第8話


「ご苦労だった」


 執務室で革張りのソファに腰かけるアガサは、煙草を吹かしてそう言った。


「アクセル、おまえにとっては初任務だった。良い経験になっただろう」


 今回の顛末を報告するため、パイパーと共に執務室へ訪れたアクセル。彼女が詳らかに説明をする横で、彼は始終、暗い顔をして下を向くばかりだった。

 たしかに、アクセルの初任務だった。救助隊員として得るものは多くあった。しかしその成果は決して喜ばしいものではなく、これを良い経験として受け取れるほど、アクセルは割り切れていなかった。


「おまえたちはひとりの青年を救助した。失敗だけでなく、この事実にも目を向けてやれ。働きが足りなかったわけではない。きちんと結果は出せている」


 どこかで判断を誤ったかもしれない。もっと死力を尽くせたかもしれない。

 アガサに何と言われようとも、そんな考えが過って仕方なかった。


「ちっ」とパイパーの舌打ちが鳴った。「隊長が話しかけているのだ。何とか言え」

「構わん。これは誰しもが通る道だ」


 アガサは短くなった煙草を灰皿に押し付けた。白煙がうねる。懐からさらにもう一本を取り出して、机の上で震えるろうそくの火に近付けた。


「とにかくおまえたちはよくやった。もう部屋へ帰って休め。訓練は明日からだ」

 たっぷりの煙をくゆらせて、アガサは言った。

「はっ。失礼しました」


 敬礼するパイパーがアクセルのすねを蹴る。思考の渦に深く沈みこんでいたアクセルは我に返り、慌てて彼女に倣った。ふたりは執務室を出た。


 廊下を歩くあいだ、特に会話はなかった。無言のままパイパーと別れて、自室の前までやって来た。アクセルの部屋の扉にもたれて、腕を組むヨナバルがいた。


「ヨナバル」


 アクセルは静かに呟いた。

 やあ、と彼は言った。


「遅かったですね、アクセルさん」

「……そうだな」

「ぼくたちのあとに、また救助要請があったみたいですね。パイパーと、行ったんでしょう?」

「ああ。まあ、こっちの話はいいよ。そっちは?」

「無事、救出できましたよ、四人。身体の障害を残すかもしれない方もいましたが」


 こちらとは大違いだ、とアクセルは思う。だが、副隊長のリックや大先輩のモーガンらがいる救助活動だったのだ。当然、上手くいくはずだ。


「アクセルさんは?」ヨナバルは言う。「やけに遅かったですし、何か問題でもありました?」


 ひとり救えなかったんだ。

 ――なんて、アクセルは情けなくて口にできなかった。


「そんなわかりやすい顔していたら、大体察しは付きますよ」

 ヨナバルは苦笑いを浮かべていた。

「何が起きたかは知りませんけれど、迷宮内にいる彼らを救えることのほうが奇跡なんですよ。あまり考え過ぎないで下さい」


 まるで、死ぬことが当たり前かのような言い分だ。少なくとも、アクセルにはそう聞こえた。なら救助隊が存在する意義は、どこにあるというのか。自分の行動は無駄だったのか。

 信頼していたヨナバルから、そんな台詞は耳にしたくなかった。怒りすら覚えた。


「知らないなら、黙ってくれよ」

 と言って、扉の柄に手をかけた。ヨナバルは肩をすくめて退いた。


 自室に戻ったアクセルは、もはやシャワーを浴びる気力すら残っていなかった。身体は疲弊し、心まで消耗していた。寝具が汚れることもいとわず、アクセルはベッドに倒れ込んだ。

 意識はあっという間に暗転した。





 アクセルが次に目を覚ましたとき、窓から覗ける空は鮮やかな夕焼け色で、部屋には暗い影が落ちていた。

 長いこと眠ってしまったらしい、と察する。同時に、全身の筋肉が強張っているのを感じた。覚めやらぬ眠気と、蓄積した疲れが、身体を鉛のように重くしている。アクセルはおそるおそる起床した。節々で鈍痛が染みた。


 起きてみると、汗のべたつきが気になった。身体の凝りをほぐすにも、シャワーへ行ったほうが良さそうだった。

 タオルと石鹸、着替えを手にして、部屋を出る。当然、ヨナバルはいない。アクセルは寝る前の一悶着を思い出し、自責の念に駆られた。


 あれは自分を励ますための、ヨナバルの方便だった。彼だって救助することに全身全霊だからこそ、救助隊にいるのだ。それをわかっていて、なぜ、あんな不躾な態度を取ってしまったのか。自分自身のことでありながら、アクセルは理解に苦しんだ。


