第3話
憎いほどに照りつけてくる太陽が、すでに中天を越えている。ただがむしゃらに走り続けて、時刻はもう昼を過ぎた。
「はっ、はっ、はあ」
アクセルは息も絶え絶えだった。モーガンたちの勇姿に、そしてリックの言葉に感化され、やる気に火が付いた彼は、皆と同じように後先考えずに突っ走った。早々に限界を迎えて泣きそうになりながら、それでもどうにか重たい身体を引きずって十周と追加の一周を終わらせてみせた。
終わったかと思えば、休む間もなく走り込みである。リックやモーガンらが険しい顔をしつつもきちんと走るのに対して、アクセルのそれはもはや徒歩と変わらなかった。いつまでも終わらなそうな雰囲気に、他の隊員は昼食を摂りに宿舎へ戻った。
ひとり残ったアクセルはいよいよ半べそになり、地面に膝をつけて、拳を握った。
「くそ、くそ。……ちくしょう」
実力の差は歴然だ。アクセルはパイパーに、二周も遅れた。彼女は化け物だった。決して脚が速いわけではない。しかし彼女は無尽蔵の体力をもって、アクセルを抜き去った。リックやモーガンもだ。
これだけの訓練をこなしてなお、パイパーたちにはどこか余裕があるようだった。アクセルには、食べ物を胃に入れる気すら湧いてこない。
「はあ……。すっげえなあ」
アクセルはバディであるパイパーの姿を思い浮かべた。彼女にだって、今の自分みたく、入隊初日には地獄を見ただろう。きっと情けなさも感じたはずだ。地べたに這いつくばり、涙したかもしれない。
そこまで想像して、アクセルはおかしくなって噴き出した。そんなパイパーがまるで頭のなかで描けなかったからだ。ともすれば、彼女は最初から群を抜いていた可能性すらある。
だが、パイパーだけでなく、他の隊員もこの洗礼を受けて、今日まで救助隊員として活動していることは動かぬ事実だ。
自分は彼らに並ばなければいけない。同じ迷宮救助隊なのだ。
「最後……!」
アクセルは震える膝を抑えて、立ち上がった。走り込み一本、百メートル。
――全力を振り絞ろう。
倒れ込むほどの勢いで、アクセルは真っ直ぐに推進した。
#
夜になると、救助隊の面々は一日の汗と疲れを流すために、シャワーを浴びる。アクセルはそのあまりの気持ち良さに、身体を洗うことも忘れて、目をつぶって全身で温水を受け止めていた。
「いやあ疲れましたね。アクセルさんもお疲れ様です」
仕切り板を挟んだ隣から、優しい声色が聞こえた。忘我していたアクセルは目を覚まし、首を捻る。襟足を刈り上げ、耳元で切り揃えられた金髪を持つ、柔和な印象の青年がいた。彼は救助隊のメンバーだ。
「ええと」
アクセルが名前を思い出すよりも早く、青年が名乗る。
「ヨナバル・ザウエルですよ。よろしくお願いします」
「え、ああ。よろしくお願いします」
蛇口を回してシャワーを浴び始めるヨナバル。
アクセルはようやく、石鹸を手に取った。
「ぼくもはじめは、ここの訓練に付いていけませんでしたよ。一日の終わりには、今のアクセル君みたいに、いつも抜け殻のようだった」
「ヨナバルさんも」
「さん付けは止して欲しいな。ぼくのほうが年下なんだから」
「年下。いやいや、冗談でしょ?」
「アクセル君は二十二ですっけ」
「ああ、そうだけど」
「ぼくは今年で二十歳なんです。パイパーもそうですよ」
「はああ?」
アクセルは頓狂な声で叫んだ。天地がひっくり返るほどの驚きだった。ヨナバルが年下なのはまだ理解できる。しかしパイパーもだったとは。たしかに若いだろうと思ってはいたが、彼女には貫禄があり過ぎた。
「うるせえぞ!」
モーガンが怒鳴ったので、アクセルは声を潜めて話を続けた。
「じゃあ、ふたりは、救助隊に入って何年目なんだ?」
「三年目ですよ」
「まじかよ……」
アクセルは絶句した。リックやモーガンは、もう救助隊になって随分長いはずだ。相応の経験が見て取れるし、訓練の様子でもやはり目を見張るものがある。そのベテランに比肩するパイパーは一体何者だというのか。
「まあ彼女は、血が薄いとはいえ獣人ですからね」
「おいおい、とんでもない情報が次々と出てくるな」
獣人とは、獣の特性を持つ人間のことを指す。獣の耳が生えていたり、毛深かったり、あるいは驚異的な身体能力を受け継いでいる人種だ。ヨナバルの言う血が薄いは、つまり先祖に獣人を持っているということだろう。
「でも待てよ。パイパーには獣人の特徴がないだろう」
「ありますって。ロッカーで見てないんですか?」
「なにを」
「しっぽ」
「見逃した……」
アクセルは天を仰いだ。今朝の醜態と恥がよみがえってきて、複雑な気持ちになった。話題を切り替える必要がありそうだ。
「しかしなあ、それでもあの貫禄は……」
「貫禄、ですか。パイパーに?」
「ああ。バディになったから変に意識しているだけかもしれないけど、なんか雲の上の存在つーか」
「いやいや、アクセル君、それは違いますって」ヨナバルがにやかに言う。「あれはただ処女をこじらせているだけですよ」
「ん?」
