5:オペラ座の悪役令嬢(後編)
舞台化粧を終えた後のテレサは、今までの落ち着いているが華やかな雰囲気を捨て去り、生活に疲れた市井の女の顔をしていた。
「下町の娼婦なら、これくらいが妥当かしら」
テレサはドレスを脱ぎ、黒いスリップ姿になり、靴も脱ぐ。
「女優は、すごいのね」
ハーデスティが溜息をつくと、テレサは独り言のように言った。
「……『サーカスの熊男』はね、私の母も演った題目なの」
彼女は暗幕が上がって最初の長台詞を読み上げるように滔々と語った。
「私の母も女優だったの。私と同じくらいの歳で熊男の母親役を演って注目を浴びたわ。その母に、劇の中に出てくる珍しい青い薔薇の花を送った貴族の男性がいたの。それが私の父親。母は子どもができたことを告げずに、薔薇を押し花にした栞を渡して、別れたんですって」
「そう、だったのね……」
「私がこのパーティに出ようと思ったのは、辺境伯の妻になって社交界に出れば、いつか父に会えると思ったからよ。馬鹿みたいね。その栞しか手がかりがないのに」
テレサは寂しげに笑った。
ハーデスティは彼女を見つめてから言った。
「あんな男の妻にならなくても、私があなたの父親くらい探してあげますわ。一緒に生きて帰ったら……ですけれど」
テレサは目を丸くし、破顔した。
「じゃあ、ふたりでここを切り抜けないとね」
彼女は冷たく見えるほど大人びた表情を取り戻し、暗闇の中の階段を見上げた。
「私が熊男に話しかけるわ。その間にソーヤーさんは客席を抜けてドアを開けて。それでいいかしら?」
「プランには問題ないけれど、別の不満がありますわ」
テレサが困惑の表情を浮かべた。
「そんな余所余所しい呼び方はやめてくださる? 名前で結構よ」
テレサは口元に手を当てて吹き出した。
「ハーデスティちゃん、お願いね」
テレサが扉を押すと、正方形の光が奈落へ差し込んできた。
彼女は一度ハーデスティを振り返り、外へ踏み出した。
ハーデスティもその後に続く。
最前列の座席の破片の中に、遊び道具を散らかして親に怒られるのを待つ子どものように、熊男が座っていた。
男は物音に気づき、素早く巨体を起こしたが、テレサを見た瞬間、大きく身を震わせた。
「カロフ、母さんよ」
怪人に手を広げて微笑む彼女の顔に、恐怖はない。
「もう頑張らなくていいのよ、寂しかったでしょう。迎えに来たわ」
テレサの母親が何度もこの劇の台本を読み聞かせてくれたと、彼女は言った。
かつての栄光をなぞるように、母親が語り続けた台詞は一言一句覚えているのだと。
怪人がゆっくりと彼女に近づいてくる。
肥大化した左目はさらに大きく見開かれ、流れ落ちた涙が麻袋の汚れを滲ませて、顎から黒い雫が滴っていた。
そこに立つテレサに宮廷女優の面影はなく、息子に慈愛の笑みを浮かべる母親の姿があった。
感嘆している暇はないと、ハーデスティは一気に狭い客席の間を縫って、扉の方へ向かった。
熊男は彼女に気づかず、自分よりひどく小さな母親の前にただ膝をついていた。
ハーデスティは扉を軽く押す。鍵はかかっていない。
小声で「開いてるわ」と叫ぶと、テレサは小さく頷いた。
「ママ……」
怪人はテレサの前に跪いて、太い指を伸ばした。
「これからはずっと一緒よ、カロフ。母さんとお家に帰りましょう。青い薔薇の咲いたお庭をくぐって……」
男が麻袋の中で嗚咽を漏らしながら、テレサににじり寄り、手を大きく開いた。
テレサは一瞬身をすくませ、わずかに後ずさった。
息子を迎える母親の皮が剥がれ、拒絶と恐怖の色が浮かび上がった。
怪人が雄叫びを上げる。
「テレサ、逃げて!」
ハーデスティの声にテレサは踵を返したが、背後には既に怪人の巨躯が彼女を押しつ潰そうと迫っていた。
上方から滑車の滑る小さな音が響く。
ハーデスティが絨毯を蹴って駆け出し、テレサが目を固く瞑った瞬間、乾いた銃声が響いた。