 とにかく、謝らなければいけない。


 真向いにある部屋の扉の前に立ち、勇気を出してノックする。

 返事はない。

 もう一度叩いてみた。


「……いないか」


 どのみち、訓練では顔を合わせることになる。あるいはすれ違うこともあるだろう。アクセルはため息を吐いて、浴室へ移動した。

 先客がいたようだった。リックとモーガンだ。わけもなく気まずくなり、アクセルは端の仕切りに入った。


「お疲れ、アクセル君」


 距離を置いたが、意味はなかった。リックが労いの言葉をかけてくれた。しかし、救助に失敗したアクセルには、それが嫌味に感じられなくもなかった。


「はい、ありがとうございます」

「どうだった、初任務」

「どう、って」知らずのうちに、声色が低くなるアクセル。「副隊長のリックさんなら、成果はもう聞いていますよね」

「そりゃあもちろん。君が失敗を引きずっていることもね」

「ではどうして改めて」

「誤解しているようだが、俺が尋ねているのは、今回の任務を内容じゃない。君の感じたこと、そのままだよ」


 アクセルは訝しんで、リックの言葉を復唱した。


「感じたこと?」


 質問の意図がわからず、リックを見やる。彼はほのかに笑ってみせた。

 アクセルは戸惑いつつも、パイパーとの救助活動を反芻した。グレイブスとの会話を一言一句思い起こせるくらいには、記憶が鮮明に残っている。その時々の感情も忘れているはずがない。――感じたことなど、いくらでもあった。


「数え切れませんよ、すべてが俺にとっては初めてでしたから」

「そうだろうなあ」

「けれど一番、強烈に後悔していることがあるんです」

「教えてくれるかい」

「……グレイブスさんも連れて一緒に地上を目指さなかったことです。あのとき、パイパーさんの判断を、最初に俺は反対したんです。けれど救助隊として彼女は先輩だし、彼も納得してしまって、決定をひっくり返せる雰囲気ではなかった。でも、俺がもっと強く言えてれば、結果は変わったかもしれない。そう思うんです」


 リックはゆっくり、そうか、とだけ言葉を返した。

 彼の返事はそれで途切れた。アクセルは一瞬不安になったが、言い直すような真似はしなかった。アクセルは自分の考えに自信を持っていた。

 蛇口を捻って、シャワーを浴びる。凝り固まった身体は徐々に温まり、芯まで熱が伝わって、ほぐれていく。汚れと共に疲労を水が流してくれる感覚だった。 


 アクセルが石鹸で全身を洗っていると、先に終えたリックが、浴室を出て行く際にこう言い残した。


「救助活動は選択の連続だ。神のみぞ正解を知る。おまけに人という生き物は各々異なるし、モンスターなんぞさらに理解の埒外だから、状況によって毎回選択肢は変わるというクソったれな仕様になっている」

「……五里霧中ってわけですか」

「正にその通りだ。救助隊員は常に霧の中を彷徨っている。霧を抜けたければ、ようく周りを見渡して、手がかりを見つけ出し、道を突き進むしか方法はない。アクセル君は、君自身が信じる道を進めば良いと思う。正解がわからない以上、それを非難することは、だれにもできないんだからね」


 泡を洗い落として、アクセルはシャワーを止める。タオルで拭き、着替えて、

「俺が信じる道、か」とアクセルは呟いた。

 それは、失敗を経験した今のアクセルには、とても心強い助言だった。この後押しによって自信がみなぎってきた彼は、腐ってる場合ではないと思い直して、その場でストレッチを始めた。彼はそれから、野外の訓練場へ向かった。


 すでに日は沈んでおり、駐屯地を囲む松明が灯されていた。アクセルは気合を入れて、外周走り出す。救助によって潰れた昼間の練習を、消化するためだった。なので当然、十周は走り込む予定だった。


 はじめの角を曲がるまではジョギングだ。脚を運動になじませつつ、全力疾走に備えて息を整える。

 いざ走る、そのときに、アクセルは背後で足音と息遣いを感じ取った。後ろへ振り返れば、小柄な影が勢いよく駆けて来ていた。


 それが誰であるか、想像するまでもない。むしろ彼女が訓練しているのは、彼女の性格を考えれば当たり前と言えるだろう。

 負けてたまるか、とアクセルは強く思った。そして追いつかれまいとありったけの力を振り絞って疾走した。


 力を出せば出すほど、疲れを感じるのも早くなる。まず脚の筋肉が繰り返される伸縮に悲鳴を上げる。次に十分な酸素を取り込めないために溺れるような苦しさが押し寄せる。最後に視界が明滅して、意識が遠のく感覚に陥る。


