殺人鬼スラッシャー回

5:オペラ座の悪役令嬢(前編)

 いくつもの罠が待ち構える迷路を抜けて、三人が出た広間の床は、色とりどりの正方形のタイルが敷き詰められていた。



「もう罠はないようね」

 ハーデスティは注意深くタイルの隅を踏みながら進む。

 一歩前を行くギュンターがそれに答えず、俯いた。


「まだ傷が痛むんですか? 少し休んだ方が……」

 ディナの声にギュンターは首を振る。

「そうではなく……このタイルを見ていて思ったことがあります」



 ギュンターは足を止めずに行った。

「カースティ様は床の質感である程度罠がわかるようでした。私も進んでいるうちに、これではないかという感触があると思ったのですが……カースティ様が倒れたあの場所はそれとは違いました」


 ハーデスティは歩きながら従者の横顔を見つめた。



「靴で判別する方法にもかからなかったトラップです。別の仕掛けだったといえばそれまでですが、加えてあの毒針だ。私の杞憂だったらいいのですが……」

 そこまで言ってギュンターは言い淀んだ。



「何があったというの」

 ハーデスティの声にギュンターが表情を曇らせる。

「これを言うと私の心証が悪い気がします」

「あなたの良心に元々期待なんかなくてよ」


 ディナが慌てて取りなそうと近づくと、ギュンターは肩をすくめた。


「では、申しますが……カースティ様の出身は北方で古くから力を持つ名家です。表向きは薬学系の医療に明るく、製薬で国を支えている貴族ということになっていますが、セノバイト家の生業はもうひとつ。それは王家の––––」



 金属の擦れ合う冷たい音が、言葉を遮った。


「お嬢様!」


 視界を、無数の黒い縦線が塞ぐ。

 天井から突如降りてきた巨大な鳥籠が、ハーデスティを閉じ込めていた。


「ギュンター! ディナ!」


 駆け寄ろうとしたふたりの前に、鋼の柵が降ろされ、ギュンターとディナはもうひとつの籠に閉じ込められた。



 地面が大きく振動する。

 目の前のもの全てが物凄い速さで上へ流れていき、ハーデスティは真下の床ごと鳥籠が降下しているのがわかった。


 ディナの悲鳴と、ギュンターの呼ぶ声が響く。

 柵を揺さぶったが微動だにしなかった。



「お嬢様、これを!」


 鉄格子の隙間から黒い革の鞘に包まれたナイフが投げ込まれ、足元に落ちた。

 ハーデスティは顔を上げて従者の名を呼んだが、答えが返る前に、鳥籠は分厚い床板の中に完全に沈み込みこんでいた。



 辺りが闇に包まれる。


 ハーデスティは身をすくませた。

 周囲は何も見えず、籠がゆっくりと滑る冷たい音だけが響く。



 今までハーデスティはひとりになったことがなかった。


 母とは死別したが、常に忙しそうな父親に代わって家には使用人たちが何人もいた。

 彼らは幼い彼女に取り入ろうとして、徒労だとわかると急に態度を変えるか、悪徳領主の血を引いた気な強い娘を恐れて関わらないかのどちらかだった。


 十歳の頃、家に現れたギュンターだけは笑いも恐れもせず、淡々と彼女の世話をした。

 幼いハーデスティは何度か彼を試そうと仕掛けたこともあったが、彼は決まって無表情に肩をすくめるだけだった。


 執事長を決める際ハーデスティが彼を推したときも、義務的な感謝の言葉だけ述べたギュンターに「こんなときくらいは笑いなさい」と叱ると、彼は口角をわずかに引きつらせるような表情を作って「笑っているつもりです」と答えた。


 ハーデスティはギュンターから渡されたナイフを抱きしめた。





 視界が開け、遥か下を見下ろすと、鏡面のように磨きぬかれた広大な床板が目に飛び込んできた。


 辺りを見渡すと、鉄格子の間から緋色のビロードのカーテンと壁のところどころから迫り出す石造りのバルコニーがある。


「ここは劇場……?」


 呟くハーデスティに構わず、鳥籠は降下し続けた。



 籠が大きく揺れ、地上に着いたことを知らせる。


 鉄格子の一部が音を立て外れ、出ろと促すように人間がひとり通れる程度の隙間を作った。



 ハーデスティはナイフを握りしめて、籠の外へ出た。



 劇場を模した空間はひどく静かで、板張りの床の上を彼女の靴音だけが響く。

 ハーデスティはナイフを握る手をわずかに緩めて、辺りを見回した。


「誰かいないの……」


 囁くように言ったハーデスティに答えるように、遠くから、ぶん、という低い音がした。


 何かが風を切って彼女の頰をかすめ、背後で鋭い金属音が鳴った。



 ハーデスティの後ろの床に、一本の鉄格子が突き刺さり、黒く焦げた板が細い煙を上げていた。


 鋼鉄は先ほどの鳥籠のものだった。

 その先端は飴細工のようにねじ切られて、奇妙に歪んでいた。


 ハーデスティはナイフの鞘を取って構えた。



 目の前の深紅のカーテンを押し開き、何かが姿を現わす。



 それが人間であることはハーデスティにわかったが、あまりにも異様な姿だった。


 衣服は、食べ物の汁や不穏な赤色で汚れたエプロン以外身につけていない。

 筋肉で覆われた身体はところどころ傷や奇妙な瘤がある。

 顔には子どもの落書きのような熊が描かれた麻袋が被せられ、血走った左目だけが破れた穴から覗いていた。


 そして、その巨大な身体はハーデスティの身長の二倍はあった。



 ハーデスティは声にならない悲鳴を上げた。



 怪人は両手に持った鉄格子の柵を弄び、真ん中でぐにゃりと折り曲げると、ハーデスティを見た。

 麻袋の奥からくぐもったえずくような声が響く。


 ハーデスティは一歩後ずさった。



 巨大な男は彼女を見とめると、手の中の棒の残骸を捨てた。

 次の瞬間、男は床を蹴って跳び、ハーデスティに飛びかかった。



 ハーデスティは悲鳴を上げ、逃げようとして横転した。

 衝撃とともに男の突っ伏した床板が歪み、重みに耐えかねて木材が破れる。



 ハーデスティは這うように身を起こして、舞台の奥へ駆け出した。

 すぐ後ろで金属の塊を落とすような、重厚な足音が響く。


 抜き身のナイフを胸に抱いたまま、ハーデスティは走った。

 日が陰ったように黒い影が落ち、怪人の手のひらが風を切る音が響く。



 その手が彼女の頭蓋を砕く寸前で、ハーデスティは舞台袖のカーテンの奥に飛び込んだ。


 太い指が布を裂き、ハーデスティは必死でカーテンを搔き合せて奥に潜る。


 周囲が闇に包まれたとき、音が止んだ。



 ハーデスティはカーテンの隙間からそっと盗み見た。

 男は迷子のように舞台を見回して、穴だらけになった床の上を右往左往している。



 ハーデスティは汗を拭って、深く息をついた。

 一歩後ろに下がると、柔らかい弾力が踵に当たった。



 ハーデスティは飛び退いて、ナイフを突き出した。


「待って!」


 押し殺してはいるが不思議とよく通る声には聞き覚えがあった。


 暗がりの中に身を隠していたのは、暗褐色の長い髪を垂らした女性だった。



「あなたは、女優の……」

 ハーデスティの声に彼女が答える。

「そう、テレサ・カスタベットよ」


 テレサはそう言って力無い笑みを浮かべた。


「どうしてここに?」

「シャンシーちゃんとノヴァちゃんといたのだけれど、最初の通路を抜けたら……」

「鳥籠が降ってきたのね」

 テレサは頷いた。



「あの化け物がなんなのかお判り?」

 ハーデスティの問いに、テレサは顎に手を当てて少し考えてから呟いた。

「わからない。でも、ステージからは動けないようだわ。舞台袖までは入ってこないもの」



 そのとき、暗闇が切り裂かれ、スポットライトのような光が射した。

 裂けた幕を手にぶら下げた、巨大な男が立っている。



「入ってこないんじゃなかったんですの?」

 呟いたハーデスティに答えるように、男はレールごとカーテンを引き千切った。


「反対側の袖に走って!」



 テレサの声に弾かれ、ハーデスティは駆け出した。


 先ほどまでふたりがいた空間を、怪人が押し潰す。

 ステージに空いた穴に足を取られそうになりながら走るハーデスティが叫んだ。


「また追ってくるんじゃなくって?」

「わからないけど、ステージにいたら殺される!」


 怪人がゆっくりと身を起こした。



 獣のような呻きとともに、男が麻袋の中の奥から不気味な音階の言葉を発した。


「ママ……青い薔薇……仕事の時間……」


 テレサが目を見開き、一瞬足を止めた。



 怪人が迫るのに気づかないのか、彼女はステージの上に立ち尽くす。


「テレサさん、早く!」


 我に返ったテレサは間一髪で男の手を避け、ハーデスティとともに暗幕の中に飛び込んだ。



 怪人は再びステージの上を見回している。



「さっきは一体どうなさったの?」

 ハーデスティが聞くと、テレサは小さく首を振った。

「いいえ、何でもないわ……」


 そう言った彼女は、屋敷に来るときに持っていた小さなトランクを抱えていた。



 ***



 書斎に似た仄暗い部屋の奥で、辺境伯ダミアンは椅子に腰掛けていた。


「旦那様」

 背後から、執事長のジェイソンが進み出る。

「全員、第二のステージへ進んだようです」



 ダミアンは何の感慨もないように、肘をついて俯いただけだった。

「暗幕を外し、怪人たちに襲わせましょうか」

 従者の声にダミアンは首を振る。

「まだいいよ。ジェイソン」



 ジェイソンは主人の沈黙に耐えていたが、しばらくして明るい声を作って言った。

「ステージにテレサ・カスタベットかいると映えますな」

 ダミアンが苦笑する。

「好きかい」

「まあ、九人とも美しい方ですが、やはり女優は違います」



 ダミアンは静かに息をついて、首元のスカーフを外した。


 白い喉には、鋸のような刃物でつけた傷があった。

「私を美しいという者もいたが、この傷を見てもそう言う者は見たことがない」

 ジェイソンは目を逸らした。


「美しいかそうでないか、善か悪か。このゲームで生き残る者がどうなのか、私が知りたいのはそれだ」



 ダミアンはスカーフを床に落とした。

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