第7話

「パイパーさん!」


 反射的にアクセルは声を張り上げたが、さすがと言うべきか、彼女の態勢は万全だった。


 白い残像が土をめくって駆け抜ける。パイパーが一歩脇にずれて、半身になった。接触を見紛うほどのすれ違いの末、鮮血が宙を舞う。

 モンスターの体液に違いなかった。新雪のような毛皮に、一筋の赤が見受けられた。


「……すごい」


 アクセルは感嘆する。彼女の技術は、日夜モンスターと戦いを繰り広げる熟練の探索者に比肩していた。探索者としての経験があるからこそ、アクセルにはそれが如何に甚だしい技であるかを理解できた。


「アクセル、囲め!」


 その声にはっとして、アクセルはジャイアント・ラビットを挟み込む位置に着い

た。

 敵はせわしなく首を動かす。どちらを狙うべきか迷っているらしい。


「距離を詰めろ。考える時間を与えるな」

「つ、詰めるんですか」

「なにをビビってる。回避訓練は毎日しているだろう」


 それとこれとはわけが違う、とアクセルは内心で呟いた。下手をすれば死んでしまうかもしれないのだ。


 だが、ここで泣き言を口にするなんて、格好悪い真似はしたくなかった。男の見栄、救助隊の矜持、加えてパイパーのバディとして、アクセルは腹をくくる。そうだ、自分は毎日モーガンの鞭を何十秒も躱しているのだ。日に日に記録を伸ばしているのだ。ジャイアント・ラビットの突進ぐらい、どうってことはないはずだ。


 パイパーが歩を進めるのに合わせて、アクセルも敵へにじり寄っていく。

 モンスターの赤い瞳がアクセルを捉えた。

 ――来る!

 アクセルが感じたと同時に、ジャイアント・ラビットが飛び込んでくる。至近距離のため、足をスライドさせる余裕はなかった。アクセルは倒れるように回避して、右手に握ったナイフの切っ先を置き去りにした。


 ジャイアント・ラビットが風を切って通過する。ナイフに手応えはなかった。パイパーを見習ってみたが、まだ実力が足りていないことを思い知り、アクセルは歯噛みする。


 倒れたアクセルが姿勢を直すうちに、パイパーは敵へ駆け寄っていた。アクセルも追う。ジャイアント・ラビットは傷が効いているのか、動きは鈍く、まだ背を向けていた。彼女は地面を踏みしめて、次に大きく跳躍した。


 右腕を大きく振りかぶり、弧を描いて飛びかかるパイパー。体重を乗せたナイフの刺突が、ジャイアント・ラビットに繰り出される。続いてアクセルが横から胸を貫いた。


 白い身体が短く痙攣し、やがて力を失った。アクセルは面を上げて、パイパーと目を合わせた。

「よくやった」

 と彼女は言って、ナイフを引き抜いた。


 パイパーの言葉で、アクセルの緊張はほどけた。ジャイアント・ラビットの亡骸を離れて、それから彼はようやく疲労を自覚し、腰を下ろした。


 ここまでずっと走ってきただけでなく、生死を賭けた戦闘までこなしたのだ。疲れないわけがなかった。いままで息を止めていたかのような感覚さえあり、アクセルは荒い呼吸を繰り返した。


「おい、本番はこれからだぞ」

 パイパーの息も上がっている印象だったが、乱れている様子はなかった。彼女の体力はやはり化け物級である。

「当然、です」

 二名の要救助者のうち、ひとりは血を流して倒れていた。アクセルは重たい身体を引きずって、パイパーと共に急いだ。

「救助隊だ、わかるか?」


 横たわる青年は、青白い顔に苦悶の表情を浮かべていた。息は浅く、肌が冷たい。彼はパイパーの声掛けに答えることもできないらしく、わずかにうなずくだけだった。


 経験の少ないアクセルでも、この青年の容体は厳しいと考えられた。

「鎧を脱がせるぞ、手伝え」

 ふたりして迅速に、青年のプレートアーマーを外していく。血を吸って重たくなった鎧下の分厚い衣類まで剥がし、上裸にさせると、腹部に穴が空いているとわかった。肉が露出しており、とめどなく血が溢れてきている。すぐに止血をしなければならない状況だ。


