第2話
窓から差し込む朝の斜光に、アクセル・ヘーネルは微睡みから目を覚ました。まぶたをしばたくと、一筋の涙がこめかみを伝って流れ落ちた。白い天井がぼやけている。
――夢を見ていた。まだたったの二年前のことだ。まるで戒めのように、ときどき思い出すみたくして同じ夢を見る。あのときの悲しみからはようやく立ち直れたが、未だ心の奥底ではくすぶっているらしい。
それでいい、とアクセルは思った。忘れたいと考えたことは一度もない。きっと、一生胸に刻まれているだろう。
一度深呼吸をしてアクセルは気持ちを切り替えた。アクセルにとって、今日は特別な日だった。暗い顔で行くわけにはいかないのだ。
ベッドから起き上がり、身支度を整える。寝ぐせや青髭がないことを鏡で入念に確認した。それから制服に袖を通す。制服は白を基調としており、青色の装飾が散りばめられたものだ。この色合いをした制服は、国家の行政に携わる者という証左であった。
左の胸元には盾を模した刺繍が入れてある。国家行政のうち、どの職にあたっているかは、この刺繍が示してくれている。
盾の意味は、迷宮保安軍。
最後にアクセルは、刺繍が隠れない位置を選んで、バッジを付けた。銀製の、鳥の両翼だ。迷宮保安軍に属する者のうちでも、一部にしか与えられていないものである。その重みをしっかりと胸に感じられた。
「よし、行くか」
しわのない真新しい制服の前ボタンをきっちり留めて、制帽を被り、アクセルは宿を出た。宿屋が密集する街路を抜けて、目的の場所まで躊躇いなく足を進めていく。
すると大勢の人が行き交い、喧騒に満ちた大通りに出た。露店が立ち並ぶこの通りは、都市国家アトラスの観光名所にもなっている。ひっきりなしに多くの商人が、店の売り文句を叫んでいた。
「そこの兄ちゃん、軍人さんかい」
その声にアクセルは振り返る。タンクトップ姿の筋骨隆々な男が、肉の串焼きを炭で焼いていた。物販だけでなく、こういった手軽な食べ物を売る屋台も名物のひとつだ。
「ええ、今日から」
「そりゃあめでたいな。朝メシは食ったか?」
「いえ……メシは抜いてくるように言われているんで」
「なんだそりゃ。じゃあ腹減ってるだろ。どうだ、安くしてやる、こっそり食べねえか?」
屋台のおっさんはそう言うと、網に乗せた串焼きに、刷毛を使って茶色の液体を塗りたくった。炭が弾けて火花が散り、途端に香ばしい匂いが鼻腔を突き抜ける。
アクセルはおなかを抑えた。胃が食べ物を欲しがっていた。耳の下あたりがきゅっとなって、唾液が分泌がありありとわかった。
「とても魅力的ですが、遠慮しておきます。上司の命令は絶対ですから」
だがアクセルは、理性でもって押し留まった。屋台はおっさんは眉根を上げて、肩をすくめた。
「そうかい、残念だ。釣れると思ったんだがな」
「はは、すみません。この屋台は、いつもこの時間にやっているんですね?」
「きまぐれだよ。時間も場所も」
「また近いうちに寄らせてもらいます」
「期待しないで待ってるよ」
「絶対来ます。約束は破らない主義なんで」
「軍人らしいな」
おっさんが笑う。それから火を焚きつけるためのうちわを、アクセルに向けて煽った。
「ほれ、さっさと行きやがれ。客じゃねえ奴に構う余裕はこちとらないんだよ」
勝手な言い草ではあるが、商魂たくましい態度に、アクセルはむしろ好感を覚える。うちわに手を振り返して、彼は立ち去った。
その後も大通りを進んでいけば、同じようにアクセルには多くの声がかけられた。白い制服が特に目立つのだろう。衣装から軍人であることを大っぴらにしている手前、ないがしろにすることもできず、アクセルは一人ひとりに慇懃な対応をした。
そうしているうちに時間は過ぎて、ふと胸の裏生地に仕舞ってある懐中時計を確認すると、集合時刻が間近まで迫っていた。ぎょっと目を剥いたアクセルは、商人の声を振り切り、大慌てで目的の場所へ向かうのだった。
アクセルが向かうは迷宮保安軍駐屯地。都市国家アストラの南部に位置しており、そこは迷宮に潜る冒険者にとって重要な拠点でもある。
その様相にちなんで、都市の人々はこう呼ぶ――迷宮の入り口と。
「本日より第三番迷宮救助隊に配属されました、アクセル・ヘーネルです。よろしくお願いします!」
駐屯地の一角にある広場で、帽子を外したアクセルはそう声を張った。彼の目前には、白い制服と銀バッジを身に着ける七人の軍人がいる。そして隣には、同様の制服ながらも複数のバッジを飾る老紳士が立っていた。
老紳士の名はアガサ・レミントン。日に焼けた浅黒い肌と潰れた右眼に走る一条の傷が特徴的な男だ。
挨拶を終えたアクセルに、アガサは振り返る。
「では、早速今日からここでの訓練に参加してもらう。いいな?」
「はい!」
「良い返事だ。仲間の紹介をしたいところだが、時間が惜しい。せめて君のバディは紹介しよう」
