪を揺らして俯いた姿に、遠く離された従者の姿が重なった。
「ノヴァさん、顔をよく見せてくださる?」
ノヴァが動揺した。
「こんなときに何を……」
シャンシーが戸惑ってふたりを見比べる。
「私の執事は目の下と口元に黒子がありますの。以前、執事が仕事であなたのお父様にお会いしたとき、言っていましたわ。『珍しい。シェパード男爵家の下の娘さんは私と同じところに黒子があった』と」
振り向いたノヴァの強張った顔には一点の徴もなく、蒼白だった。
「お前は一体誰なの」
ハーデスティはギュンターから渡されたナイフを握りしめた。
「危ない!」
シャンシーが叫んだ。
廊下の向こうから飛ぶように駆けてきた男が、ハーデスティに向かって巨大な鋏を振るった。
ノヴァが咄嗟にハーデスティを突き飛ばし、正面に向き直る。
刃と刃が擦れ合う音が響き、床に倒れたハーデスティの視界の端で赤い髪が飛んだ。
頭の形を保ったまま宙空を飛ぶ髪の束を見て、ノヴァの首が切り落とされたのだと思う。
ハーデスティはナイフを取り落とし、目を覆った。
鋭い金属音が続いた。
手の覆いを外したハーデスティの目に、床についたもう片方の手の先にノヴァの毛髪が映る。
生首は転がっていない。
花弁のように広がった毛の束はかつらだとわかった。
ハーデスティが顔を上げると、ノヴァの白いドレスの上に、短く切り揃えた炎のような髪が揺れていた。
ノヴァが構えたレイピアの先で、喉から血を流した男が立っている。
乱れたマントの襟から、唇が剥がれて歯が剥き出しになった口を覗かせて男が言った。
「違う……」
「そうか、女性を狙う殺人鬼だったんだね……」
呟いたノヴァの声には、わざと高くしたような違和感が消えていた。
ノヴァがレイピアで自分のドレスの裾を切り裂いた。
破れたレースのひだから、白の乗馬パンツと編み上げブーツに包まれた脚が現れる。
細いが硬く筋肉質な膝は、少年のそれだった。
シャンシーが息を呑む音が響く。
ノヴァは腰を落として、剣先を男に向けて水平に構えた。
男が歯茎から血を滲ませ、黄ばんだ歯を軋ませる。
巨大な鋏が向けられた瞬間、ノヴァは床を蹴って駆け出した。
二股に分かれた刃の間に飛び込んだノヴァが、錆びついた両刃が合わさるより早く、レイピアで男の喉を刺し貫いた。
男の目が天を仰ぎ、赤い帽子が落ちると同時に、仰向けに倒れた。
血に濡れた剣を引き抜いて、ノヴァはふたりの令嬢に向き直った。
「君の言った通りだよ。シェパード家の次女ノヴァじゃない」
ブーツの靴底が硬質な足音を立てる。
赤い短髪を揺らしたその人物は、手でレイピアの血を拭い去って、ハーデスティたちの前で立ち止まって言った。
「僕の本当の名前はフィンリー。ここに来るはずだったエイプリル・シェパードの弟、フィンリー・シェパードだ」
「弟……」
呟いたハーデスティにフィンリーは手を差し伸べた。
太い眉が微かに歪む。
「疑わせてすまなかった。まさかこんな刺客までいると思わなかったんだ」
ハーデスティは彼の手を借りて立ち上がる。
「なぜあなたは、妹さんの振りをしてまでここに来たんですの––––」
言いかけて、ハーデスティはハッとした。
「テレサさんが!」
「後で話すよ。とにかく今は彼女の方へ」
三人は壁の中の書斎に駆け戻った。
血の海の中でテレサは、本を抱きかかえたまま横たわっていた。
「テレサ!」
ハーデスティが肩を揺らすと、彼女はわずかに首を持ち上げた。
「無事だったのね……」
掴んだ肩はすでに氷のように冷たい。
シャンシーが跪いて、テレサの傷口に触れ、脈を取る。
シャンシーは立ち上がって、ハーデスティの耳元で囁いた。
「この傷じゃもう……」
ハーデスティは目の前が暗くなるのを感じながら、テレサに取り繕った笑顔を向けた。
「大丈夫よ。すぐに止血するわ。今ならまだ……」
