6:悪役令嬢の血を吸う薔薇
格式高い宮廷劇場を模した空間を抜けると、今までとは打って変わって、壁際の蝋燭がぼんやりと灯るだけの寒々しい廊下に出た。
武器を持ったノヴァとシャンシーが、ハーデスティとテレサを挟んで護衛するように進む。
先頭を歩くノヴァとテレサが言葉を交わすのを見ながら、ハーデスティは後ろを振り向いた。
少し離れた場所を少年のように銃をぶら下げたシャンシーが歩いている。
ハーデスティは歩く速度を落として、彼女が近くまで来たのを見計らって言った。
「その銃はあなたのものですの?」
「そう。親父からもらったんだ。お守りみたいなもんだからあんまり弾は入ってないけど」
シャンシーは光に目を細めるような笑い方をした。
「まさかおれ以外に武器を持ってくる奴がいたなんてな」
「ええ、三人もね。パーティを何だと思ってるんですの」
「でも、役立っただろ? まともなパーティじゃなかったんだし」
四人の足音と共に、ノヴァの腰に提げたレイピアの先が床を突く硬い音がする。
引き締まった肩と背中が歩調に合わせて弾むのを見ながら、ハーデスティはシャンシーの耳元に口を寄せた。
「あのノヴァという娘と一緒にいたんですわよね。どういう方でしたの」
シャンシーが「どうって?」と答える。
「本当ですの? 辺境伯と何か因縁があるようだし、姉の代わりに来たと言うし……しかも、招待状を奪ってきただなんて」
「おれの妹も来たがってたよ。引っ叩いてやめさせたけどな」
シャンシーはわずかに目を伏せた。
「来させなくてよかった」
ハーデスティは彼女の表情が曇ったのに気づかないふりをして言った。
「とにかく素性がわからなくて、気かがりですわ」
「いい奴に見えたけどな」
ハーデスティは溜息をつく。
「楽観的ね」
シャンシーは気にも止めず、快活な笑みを浮かべた。
「おれは疑ったりとかするの得意じゃなくてさ。信じられるうちは信じて、駄目だったらそのときどうにかできるようにしてるんだ」
彼女はそう言って手の中の武骨な銃をくるりと回した。
「みんな!」
ノヴァの声に三人が足を止めた。
「ここの壁紙、少し捲れているように見えます」
「罠かしら……」
呟いたテレサの肩越しにシャンシーが言った。
「こっちは四人いるんだ。剥がしてみようぜ」
ハーデスティがシャンシーを睨んでいるうちに、ノヴァはレイピアの先でわずかに捲れ上がった灰色の壁を切り裂いた。
破れた壁紙の奥には、塗装の剥げた朱色の木の扉が覗いていた。
まだらに張りついた残りの紙を剥がすと、塗料で汚れた金のドアノブが現れる。
ノヴァはそれに手をやって、動くのを確認した。
「鍵は、かかっていない」
テレサは辺りを見回して言う。
「隠れるところのない廊下よりは安全かもしれないわね……」
ノヴァは頷いて、扉を一気に押し開いた。
埃とともに古い紙の匂いを吐き出した扉の奥には、壁一面に本棚が並ぶ書斎があった。
ノヴァが部屋の中に足を踏み入れ、三人はそれに続く。
室内は薄く埃が積もってはいるが、整理されて、机と椅子も揃えられ、長年放置されているわけではないたわかった。
「罠ではないようね……」
ハーデスティは呟いた。
ノヴァは警戒するように注意深く進み、シャンシーは既に近場にあった本をめくって戻してを繰り返している。
「ずっとここにいたいけど、そうはいかないわね」
苦笑したテレサにハーデスティも笑いかけた。
「この館の地図か何かがないかしら。改造される前の造りだけでもわかれば、出口が見つかるかもしれませんわ」
「こっちに何かある!」
シャンシーの声がして、ふたりは小走りに向かった。
書斎の奥の小さな机を指してシャンシーが言った。
「この机の上に三冊、本が載ってるんだ」
「『サーカスの熊男』、『仕立て屋通りの吸血鬼』『騎士は月夜に彷徨う』……全部戯曲のシナリオでしょうか」
ノヴァはひとつずつ題名を読み上げる。
テレサは息を呑んで机の上の本を取り上げた。
「『サーカスの熊男』はさっき劇場にいたあの怪人よ」
驚いたように顔を上げたノヴァとシャンシーに、ハーデスティも頷いてみせる。
「私たちが連れてこられたここを舞台に例えているなら、もしかしたら、あとまだふたり殺人鬼がいるかもしれないわ」
テレサは顎に手を当てて、目を伏せた。
「ここも危険かもしれない。調べ物を終えたら早く出ましょう」
ノヴァはそう言って、壁の本棚の検分を始めた。
テレサは机の上から『サーカスの熊男』の脚本を取ると、ふらりとどこかへ立ち去った。
ハーデスティは部屋中の本棚をひと通り調べ、建物の構造に関する資料を探していると、シャンシーが後ろから声をかけてきた。
「なあ、後のふたつがどういう話か知ってる?」
