4:悪の毒々令嬢(後編)

 薄暗い細道は徐々に光が差してきたが、三人の足取りは重く、沈鬱な静けさだけが漂っていた。



「あれが作動した以上、彼女の使っていた手段では確かめきれない罠もあるようです。どうかおふたりとも、私から離れずに」


 慎重に前を進むギュンターが言った。

 ハーデスティは無言で首肯だけを返す。


 その後ろをディナのすすり泣く声が響いていた。



 ハーデスティは一旦足を止め、振り返らずに声を張り上げた。

「いつまで泣いているの」

 ディナが身体を震わせて、顔を上げる。



「カースティが私たちを救ってくれたのよ。彼女の分までちゃんと歩きなさい。貴女がみんなで生き残ろうと言って、カースティは同意した。出まかせであれ何であれ、それを全うしなければ彼女を裏切ることになるわ」



 ディナは赤い眼でハーデスティを見上げた。

「すみません……私、ちゃんと頑張ります。もう泣きませんから」

 ハーデスティは振り返って小さく微笑むと、再びギュンターの後ろを歩き出した。



 光が徐々に強くなり、長方形の輪郭を帯びたところで、ギュンターが足を止めた。


「出口のようですね」

 彼はふたりを振り返り、暗い表情をさらに曇らせた。

「私が先を行きますが、最後まで気を抜かないでください」



 ギュンターは再び正面を向くと、眩く光る道の先に一歩踏み出した。

 硬い靴音だけが響く。

 彼は出口で足を止め、天井を睨み、数秒待ってからハーデスティたちに向き直った。


「どうぞ」

 壁に手を添えたギュンターが促す。

 ハーデスティは胸に手を当てて覚悟を決めると、従者の前に出た。


 ギュンターが張りつめた表情のまま、ゆっくりと歩む若い主人を見守る。

 ハーデスティは心臓が激しく脈打つのを感じた。

 息が詰まりそうな瞬間が過ぎ、彼女は出口を抜けた。



 ギュンターが小さく息を吐き、後ろで待つディナに視線を投げる。

 ディナは自分の肩を抱えながら、ハーデスティの後に続いて、出口を通り抜けた。


 ハーデスティは安堵の溜め息を漏らした。

「何もなかったようね」

「そうみたいですね、よかったです」

 ディナはぎこちない笑みを作った。



 ギュンターが壁から手を離し、彼女たちの元へ向かった瞬間、上方で衣摺れのような微かな音が響いた。



 緊張が解けてやっと表情を崩したハーデスティの真上に、暗い影が落ちるのを、彼女は気づかない。


「お嬢様!」

 従者の声に弾かれて顔を上げたハーデスティの真上に、巨大なギロチンの刃が暗幕のように降ろされようとしていた。



 気づいた瞬間、ハーデスティの身体に強い衝撃が走った。



 ハーデスティは目を閉じ、鈍い痛みに身を硬直させた。

 全身を覆う生温かい温度とか細い水音に、自分の血が流れ出すのを想像し、彼女はさらに強く目を瞑った。



 痛みはそれ以上襲ってこなかった。

 恐る恐る眼を開くと、床に伏した彼女に覆い被さるように執事のギュンターが倒れていた。

 身体に感じた重みと熱は、とっさにハーデスティを突き倒した彼のものだったと知り、恐怖が引いていくのを感じる。



「助かったけど、重いわ……もう大丈夫よ、ギュンター」

 彼が離れる様子はない。

「ちょっと、大丈夫と言ってるじゃない。いつまで––––」

 無理矢理這い出したハーデスティの頬に、ぬるりと温かい粘液が触れる。

 手でそれを拭って指先を見ると、赤い鮮血だった。


 顔をしかめて倒れるギュンターの身体からおびただしい血が流れていた。



 ハーデスティは絶叫した。



「嘘! 嘘よ! 何をふざけているの、ギュンター! 目を覚ましなさい!早く!」

 揺さぶったギュンターの身体が力なく倒れる様に、まだ鮮烈に焼きついたカースティの姿が重なる。


「ハーデスティさん、揺らしちゃ駄目です! 傷が……」

 駆け寄ったディナの言葉は耳に届かず、ハーデスティは叫んだ。


「嫌よ、ギュンター! 私を置いていくつもり!?」


「お嬢様……」

 ギュンターが呻き声を上げ、わずかに眼を開けた。

 ハーデスティが彼に取りすがる。


「大丈夫です、少し気絶していただけだ。情け無い……左腕を掠めただけですよ。腱もやられてないようだし、動脈も……まあ、大丈夫なはずです」



 ギュンターはそう言って立ち上がったが、すぐに膝をつき、左腕から新たな血が大量に流れ出した。


「ギュンター、私、どうすればいいの。大丈夫だって言ってよ……」


 蒼白な顔でハーデスティが呟く。


 目の前でふたりの令嬢が死ぬのを見たのに、自分の従者が死なないと思っていたの––––。

 頭の中で響く自分の声に、ハーデスティは頭を抱えた。



「すみません!」

 呆然としたハーデスティを押しのけて、ギュンターの前に現れたディナが膝をつき、白いドレスの裾を一気に破った。


「これで止血してください! たぶん布で抑えれば大丈夫なはず。まだたくさんあります!」


 彼女はそう言って、罠に掛けて破けたところから細かな細工のレースを次々と破っていく。