「あーいう人ほど、女の悦びを知ったらしっぽ振って媚びてきますよ、どうせ」
アクセルは返答に窮した。なんとも突っ込み辛い内容だった。
「じゃ、ぼくは先に上がりますね。おやすみなさい」
笑顔を崩さないままヨナバルはシャワーを止めて出ていく。
「お、おう。おやすみ」
挨拶を返すだけでアクセルには精一杯だった。突如豹変したヨナバルが見えなくなるまで、なぜか気を抜くをことができなかった。
ヨナバルと入れ替わりで、脱衣所のほうからリックがやってきた。苦笑を浮かべている。先の会話が聞こえていたらしい。
仕切り板を挟んで、リックが隣へ来た。
「困ったもんだねえ」
リックはシャワーを受け止めつつ、肩をすくめる。
「どうしたんですか、あいつ。急に人が変わったんですけど」
「ヨナバルとパイパーは犬猿の仲なんだ。と言っても、大抵はヨナバルが勝手に意識しているだけなんだがね」
「ああ……ふたりは同期だから」
「そういうこと。つまりアクセル君は、ヨナバルの逆鱗に触れたわけだ」
なんとも気の滅入る話だった。知る由もないとはいえ、ヨナバルの反感を買ってしまっただろうか。
「気にするな」とリック。「ヨナバルが攻撃的なのはパイパーに対してだけだ。機嫌を損ねても、明日になれば元通りだよ」
「そうであることを願います」
アクセルはシャワー止めた。
「じゃあ、お先に」
「しっかり寝ろよ」
「はい」
アクセルはシャワー室を出た。身体を拭いて寝間着になり、宿舎の廊下を歩く。二階の部屋へ足を向けたところで、アクセルはふと空腹を自覚した。夕食もろくに食べられなかったからだ。
午後の訓練も、想像通りいえばそうだが、想像を絶するともいえるほどに、やはりハードなものだった。もちろん休む暇は与えられず、ぶっ倒れるまで続く。今日だけで何度気絶し、何度水を浴びせられたことか。それが明日も来週も来月も、延々と続く。考えるだけでアクセルは気が遠のく思いだった。
今になって腹が空くのは、身体がようやく与えられた休息に勘付いたからに違いない。その本能に従って、アクセルは踵を返し、食堂へ出向いた。
昼夜問わず働く軍人が多く駐在する場所なのだ、夕食時を過ぎても食堂は開いており、人もまばらに着席している。しかしそのほとんどは食事を目的というよりも、賭けトランプや会話に興じている様子だった。
ひとりだけ、隅のテーブルで皿を鳴らしている人物がいた。赤さび色のショートヘア、小柄な女性――パイパーだ。
アクセルは座る席を決めたので、食堂のカウンターで退屈そうにしているおばさんにカレーライスを注文する。すぐに野菜と水と一緒に用意され、お盆を持ってパイパーの対面に座った。
突如現れたアクセルの存在に、カレーライスを食べていたパイパーが手を止めて、面を上げる。一瞬だけ目が合い、すぐに彼女は食事を再開した。
そっけない対応をされるのは、アクセルにとって想定の範囲内だった。端から彼女はこちらを相手にしていない。ならば多少なりとも強引に歩み寄るしか方法はないのだ。
ゆえに、アクセルは手を差し伸べた。彼女に視界にはっきりと映るよう、真っ直ぐに。
パイパーは食事に夢中で、アクセルを見向きもしなかったが、しばらくして彼女は鬱陶しいと言わんばかりの表情と鋭い視線を寄こしてきた。
「なんの真似だ」とパイパー。
「握手です」アクセルは言った。パイパーの顔により一層、しわが増す。
「だって俺たち、バディじゃないですか」
「だから?」
「まだきちんと、挨拶もできていないと思いまして」
「必要ない」
「どうしてですか。バディはお互いを信頼し、助け合う存在でしょ。お互いを知らないままじゃあ、いざというときに困るかもしれない」
パイパーはため息を吐いた。呆れを多分に含んだ、深い吐息だった。それから彼女は手を動かしてカレーライスを食べ切り、口に水を流し込む。席を立って、こう言い残した。
「おまえに助けられることはないよ」
ごちそうさま、とお盆を店主に返して、パイパーは食堂を去っていく。
アクセルの腕が行き場を失くして宙をさまよい、テーブルに落ちた。あまりの悔しさに、彼は拳を白くなるほど固く握った。
たしかにパイパーとの実力は隔絶している。いまの関係性で迷宮へ行けば、自分が助けれることのほうがずっと多いだろう。だが、救助の現場では予想外のことが起こり得る。万が一に備えることが、救助隊としての務めではないのか。
……だが、そんな正論を並べるよりも、こけにされたことがアクセルはただひらすらに悔しかったし、腹が立った。
アクセルは怒りを食欲に昇華させて、目の前の食事をあっという間に平らげた。真っ直ぐに私室へ戻り、布団に入る。
明日もまた、過酷な訓練が待っているのだ。十分な睡眠で身体を休ませ、十二分の力を発揮する。そうして少しずつでも、パイパーに追いつかなければならない。
――いつかパイパーが助けを必要としたとき、今日、彼女自身が言ったことを思い出させてやるために。
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