テレサが目を開くと、男の汚れたエプロンに赤黒い丸穴があき、穴と同じ色の液体が零れ落ちていた。
男は失くしものでも探すように胸の穴に手をやり、太い指を挿し込むと、凄まじい音を立てて頭から倒れこんだ。
テレサが悲鳴をあげて避ける。
男は崩れた巨大な石像のように動かなくなっていた。
ハーデスティが顔を上げると、静かに天井から降りてくる鉄の鳥籠の中にふたつのひと影が見えた。
「当たった!」
鉄格子の間から、古風な拳銃を突き出した少女が声を上げた。
その後ろで炎のような赤い髪が揺れる。
テレサは強張った表情を崩してふたりの名を呼んだ。
「シャンシーちゃん! ノヴァさん!」
鳥籠が地上に到着し、開いた柵を押し避けてふたりが駆け寄ってくる。
ハーデスティもテレサの元へ走った。
「ふたりとも怪我は?」
抜き身のレイピアを腰に下げたノヴァ・シェパードが言った。
ハーデスティとテレサは首を振る。
「あれからずっと探してたんだよ。何とか間に合ったな」
青白い煙をたなびかせる銃を片手に、ドン・シャンシーが笑う。
「それで、何だコイツ」
「わからないで撃ったのね……」
ハーデスティが溜息をつくと、彼女は肩をすくめた。
ノヴァの手を借りて立ち上がったテレサは、足元で息絶えた怪人に視線をやって、表情を曇らせた。
「何でもないわ……もう大丈夫」
ノヴァは彼女を案じるように見つめたが、それ以上は聞かなかった。
「ここに来るまでに私の執事とディナ・バックナーを見てはいない? 栗色の髪の女の子よ」
ハーデスティの言葉に後から来たふたりは首を横に振った。
ハーデスティが肩を落とすと、ノヴァが辺りを見回して言う。
「他にはぐれたひとがいるなら、探しに行きましょう。いつまでもここにはいられないだろうし」
四人は静まり返った劇場の通路を進み、扉の前に立った。
ハーデスティは一度振り返り、起き上がっては来ない怪人を眺めてから、ドアを押した。
***
ギュンターとディナは果てしなく長い、暗い廊下を進んでいた。
「廊下は何も起こらないんでしょうか……」
ディナに背を向けたままギュンターが答える。
「油断はしない方がいいでしょう。会場にも第一の迷路にも電気が灯っていたのに、この廊下にはなく、蝋燭だけがついている。何かの仕掛けか、演出かと思います」
「演出……」
「とにかくどこかに出る場所を探さないことには––––」
ギュンターが急に口をつぐんだ。
ディナが問うより早く、後ろに突き出した手で動くなと示す。
ディナは音を立てないよう、その場で足を止めた。
廊下の向こう側から歪な影が伸びている。
影は風の中の火のように揺れながら、徐々に大きさを増した。
「私の前に決して出ないでください」
ギュンターはそう言って、壁にかかった燭台のひとつを手に取ると、蝋燭の火を消して捨てた。
ギュンターは蜜蝋で汚れた燭台の尖った鋒を影に向かって構える。
影の持ち主は目視できるほどに近づいていた。
実体が影と同じように細長い男だった。
引きちぎれた黒いマントを巻きつけ、赤い帽子から覗く藁のような髪の毛が背の高さと相まって案山子のように見える。
ぼろ布の間から鈍い銀色の光がちらつく。
それが錆びついた巨大な鋏の刃だとわかって、ギュンターは燭台を強く握り直した。
男はギュンターの目前まで迫り、無言で彼を見下ろした。
表情を変えずに男に燭台を突きつけるギュンターの左腕の傷に、薄く血が滲む。
男が鋏を滑らせる冷たい音が響く。
口元を覆ったマントの奥で、鳥の鳴き声に似た高い声が漏れた。
「違う……」
男はギュンターが目に入らないかのように、横を通り抜けた。
ギュンターが向きを変え、ディナを背に庇ったまま、男の姿が遠ざかるのを睨んだ。
「何だあいつは……」
鋏を持った男は、ぼろ布と金属の擦れ合う音を立てて暗がりの中に消えていった。
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