「劇場で観たことがありますわ。『騎士は月夜に彷徨う』は、息子を戦場で殺した王子を探す年老いた騎士の復讐譚。『仕立て屋通りの吸血鬼』は恋人に騙されて死んだルゴシという仕立て屋の男が、女ばかりを殺す殺人鬼になる幽霊話よ」
シャンシーは顔をしかめて言う。
「吸血鬼の方は今の状況にぴったりかもな」
「あなたなら狙われないんじゃなくて?」
「どういう意味だよ。子どもの頃はよく男に間違われたけどな」
「今もではなくて」と言いかけて、ハーデスティは視線に気がついた。
扉にもたれて本を抱きしめたテレサがこちらを見つめている。
ハーデスティは彼女の元へ歩み寄った。
「どうかしましたの?」
テレサは一瞬言い淀んでから、声を落として言った。
「ハーデスティちゃん、あのね……この本に––––」
どん、と鈍い音が響き、彼女の言葉が途切れた。
テレサの胸に抱いた本の表紙に、鮫のヒレのような鋭角の何かが突き出していた。
それを取り囲むように、古い紙に赤黒い染みが徐々に広がる。
テレサは目を見開いて、一度えずくと、口から泡の混じった鮮血を吐き出した。
「テレサさん!」
扉ごとテレサの胸を貫いた刃物が、彼女の身体の中に潜り、姿を消す。
テレサが床に倒れこむのと同時に、書斎のドアが大破した。
粉塵を撒きあげて砕け散る扉の前に、黒いマントと赤い帽子で身を包んだ、案山子のように細く背が細い男が立っている。
シャンシーが発砲した。
男はテレサを貫いた巨大な刃物で弾丸を弾く。
「マジかよ……」
シャンシーは低く呻いた。
ノヴァがレイピアを構えて声を張り上げた。
「みんな、早く出るんだ! この狭さじゃ逃げられない!」
「待って! テレサさんが……!」
駆け寄ったハーデスティが身体を揺らすと、テレサの唇と胸から血が溢れた。
ノヴァは一瞬苦い表情を浮かべると、素早く地面を蹴って矢のように駆け出し、全身で男にぶつかった。
勢いに突き飛ばされた男が廊下まで吹き飛ぶ。
シャンシーがそれを追った。
黒いマントの男が、頭を振るって立ち上がる。
千切れた布地の奥から男が突き出したのは、巨大な鋏だった。
ノヴァは剣を構えた。
「ハーデスティちゃん……」
テレサが虚ろな目でハーデスティを見上げた。
「喋らないで! 今止血を……」
テレサは力なく首を振り、ハーデスティの袖に縋りついた。指先からすぐに力が抜けて滑り落ちる。
「あれは、吸血鬼の衣装よ……女を狙う殺人者……」
ハーデスティは彼女の傷口を抑えた。
生温かい滑った感触が手に染み出す。
指先から血が溢れるたびに、テレサの命が流れ出していくのを感じた。
ギュンターがいれば応急処置の方法もわかったかもしれないのに––––。
ハーデスティの思考を遮るように、衝撃音が響いた。
壁に叩きつけられたシャンシーが額から血を流していた。
「気をつけて! テレサさんの言った通りでしたわ。その男は劇の中の殺人鬼よ!」
ハーデスティの叫びを聞いて、立ち上がろうとしたシャンシーの横を、巨大な刃がかすめる。
「くそっ、おれなら狙われないんじゃなかったのかよ」
壁に突き刺さった刃を避けて、シャンシーが立ち上がる。
男は視線を動かして、ハーデスティと倒れたテレサを見下ろした。
ハーデスティはその場で硬直する。
男の背を、忍び寄ったノヴァがレイピアで刺突した。
鋼と鋼がぶつかり合う鋭い音が響き、マントを貫いた剣先が鋏の柄で弾かれる。
男はノヴァを一瞥すると、引き抜いた鋏をシャンシーに振りかぶった。
床に転がって寸前で避けた彼女の上を、太刀風が通り抜ける。
間に割って入ったノヴァの間をすり抜けて、男はハーデスティに狙いを定めた。
ハーデスティは意を決して、立ち上がる。
男が刃を振りかぶった瞬間、ハーデスティは脇を掻い潜って、書斎から飛び出した。
わずかに残った扉の木枠を巨大な鋏が粉砕する。
獲物を失った男が辺りを見回した。
ノヴァが素早くハーデスティの前に回り込み、剣を構え直す。
ハーデスティはまだ温もりの残る汚れた手を見つめてから、ノヴァに視線を移した。
「ノヴァさん、あなたは何で狙われないんですの……」
レイピアを前に突き出したまま、ノヴァが肩越しに彼女を見た。
「あの男は私たちを狙っているのに、あなただけ素通りされていますわ」
「今そんなこと言ってる場合じゃ……」
ノヴァが言い終わる前に、男が再び近づいてくる。
巨大な鋏の影が廊下に伸びる。
「本当に姉の招待状を奪ってきたんですの……本当は、 辺境伯が参加者に紛れ込ませた刺客なのではなくて?」
「違う!」
ノヴァが鋭く叫んだ。
「ノヴァ・シェパード、あなたは何者なの」
男の濁った視線はノヴァを透かして、ハーデスティに向けられていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます