5:オペラ座の悪役令嬢(中編)

 ディナとギュンターが乗せられた鳥籠が降りた場所は、大理石の床が続く長い廊下だった。




 等間隔で並ぶ蝋燭が陰を落とす道を進みながら、ギュンターは振り返ってディナがついてきているか確かめて言った。


「とにかくお嬢様に合流することを第一に進みます。鳥籠が垂直に降りたということは、あの廊下で近くにいたお嬢様もそれほど遠ざかってはいないと考えたいところですが」



 ディナはその背中を見ながら俯いた。

「すみません。ハーデスティさんと離れてしまったのに、私のことまで守ってもらって……」


 ギュンターは前に向き直って言った。

「……お嬢様は同世代のご友人に恵まれたことがありません。ここまで一緒にきた貴女がいなければ、これからのゲームへの士気にも関わります」



 ディナは眉根を下げて微かに笑った。

「ダミアン様にもギュンターさんみたいな方がいればこんなことしなかったかもしれないなぁ、って….…」


 ギュンターは答えなかった。



「こんな目に遭って、亡くなった方もいて、でも、私あの方をまだ恨めないんです。ひとを信じられなくなったのもわかります。信じてた従者の方には見捨てられて、自分を守ってくれてたってわかった方は、自分の身代わりに亡くなったなんて……」