「わたしが受け持つ」とパイパー。「おまえはもうひとりを見てこい」

「了解です」

 アクセルは土壁にもたれて座り込む男のほうへ向かった。額から派手に流血している。

「救助隊のアクセル・ヘーネルです。救助に来ました」


 こちらの男は、比較的軽傷と言えるだろう。意識もはっきりしており、アクセルの言葉で、男は胸を撫でおろした。


「あ、ああ。ありがとう、もう駄目かと思ったぜ」

「お名前は?」

「グレイブスだ」

「わかりました。グレイブスさん、自身の傷の程度を教えてください」


 アクセルは肩に掛けた荷物を下ろして、道具を取り出した。まずはグレイブスの額の血を拭っていく。傷口は深くなく、すでに固まった血液が塞いでいるようだった。


「そこの傷」とグレイブス。「あとは左腕が折れていやがる」


 言われて、のぞき込んでみれば、たしかにあらぬ方向へ折れている左腕が垂れていた。鎧も損傷している。近くには大柄な剣が落ちており、嫌な予感がしてアクセルは尋ねた。


「もしや左利きですか」

「正解だ」


 アクセルは口をつぐんだ。利き腕の骨折は探索者にとって深刻な問題だ。廃業、ということにもなりかねない。

 するとパイパーが、青年から目は離さないまま、

「グレイブス。まだ、体力はあるな?」

 と問うた。

 グレイブスはしっかり答えた。

「ああ、そいつに比べたら、全然だよ」

「救助の段取りを説明する。よく聞いてくれ。はじめにわたしたちはこの青年を迷宮の外へ運ばなければならない。つまりそのあいだ、グレイブス、おまえは迷宮のなかをたったひとりで残ることになる」


 無理だ、とアクセルは思った。負傷したグレイブスを取り残して、彼が助かる保証はどこにもない。アクセルは抗議した。


「グレイブスさんも一緒に連れ行きましょう! 利き腕を折っているんです、剣が握れなければ自衛もできない」

「いいや連れていけない。グレイブスのペースに合わせてしまっては、この青年を救える確率がぐっと下がる。それに反対の腕が使えるのなら、剣は振れるのだろう。なら問題はない、そうだなグレイブス?」


 アクセルはグレイブスの様子を窺った。彼は言う。


「そうだな、剣は振れる」


 彼にしてみれば、ようやく来た助けが遠のいていく感覚のはずだ。おまけに、負傷した状態で、迷宮に残される。その不安は計り知れない。

 だがグレイブスは、どういうわけか、微笑んだ。


「そいつはローエンって言ってな、俺の弟なんだ」

「弟?」


 アクセルは倒れる青年を見やった。なるほど、顔の造形が似た雰囲気を持っている。おそらくグレイブスが兄だ。


「最悪俺は死んでもいいんだ……だが、弟だけは絶対に死なせないでくれ」

「どっちも死なせません!」

 グレイブスの言葉を受けて、アクセルは強く言い返した。

「ふたりとも、必ず生きて返します」

「そのとおりだ」とパイパー。「わたしたちは必ず戻ってくる。たとえモンスターに襲われても、全力であがいて、とにかく時間を稼げ」

「……ああ、あがくさ。全力であがいてみせるよ」

「よし。おい、アクセル。グレイブスの処置を終えたら、この青年――ローエンを運ぶ準備をしてくれ」

「はい!」


 アクセルは指示のとおりに動き出した。


「なあ、アクセルさんよ」

 グレイブスの額に包帯を巻き始めていると、彼が声をかけてきた。

「なんですか」

「あいつは、助かると思うかよ」


 アクセルは一瞬、手を止めた。少年の負った傷は深刻だった。助かる、と簡単に言い切れるものではなかった。


「彼には、一刻も早い適切な治療が必要です」

「そうだろうな」

「おれたち救助隊が、ふだんどんな訓練をしているか知ってますか」

「考えたこともなかった。どんな訓練をしているんだ?」

「毎日ひたすら走ってるんですよ。一秒でも早く、長く走るために」アクセルは語気を強めて言い募った。「体力勝負になると思います。グレイブスさんは、弟を信じてあげて下さい。すぐに治療を受けられますから。なんせ、訓練を積んだおれたちが運ぶんです」


 包帯を巻き終えて、アクセルは身を引いた。すると安心したかのような笑みを浮かべるグレイブスがそこいた。


「なら、心配は要らねえな」

 グレイブスのその様子を、アクセルは危うく感じた。まるで後悔はないと言いたげであり、生きる気力を失っているようでもあった。

「だからあなたも、絶対に生き残ってください!」

 アクセルはグレイブスに発破をかける。彼にはもう少し頑張ってもらわねばならないのだ。

「はは、わかってるよ」

「おれたちは戻ってきます」

「信じているよ。ただ、ちょっと、そうだな」グレイブスは恥ずかし気に言う。「不安だから、なるべく早めに頼む」

 もちろんです、とアクセルは力強く答えた。

「運ぶぞ、来てくれ」


 パイパーのほうも終わったみたいだ。アクセルは返事をして、荷物をまとめた。グレイブスのもとを離れるさい、アクセルは閃いて、彼の助けになるだろう物を手渡した。


「これは、煙玉か」

 渡された物を見て、グレイブスは呟く。

「いざというときは」

 とだけ言い残し、アクセルはローエンのもとへ戻った。


 ローエンの腹部には、止血用の綿が詰められていた。それですぐに止血ができるわけではないが、血が固まりだせば蓋の役割をしてくれるだろう。


 アクセルたちは、素早く即席の担架を作り出していった。荷物に仕舞ってある細長い布の両脇に紐を通して、ローエンの下に敷いてやる。紐の端を握り、パイパーと息を合わせて担架を持ち上げる。鎧もなく横たわる青年は、出血もあったせいか、嫌に軽く感じられた。


「行くぞ」


 パイパーは背を向けて、担架の紐を後ろ手にした。彼女が歩き出すのに合わせて、紐がたわまぬよう、適度な距離を保ちつつアクセルも前進する。


 グレイブスがいる部屋を出て、細い通路へ。

 徐々に速度が上がっていく。

「遅いぞ!」

 先行するパイパーに引かれていくような感覚だった。アクセルは担架が沈むことをおそれて速度を調整していたが、考えてみれば、パイパーは自分よりも圧倒的に足が回るのだ。杞憂だったことに気が付いた。


 アクセルは負けじと駆けた。アクセルが速くなっていくにつれて、彼女はぐいぐいと担架を引いた。まるでもっと走れ、と言うかのように。


 それからふたりは迷宮を駆け上がった。二層ではカラミティ・ドッグと出くわさぬよう、迂遠する道を通った。その選択は正しかったようで、モンスターに追われることなく、ローエンを迷宮の外まで連れ出すことに成功した。