テレサは小さく首を横に振り、視線で胸に抱えた本を示した。
ハーデスティは戸惑ってから、彼女の腕を本から外して取り上げた。
血で貼りついた頁を剥がして本を開くと、一枚の栞が落ちた。
古い紙は赤く染まっていたが、貼りつけられた薔薇の花弁の隅が、燻んだ青色をしているのがわかった。
長い睫毛と物憂げに見えるテレサの面差しが、会場で見た辺境伯ダミアンの憂鬱な横顔と線を結ぶ。
「嘘でしょう……」
「知りたかったことがわかったの。もう充分だわ……」
急速に体温が失われていくテレサの身体を揺すって、ハーデスティが叫んだ。
「それはパーティに来た理由でしょう!? 生きる理由じゃないわ! 一緒に帰ると言ったじゃない!」
彼女は力なく微笑むと、大量の血を吐いた。
テレサが噎せ返り、もがくように身体を震わせた。
赤い霧のような血煙が散る。
「肺の中の血で溺れてるんだよ。見たことある」
シャンシーが呟いた。
「嘘よ、まだ助かるわ。生きてるんだもの!」
「これ以上は苦しませるだけだ……」
シャンシーの声は暗く沈んでいた。
テレサが懇願するような視線を向ける。
シャンシーが銃を構えた。
「やめて!」
ハーデスティがその手を抑える。
テレサの美貌が、苦悶で歪んだ。
血走った目がハーデスティを視線で射抜く。
ふたりの横をすり抜けたフィンリーが、テレサの横に膝をつき、レイピアを彼女の胸に突き立てた。
「助けられなくて、ごめん……」
ハーデスティはシャンシーの手を離して、テレサの身体に縋った。
苦しみから解放されたテレサは、最期に舞台で浮かべた完璧な微笑みを浮かべて、静かに目を閉じ、動かなくなった。
涙すらも出なかった。
彼女の顔の血を拭ったが、汚れを塗り広げただけだった。
ハーデスティはドレスの袖が汚れるのにも構わず、彼女の顔が白く美しい肌を取り戻すまで何度も血を拭い、フィンリーとノヴァはそれが終わるまで何も言わずに立ち尽くしていた。
***
金属と金属のぶつかり合う、鋭い音が響く。
それに混じってつんざくような少女の悲鳴がこだましていた。
シロノの刀が蝋燭の炎を反射して赤く輝き、細い雨のような毒針を弾く。
手首を返して振りかざされた刃を、カースティは空中で回転して避け、着地と同時に太腿のベルトに隠し持ったナイフを構えた。
「あぁ、もう面倒くさい女……」
カースティは自分の指先を切りつけ、刃先に血を擦りつけた。
「貴女の血液には毒性が含まれているのでございますね。一度斬りつけられれば勝負がつく……」
シロノは慎しみ深い微笑みを浮かべたまま、刀を構え直した。
「
カースティは無言でナイフを上げ、シロノの頸動脈に狙いを定めた。
そのとき、廊下の向こうからいくつもの鈴を鳴らすような奇妙な音が響いた。
闇の中から滲み出したように、黒い鎧をまとった影が現れる。
背中には身の丈ほどもある大剣を背負い、手には古めかしいクロスボウが握られていた。
鎧の男は手甲をガシャリと鳴らし、弓を構えた。
シロノとカースティの間合いの合間を、矢が飛び、後ろの壁に音を立てて突き刺さる。
「本当、ついてないわ……」
カースティは両方の敵から視線を外さないまま、呟いた。
「一時休戦、なさいます?」
シロノもカースティと鎧の男への緊張の糸を微塵も緩めずに問う。
カースティは肩をすくめて、ナイフの切っ先を鎧の男に向けた。
シロノも刀を上段に構え直す。
「どさくさに紛れてあんたも死んでくれればいいんだけど」
「ご期待にそえるとは申せませんが」
ふたりの姿が霞み、次の瞬間、両方向から襲ったふたつの刃を鎧の男が太刀で防ぐ。
床にへたり込んだエルム・クルーガーは、壁際で頭を抱えて呟いた。
「コイツら、人間じゃない……!」
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