 ギュンターは驚いたようにしばらくそれを見ていたが、布を受け取ると左腕に手際よく押し当てていった。


 彼は棒タイを外して、腕の布に巻きつける。

「ディナ様、こちら側を引いてもらえますか」

 言われた通りに彼女は細いネクタイの端を引き、ギュンターがそれに合わせて固く結んだ。



「ありがとうございます。これで大丈夫です」


 立ち上がったギュンターを、ハーデスティは座り込んだまま見上げた。

「本当に平気なの……」

 自分の頰から薄く滲んだ彼の血が流れ落ちたことで、ハーデスティがいつのまにか泣いていたことに気づく。


「ええ、お騒がせしました。お嬢様もご無事でよかった」

 頰と口角をひきつらせるような不器用な笑い方に、ハーデスティも声を漏らした。


 従者の右手に頼って立ち上がると、髪も乱れて引き千切れたドレスを纏ったディナがいた。



「ありがとう。助かりましたわ……」

 そう言って眼を逸らしたハーデスティに、ディナが抱きついた。

 動揺するハーデスティの胸に顔を埋めて、強く抱き締めてから離れる。


「カースティさんが亡くなって、ギュンターさんまでなんて嫌です。私、もう誰も死なせません。生きて帰る方法を探しましょう」

 ディナは表情を引き締めた。

「カースティさんとの約束ですから」


 ハーデスティは力強く頷いた。



 左腕を抑えたギュンターが言う。

「さあ、ここに長く留まるのは危険です。最奥部まで行かなくて済む方法があるかもしれません。出口を探しましょう」


 数歩進んでふらついたギュンターの背に、ハーデスティが手を添える。

 その様子に微笑んだディナが、後ろに続いた。



 ***



 無数の剣や矢の痕が残る仄暗い道に、ふたつの足音が響いていた。



 遠くからわずかに射す光を、暗がりに浮かび上がる銀の刀身が反射する。


「会場の方々の中に東洋剣術の使い手がいらしたのは僥倖でごさいました。血脂で滑った刀を使い続けるというのは、少々頼りないものですから……」


 斬り捨てた使用人から奪った刀を鞘に収めて、シロノ・アガサが不気味なほど品のいい笑みを浮かべた。



「ねえ、歩くの早すぎるって言ってるじゃない! その変なサンダルみたいな靴どうなってるのよぉ」

 シロノの後ろを小走りにエルム・クルーガーが追いかける。



「結局選んだ道が行き止まりで二度手間だし、最悪よ。こっちもこっちですごいことになってるし……」


 エルムは黒く焦げついた壁を見て震え上がった。


「ねえねえ、今からレイピア持ってた女の子たちが行った方に戻らない? ここ気持ち悪いし。ねえ、聞いてるの!?」


 声を張り上げたエルムは、急に足を止めたシロノの背にぶつかって悲鳴を上げた。


「止まるなら言ってよ! ねえってば––––––」


 エルムはシロノの肩の向こうを垣間見て、金切り声を上げた。


 視線の先には、冷たい床の上に広がる血と泡の中に倒れたカースティ・セノバイトの姿があった。



「死んでる! わたし、あの娘知ってる。パーティにいた根暗そうな女!」

 シロノは動じることもなく、暗がりの中の彼女に眼を凝らした。

「確か北方のセノバイト家の御息女、カースティ様でございましたか」



「やっぱりこの道外れだって。戻ろ? 一緒に行ってあげるから」

 肩をつかもうとしたエルムの手をするりと躱し、シロノはカースティに数歩近づいて、足を止めた。


「シロノちゃん、どうしたの?」


「昔、こんな怪談を聞いたことがございます」

 シロノは静かに呟いた。

「ふたりの罪のない殿方が何者かに攫われ、見知らぬ者の亡骸が横たわる部屋に閉じ込められ、『どちらかひとりになるまで出さない』と脅されて、殺し合う羽目になる……」


「やめてよ、そんな話!」

 叫んだエルムを振り返って、シロノが微かに微笑む。

「彼らを閉じ込めた犯人はどなただと思いますか?」

「わかるわけないじゃない」


 エルムがそう言うのと同時に、鋭い金属音が響いた。


 素早く鯉口を切ったシロノが、虚空を縫うように跳んできた何かを弾く。

 シロノは鞘から覗かせた刀身を一瞥し、静かな口調のまま言った。


「ふたりの争いを特等席で見るため、遺体を演じていた者ですよ」


 シロノの足元に、銀色の細い針が転げ落ちた。

 エルムが素早くシロノの背後に隠れる。



 暗がりの中で影がゆっくりと蠢いた。

「あーあ、せっかく泡まで吹いたのに、よりによってあんたが来るとはね」


 カースティが粘質な水音を立てながら、身を起こす。

「あいつらも途中でくたばるかと思ったのに。こんなことなら油断してるうちにさっさと追いかけて殺しておけばよかったわ」


 カースティは汚れた口元を拭って、立ち上がった。


「方便にならない嘘をおつきになったようですね」


 子どもを諌めるような苦笑を浮かべて抜刀したシロノを虚ろな目で眺めると、カースティは手の平に隠し持った毒針を構えた。

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