 外には迷宮保安軍に駐在する医療従事者数名がいた。彼らはより頑丈な木製の担架を用意して待ってくれていた。

「頼むぞ」とパイパー。

 ローエンを運んだ布を、そのまま丈夫な担架に乗せて、軍の仲間に引き渡す。任せてください、と心強い返事があった。

「そんな、ローエン!」

 絹を裂くような悲鳴が響いた。仲間の少女が、軍人に囲まれていくローエンを遠目に見て、今にも駆け寄りそうなほど前のめりになっていた。


 アクセルはその心情を汲み取ることはできたが、だからこそ安易に励ましてはいけないとも思い、パイパーと視線を重ねてうなずき合った。グレイブスの救助へ行くのだ。


 アクセルは再び迷宮への入り口を正面にした。すると誰かが服の裾を摘まんだらしい感触があった。頭を捻ると、目じりに涙を浮かべる少女が立っていた。


「ね、ねえ。グレイブスは?」

「彼は――」

「死んでないよね、だから置いてきたんじゃないよね?」


 少女はひどく取り乱していた。重傷を負ったローエンを目の当たりにして、最悪の展開を予想しているのかもしれない。


「グレイブスさんはまだ生きています。怪我はしていますが、自衛が可能なくらいの体力はありました」

「ほ、ほんとうね?」

「だが助かるかは五分だ」そこでパイパーが口を挟んだ。「過度な期待はしないでくれ」

「なっ、パイパーさん!」 


 わざわざ言うことではないはずだ。アクセルは責めるように彼女の名を叫んだ。しかしパイパーは、あくまでも冷静であり冷徹だった。


「結果は見てみるまでわからない。無責任な発言をすることは、我々には許されないんだ」

 糸が切れた操り人形のように少女は膝を折って俯き、静かに呟いた。

「そうですか……」

 パイパーの言い分は理解できる。それでも、アクセルは、絶望に打ちひしがれる少女へ、

「諦めちゃダメだ!」と叱咤した。


 ふっと少女が面を上げる。アクセルは片膝を付いて、目線の高さを合わせてやった。少女の手を取り、固く握って、言葉を紡ぐ。


「大切な仲間なんでしょう、だったら信じないと! グレイブスさんはローエンさんの無事を強く信じていました。そのグレイブスさんを、あなたが信じるんだ。そうすればきっと、思いは繋がりますから!」


 アクセルは少女の瞳をひたむきに見据えた。宝石のように青く、悲しみの色が宿る瞳だった。少女は口を噤んでいる。気圧されたのか、未だ絶望の淵を彷徨っているのか、少女の心を読み解くことはアクセルにはできない。


「もういいだろう、アクセル。時間をかけすぎている」

 アクセルは少女の手を優しく置いて、立ち上がった。

 ふたりは迷宮に走り出した。


 ほの暗い一層の途中で、少女が気にかかったアクセルは、朝日が差し込む迷宮の出入り口を一瞥した。そこには地に座り込んだまま、手を組んで頭を下げる少女がいた。

 アクセルは思う。少女の祈りはきっと届く。三層で待つグレイブスに、勇気を与えてくれているはずだ、と。


 一層から二層へ。そして二層を経て三層へ。

 とっくに体力の限界を迎えていたが、先を走るパイパーに、アクセルは死ぬ気で喰らい付いた。とはいえ、パイパーの背はどんどん遠くなっていく。


 そうして、先にパイパーが、グレイブスのいる部屋へ入る。彼女はなぜか足を止めた。疑問に思いつつ、アクセルも遅れて到着した。

 アクセルはゆるやかに速度を落として、やがて立ち尽くした。


 グレイブスの姿はなかった。


「――――っ!」


 アクセルの背筋に電撃が走る。急激に喉が乾くのを感じた。

 部屋には二体のジャイアント・ラビットの死体。ローエンの流した血溜まり。それから、グレイブスの大剣。


「武器を捨てて逃げたというのか? この迷宮内で」


 パイパーは慎重に状況の整理をしていた。だが、アクセルは、彼女のように落ち着いてはいられなかった。近くで隠れているのではないか、そう願って、彼の名を呼んだ。


「グレイブスさん、グレイブスさん!」

「やめろ!」厳しい口調でパイパーが止める。「モンスターを呼び寄せるだけだ。頭を冷やせ」

「でもっ!」

「口を動かす暇があるなら、身体を動かせ。そう遠くへは行けないはずだ」


 だが、網目状に広がる迷宮内の、どこを探せば良いというのだろうか。この部屋にはいくつもの分岐路があった。グレイブスがどこへ逃げたのかは、見当もつかない。

 パイパーとアクセルは、地図を片手に、捜索へ乗り出した。手がかりがない以上、しらみ潰しに迷宮内を回ることが、唯一の方法と言えた。


 ――捜索を開始して二時間。極度に体力を消耗した状態での捜索、救助は危険と判断された。ついにグレイブスを発見することは叶わず、パイパーの命令によってアクセルは地上に戻った。

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