 たったの数十秒で、これらを迎えるのだ。ほぼ無意識に、普段は足が止まる。理性が、気絶をする手前でブレーキをかけてしまう。

 全力を費やすアクセルは、いまも気を失う手前にきていた。やはり抗い難い苦しみが怒涛の波で意識を刈り取ろうとする。だがアクセルは、懸命に自我を保った。ここで倒れるわけにはいかなかった。


 アクセルが迷宮救助隊に入隊してから今日までのおよそ半月、この外周訓練はひたすらに厳しかった。途方もない距離を走破するため自身に鞭打つなんて、まさしく苦行だった。けれど救助隊員として迷宮に潜って、この訓練の意味合いは大きく変わった。


 走り抜いた先にあるのは、十周目のゴールテープではない。救助を待つ誰かがいる。要救助者を助けるためならば、走ることがどれだけ辛かろうと、限界を超えて進んでみせる。

 前へ、前へ。

 もがくようにアクセルは突き進む。いよいよ体力が尽きて立ち止まっても、休息は最小限だった。ありったけの力で、また前進する。


 やがてパイパーに追い抜かれた。アクセルは意地になって、殊更に走った。自分だけが救助現場に遅れる、そんな事態にならぬよう。

 いつしかアクセルは、パイパーとの訓練に没頭していた。


 しばらく経ち、パイパーは無言で宿舎に帰った。だいぶ夜が更けており、アクセルも筋力トレーニングを切り上げた。去っていく彼女の背に、そこでアクセルはずっと疑問だったことを投げかけた。


「ほんとうにグレイブスさんを置いていくしか、方法はなかったんですか」


 静かな夜に響く声。聞こえているはずだったが、パイパーは応じる気配もなかった。それがアクセルにとって気に食わなかった。

 パイパーとはバディの関係にある。実力の差や新人の救助隊員という点で、彼女は信頼を預けてくれないが、理解できないわけでもない。

 しかし、せめて意思の共有はするべきではないのか、というのがアクセルの考えだった。救助活動の信念や、行動指針。そういったところを共有せず、どうして円滑な救助活動が出来得るのか。

 パイパーはコミュニケーションを取ろうとしてくれない。あるいは挑発をすれば、彼女はこちらを見てくれるのだろうか。


「俺なら彼をたったひとりで残すなんて選択をしなかった。きっと彼を救えました」

 とアクセルは言った。

 おもむろにパイパーが立ち止まり、こちらを尻目にした。

「ほう、ならどうした?」


 ほの暗い景色のなかで、髪と同様に赤い彼女の瞳は冷たく輝いた。

 その鋭い眼光に射抜かれてうすら寒さを覚えたアクセルはわずかに竦む。拳を握り、気丈にも言い返した。


「もちろん、一緒に階層を上りました」

「それが可能だったとでも思っているのか」

「不可能ではなかったはずです。たとえモンスターに襲われても、抵抗し得る体力はあると見越したのはパイパーさんでしょう」

「なるほどそう言うか。道中で時間をかけてローエンが死ぬのは良しとするんだな」

「そんなことは言ってません」

「同じことだ」

「やってみなきゃ、わからないじゃないですか!」

「モンスターと出くわせば、必然的に逃げる選択しかわたしたちにはない。すると弟想いの兄は、モンスターの足止めを買って出たさ。だが当然、抗えるわけもなく、グレイブスは死ぬ。そして時間をかけたがために、ローエンも死ぬ。わかりきったオチだよ」

「リックさんも言っていました。救助に正解はないって。わかりきったオチなんてものも、ないはずです」

「結果に難癖を付けることなんて餓鬼でもできる。つまらないこと言う暇があるなら、一歩でも多く走れ」

「つまらないって!」

「今度はわたしの足を引っ張らないでくれ」

「それ、どういう意味――」


 アクセルが言い終える前に、パイパーは視線を外して宿舎のほうへ歩みを再開した。

 それはこれ以上議論を交わす価値はないという、判断の他にならなかった。彼女にとって、この会話は無益なものらしかった。


 あまりの悔しさにアクセルは奥歯を噛み締める。


 パイパーの選択は突き詰めて冷静だった。思慮深い彼女は、あの場面では最も合理的な救助方法を提示していた。グレイブスを残すことが最善であることは、アクセルにも理解できた。

 ならば、とアクセルは思う。グレイブスは死ぬ運命にあったというのか。救助隊の力をもってしても、それをひっくり返すことはできなかったのだろうか。


 様々な感情と思考がない交ぜになり、頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。自分がどうしたら良いのかさえ、わからなくなっていく。


 無力感に支配され、アクセルはしばらく立ちすくんだ。

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