4:悪の毒々令嬢(中編)

 カースティは先端に靴を結びつけた三人分のリボンを徐々に揺らすと、大きく振り抜いた。



 仄暗い道を黒いヒールが真っ直ぐに飛び、しばらくして落下した靴が、足踏みのような乾いた音を立てる。

 その直後、天井から鋭い槍が大量に降り注いだ。


 ふたりの令嬢が小さく悲鳴を上げる。


 カースティは素早く紐を引いて、靴を手繰り寄せた。

 暗がりの中でも光沢を放つほど磨き抜かれた爪先が、微かに破れていた。



「お見事です」

 ギュンターの言葉に、彼女は肩をすくめた。

「これでしばらくは進めるわ。私を生かしておく気になった、執事さん?」

「元より殺意はありません」

 カースティは鼻で笑うと、もう片方の靴を脱ぎ、暗い色のスカートを止めるベルトに挿した。



「ついてきて」

 裸足で床を蹴って駆け出した彼女の後を追って、三人も駆け出した。


 床に突き刺さった槍は、ハーデスティたちが横をすり抜けても微動だにしない。

 天井を見上げると、罠を仕掛けた痕が黒い穴になり、獲物を探す獣の眼球のように見えて、ハーデスティは想像を振り払うように正面に向き直った。



「ちょっと早いです」

 息を切らせるディナに、カースティが後ろを振り返らずに言った。

「死にたくないならちゃんとついてきて。呑気にしてると別の罠が動くかもしれない」



 彼女は足を止め、再び靴を放り投げた。

 ピンと張りつめたワイヤーが虚空に真っ直ぐな線を引く。


「音がダブってた。たぶん二段構えよ。執事さん、行ける?」

 答える代わりにギュンターはカースティの隣に走り出た。

 彼女は無言で右側に逸れ、ギュンターは左を並走する。


 滑るようにワイヤーの下をかいくぐったふたりの前に、もう一本の鋼鉄の線が鋭い音を立てて現れた。


 ギュンターが片側の端をナイフで一閃し、カースティがもう片方に手にした靴のヒールを掛けて引き切った。


 ワイヤーがたわみ、硬質な音を立てて弾け飛んだ。

 地上に落ちた鉄線を同時に蹴って、隅へ飛ばす。



「すごい……」

 ディナが目を見張って呟いた。


「北方の貴族はこういった護身術も教わるのですか」

 素早く身を起こしたギュンターが、スカートの裾を払うカースティに聞く。

「さあ、家にもよるんじゃない」



 にべもなく言い切って顔を背けた彼女に、ディナが駆け寄った。


「すごい。かっこよかったです。ああいうのって習えばできるようになるんですか」


 カースティは虚ろな目でディナを一瞥したが、彼女の敬意に満ちた眼差しに何の嫌味も読み取れず、根負けしたようにかぶりを振った。



 カースティは踏み出そうとしてやめ、薄明かりがわずかに照らす道の先を眺めるように、目を細めて言った。


「……セノバイトは古くから王室と関わりのある貴族なの。所縁も多い分、しがらみの根も深い。生まれたときから命を狙われて続けてきたわ。後継の男児だけじゃなく、末娘の私まで」