「亡くなった?」

 ギュンターが声を低くした。

「胸と腹を刺されたって……」



「そんなことも言っていましたね」

 ギュンターは歩みを止めずに言った。

「ディナ様はお優しいままでいてください」


 ディナは小さく頷いた。




 ***



 舞台の袖で息を切らせながらハーデスティは、しゃがみこんでいるテレサを見下ろして言った。


「なぜあそこで立ち止まったんですの?」


 テレサは「何でもないの」と答えただけで、深く考え込むように自分のドレスの広がった裾を見つめた。



 ハーデスティはしばらく待ってから、それ以上言葉が帰ってこないのを確かめると、呼吸を整えて言う。




「これからどうしましょう。ギュンターを……私の従者を待ちたいけれど、いつまたアレが来るとも限りませんわ」

「ここが舞台を模しているなら、奈落があるはずよ。ステージの床下に演者や小道具係が支度を整える空間が。たぶんあれだわ」


 テレサは客席の通路の、舞台にほど近い床板にある正方形の枠線を指した。



「一旦舞台袖を出なければいけませんわね」

「アレがステージを降りられるかわからないけど、あの距離なら何とか大丈夫なはずよ」


 舞台上で再び鉄の棒を弄んでいる怪人を横目で見ながら、テレサが言った。



「舞台に詳しい方と一緒で助かりましたわ」

 ハーデスティが呟くと、テレサは自嘲するような笑みを浮かべた。

「私と同じ舞台で喜んだひとなんて初めて見たわ」



 ドレスの裾を払ってテレサは立ち上がったが、顔は下を向いたままだった。


「私が同業者に何と呼ばれていたか知っている? 氷の女王よ。宮廷劇場で一番厳しい女優だと、私と共演する役者はみんな嫌がっていたわ」


 カーテンにもたれかかって、ハーデスティは言った。

「そう……それなら私と一緒ですわね」


 テレサは驚いたように顔を上げ、そして、舞台で見せる完璧な表情とは似ても似つかない力無い微笑みを浮かべた。



「合図したら、一気にあそこまで走りましょう」


 舞台袖から客席側の廊下へ続く扉に触れながら、テレサは言った。ハーデスティは無言で頷く。


 横目でステージを盗み見ると、巨大な男のところどころが隆起した岩肌のような背中が見えた。



「今よ!」



 テレサの声を合図に、ハーデスティはドアを肩で弾くように押した。



 隣でテレサの暗褐色の長い髪が弾むのを見ながら、奈落までの道を駆ける。


 ステージ上の暗い影が徐々にふたりの方を向く。

 床を軋ませる低い音に続いて、どんと重たい音が響いた。



 舞台から跳躍した男が、客席側へ飛び降り、最前列の座席を木っ端微塵に砕いた。



「あれ、舞台から出てくるんですの!?」

 叫んだハーデスティに、テレサが鋭く言う。

「とにかく振り向かないで走って、もうすぐよ!」



 ハーデスティが足を早めようとした瞬間、絨毯の長い毛が彼女の靴先を絡め取った。


 重心を失って倒れこんだ彼女を覆い隠すように、暗い影が落ちる。


 折れた鉄格子を握りしめた男は、麻袋の穴からハーデスティを見下ろした。


 眼窩からせり上がった肥大化した左目と、汚れた麻布に描かれた稚拙な熊の絵が、無理やり継ぎ合わされた生き物のように、男の呼吸で揺れていた。



 動けずにいるハーデスティを見ながら、怪人は鉄の棒を真ん中でへし折った。


「何よ……脅しのつもり……」


 そう言うのが精一杯だった。


 意識を手放しかけ、半目を閉じたハーデスティの後ろで声が響いた。



「カロフ!」



 地下へと続く床板の上に立ったテレサが、息を切らせながら引きつった笑みを向けていた。

 怪人が視線をハーデスティから彼女に移す。


 ハーデスティはその隙に立ち上がり、テレサの元まで駆け寄った。


 テレサが続ける。

「お母さんはこれから仕事なの。お留守番していられるかしら?」



 怪人は麻袋から露出した左目を細めて、子どものように頷いた。



 テレサが視線で示し、ハーデスティが床についた小さな突起を引いて扉を開ける。

 ふたりはその中に駆け込んだ。



 扉を閉めると、暗闇とともに黴の匂いが広がる。


 手探りで壁に触れると、スイッチに触れたのか、橙色の電球の光が辺りを染めた。



 ふたりはひどく軋む階段を進み、奈落への道を下りきった。



 木の枠組みが邪魔して、屈まなければ動けないほど狭い空間には、ぼろ布がかかるひび割れた古い鏡と蜘蛛の巣だけがあった。



 埃を吸わないよう口元を隠しながらハーデスティが言う。


「テレサさん、あれは何? あなたの子どもですの?」

「違うわ!」


 テレサは目を剥いたが、すぐ大人びた表情を取り戻し、少し考えてから言った。



「あの男の姿と、呟いていた言葉に覚えがあったの。あれは、私がやった演劇の登場人物だわ」



 ハーデスティは明かりに照らされて暖色に染まったテレサの顔を見返した。


「あなたの共演者ということ……?」

「いいえ、あんな人間を宮廷劇場には出さないわ。物語の中の登場人物を演じているという感じかしら」

「なぜ、役者でもないのに?」


 テレサは静かに首を振った。


「わからない……でも、公演が終わった後も演じた役が抜け切らずにおかしくなる俳優はたまにいるわ。私も経験がないわけではないから。たぶん、そういう何かを使って『自分は物語の中のこの人物なんだ』と洗脳したのかもしれないわ」


「信じがたい話ですわ」

 ハーデスティが言うと、テレサは唇を固く結んだ。



 ハーデスティは無理やり明るい声を作って言う。

「でも、手がかりはそれだけのようですわね。それで、テレサさんがやった劇はどんなお話ですの」



「『サーカスの熊男』」

 テレサは言った。

「貧しいけれど優しい下町の娼婦が男の子を出産するの。身体だけが熊のように大きくて、知能も熊並み。母親は息子にカロフと名前をつけて愛情を注いだけれど、病気で急死して、熊男はサーカスに引き取られるわ」


 ハーデスティは頷いて先を促した。


「ある日、熊男はサーカスに来ていた母親によく似ているけど冷酷な令嬢を見て、我を忘れてテントの中で暴れ回るの。熊男は最後、令嬢の婚約者に猟銃で撃たれて、母親の幻影を見ながら死ぬわ。そして、令嬢は他人への優しさを覚える……そういう話よ」


「哀しい話なのね」


 テレサは俯いて言った。


「私が令嬢の役だったから、あの男は私を追っているのかもしれない。巻き込んでごめんなさい」

「別に、あなたが悪いわけではありませんわ」


 テレサは視線を下げたままだった。



「ここから劇場を出る方法はないようですわね。いつまでもいられませんわ」

 ハーデスティが呟く。

「ええ、扉なら客席の一番後ろにあるでしょうけれど、またあの男の前を通らないと……」


 テレサはしっかりと抱えてきたトランクを握る手に力を込めた。



 ハーデスティはそれに視線をやる。

「そのトランクは何ですの?」


 テレサは眉根を下げて笑い、床にトランクを置いて錠を外して見せた。

 中には細かいメイク道具や細いピン、用途のわからない道具が並んでいた。


「舞台化粧のとき使うものよ。自分の信じるものと言われて選んだのがこれ。自分を偽るためのものだなんてね」


 テレサはくたびれて諦めを知った大人のような声で言った。



 ハーデスティは派手ではないがよく手入れされた道具の数々を見つめて言った。


「あの怪人は、あなたが言った舞台の台詞に反応しましたわ。たぶん母親役の女優の台詞に」


 テレサは顔を上げて、訝しげにハーデスティを見た。

 ハーデスティは力強く彼女を見つめ返した。



「テレサさん。あなたが演じた令嬢と熊男の母親は顔が似ている、そうですわね?」



 巨大な肉食獣の足音に似た響きが、奈落の天井を軋ませた。

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