 カースティは裸足の爪先を、床に線を描くように静かに伸ばした。



「遠くの辺境伯に嫁いでセノバイト家を出ればそんなこともないと思ったけど、結果がこれよ。私はそういう運命みたい」


 より小さく見える華奢な背中に近づいて、ディナはその肩にそっと手をかけた。


「大丈夫です。ここにいるギュンターさんは強いし、ハーデスティさんも賢いし、頼りないと思うけど私もいます。何とかしてみんなで生きて帰りましょう」


 俯いたカースティの顔は、長い前髪で隠されたが、小さく笑ったようだった。


「善人は命を縮めると思ったけど、いい方に働くこともあるのね」



 ハーデスティは踵を鳴らして、ふたりの横に並んだ。

 ギュンターが少し離れたところでそれを眺めていた。

「最初に私の使用人が貴女に剣を向けたこと、お詫びしますわ」


 顔を上げたカースティは、すでに見慣れた物憂げな表情に戻っていた。

「慣れてる。さあ、行きましょ。たぶんもうすぐよ」



 カースティは三人分のリボンを組み合わせた紐を振り、空中に放った。

 靴は少し離れたところに落ちた。

 静寂が細道を満たす。


 カースティは一瞬表情を固くすると、靴を手繰り寄せ、前に躍り出た。

 ハーデスティとディナが唾を飲んでそれを見守る。

 何も起こらない。



「大丈夫みたい。こっちに––––」

 カースティが背を叩かれたように一瞬身を反らし、目を見開く。

 彼女の喉が何かを言いかけて逡巡するように、忙しなく動いた。


「カースティさん……?」

 ディナの声に応えるように口を開いた彼女の喉が大きくせり上がり、声の代わりにどす黒い液体が溢れ出した。


 口元を抑えようとした指の隙間から、どろりと粘液が滴り落ち、白いブラウスを染める。

 信じられないというように見開かれた目から、涙に混じって黒の液体が溢れ出し、顎を伝う。

 細い身体が痙攣し、彼女は頭を強く打ち付けて床に倒れこんだ。



「カースティ!」

 走り寄ろうとしたハーデスティの肩をギュンターが抑えた。

「なぜ止めるの!?」

 ギュンターはそのまま主人の肩を押しのけて、カースティに近づいた。


 水から放り出された魚のように痙攣するカースティを横向けに倒す。

 身体の制御を失ったように暴れ続ける彼女の白いうなじには、三本の細い針が突き刺さっていた。



「来たら駄目だ!」

 側に寄ろうとするふたりの少女を、ギュンターが鋭く制止した。

「毒針です。まだ罠があるかもしれない。私が応急処置をしますから、おふたりは……」

 カースティの身体が落雷でも受けたかのように跳ね上がった。


 ギュンターが思わず手を引くと、カースティは再び床に倒れ、ぐったりと動かなくなった。


 今まで彼女を操っていた糸が切れたように、微動だにしないカースティの目尻と唇の端から白い泡が零れた。



 ギュンターは彼女の首筋に触れ、光のない瞳を見つめてから、しばらく黙りこんだ後首を横に振った。

「脈もなく、瞳孔も開いている。間に合いませんでした」



「カースティさん、嘘でしょ……」

 ディナがしゃくり上げる。

「さっき、みんなで生き残ろうって言ったのに」

 彼女の目から大粒の涙が落ちた。

「カースティさんも死にたくなかったはずなのに、私たちの前に出て……どうして……」


 ハーデスティは冷たい床に横たわるカースティを見た。

 血と泡で汚れた顔に、不思議な藍色の髪の毛が貼りついている。



 ハーデスティは目を逸らして、ディナの背中に手を添えた。

 幼い頃から自分に敵意を向ける人間は誰でも言い負かしてきたが、泣き続ける少女にかけるべき言葉がひとつも出てこなかった。



 ディナが涙を拭って、温かく濡れた手でハーデスティの添えた手の平に触れる。

「ありがとうございます……」


 ハーデスティは頷いて、カースティに歩み寄ろうとした。

「お嬢様」

 従者の声にハーデスティは首を振る。

「顔を拭って、目を閉じさせてあげるだけよ」

「毒が何なのかわからない以上、ご遺体に触れることも危険です」


 ハーデスティは振り返ってギュンターを睨みつけたが、彼の伏せた眼は懇願に似た悲痛さをはらんでいるのがわかった。



 ハーデスティは声を震わせよう、慎重に息を吐いてから言った。

「行きましょう。彼女の言っていた言葉を信じるならもうすぐ出口のはずよ」


 ディナは再び嗚咽を漏らしたが、必死に頷いた。


 ギュンターはハーデスティを追い越すとき、一瞬だけ労わるように肩に触れて、彼女の前に進み出た。

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