アガサの視線を、アクセルは追う。視線の先には小柄な女性兵がいた。
「パイパー・グリセンティ」
とアガサ。
「はい」
女性兵が応じる。彼女の赤さび色のショートヘアが風に揺れる。
アガサは再度、アクセルに向き直った。
「彼女が、君のバディだ」
「はっ……」
思わず、アクセルは声を詰まらせた。とても救助隊員には見えなかったせいだった。アガサとは対照的に肌は白い。どこに筋肉があるのかと不思議なほど細い首に、小さな身体。ついでに言えば胸もない。
「どうした?」
アガサが問うてくる。人当たりの良い微笑みを浮かべているが、現役時代の名残か、眼光は鋭い。パイパー・グリセンティを侮ったなどとは口が裂けても言えず、アクセルは背筋を伸ばして答えた。
「いえ、綺麗なお方だと見惚れました!」
実際、パイパーの容姿は整っていた。それこそ救助隊のなかでは浮いて見えるほどに。
他の隊員から失笑が漏れる。アガサも不敵に笑った。
「余裕じゃないか。期待しているぞ」
「はっ」
「よしお前ら、制服を脱いでもう一度ここに集合だ。制限時間は五分。解散!」
アクセルを含めた八人の兵士が返事をすると、全員はすぐさま駆け出した。
目標は宿舎だ。駐屯地の中央に、正方形で石造りの建物がある。軍の建物であるから、もちろん日を浴びて輝く白壁だった。
宿舎においてよく利用するであろう設備や部屋は、先ほどの挨拶の前に、アガサが手短に案内をしてくれた。中は広くて覚えきれないこともあったが、更衣室の場所は比較的わかりやすく、一階の隅にある。すぐに使うだろうとアクセルは思って、ここだけは頭に叩き込んだ。
アクセルは自身の脚の速さには自信があった。こうなることも予期していた。だから更衣室だけは覚えた。他の隊員のあとを付いていく、なんて甘いことは考えず、むしろ先行するつもりでいた。
だがアクセルは、早くも実力の差を思い知らされることとなった。
「うそだろっ」
すべての隊員が、アクセルよりも余裕を持ちつつ、先行している。アクセルは最後尾だった。さらに信じがたいことに、先頭を行くのはパイパー・グリセンティである。
「おーい、新人」
前を走る男が、アクセルを横目に話しかけた。彼は長い髪をうしろでひとつ結びにしており、地面を蹴るたびに、そのしっぽが軽やかに跳ねている。気怠そうな走り方でいながら、彼は速い。
「リック・ウィンチェスターだ」と彼は言った。「よろしくな」
「こちらこそ」握手する場面でもないので、アクセルは会釈した。
「なあ、君とパイパーはバディだろう。いーのかい、彼女に付いていかなくて」
露骨な煽りだった。真に受ける必要はない。だが言われっ放しは、プライドが許さなかった。
「言われなくても――!」
訓練前に疲れては本末転倒だ、と考えてペースを抑えていたが、細かいことを気にするのは止めた。アクセルは脚の回転速度を上げて、パイパーを追いかける。背後で、茶化すような男の口笛が聞こえてきた。
全力を出したアクセルがパイパーを抜いたときには、すでに宿舎の外壁に取り付けられた更衣室の扉が目の前にあった。掴みを捻って、扉を押す。アクセルに次いで、他の隊員たちもなだれ込むように入ってきた。
アクセルは自分のロッカーへ真っ先に進んだ。右隣はパイパー、左隣はリックだった。アクセルは脱いだ制服をハンガーにかけて、ロッカーへ押し込む。中に仕舞ってある灰色の訓練着を取り出して、そこでふと、パイパーがいることに違和感を覚えた。
――パイパー・グリセンティは女性のはずだ。しかしなぜか、同じ空間で着替えをしている。ましてや、すぐ隣にいる。
アクセルは閃いた。これは確認しなければならない。決してやましい気持ちはないが、疑問を疑問のままにしておくのは、後々恥をかきかねないのだ。彼は意を決して、右隣にいるパイパーを見やった。
灰色の半袖からすらりと伸びる細い腕が視界に入る。すでに彼女は訓練用の服を着ており、ロッカーを閉めるところだった。
そして視線を感じたのだろう彼女は、剣呑な目つきでこちらを睨んだ。
「なんだ」
アクセルはあわてふためいて、
「い、いえ。女性も同じ更衣室なんだと思いまして」
「それがどうかしたか」
「どうもしません」
「ふん」パイパーは鼻を鳴らした。「勤務中に現を抜かすなんて、とんだ大物だな」
「…………」
どうやら思惑は見抜かれていたらしい。
「ところでお前はいつまでパンツ一丁でいるつもりなんだ?」
「あ、は、すみません!」
急に気恥ずかくなったアクセルは、股間を抑えて正面に直った。話しを終えたパイパーは更衣室を出ていく。彼女のあとに隊員が続く。結局アクセルは最後になった。
着替えを済ませて、ふたたびアクセルは全力で走る。他の隊員との距離はずいぶんと開いており、追いつく間もなく広場へ到着した。
腕時計を見て時間を計っていたアガサが面を上げる。
「四分四十二秒。まあいいだろう」
かろうじて五分以内に滑り込めたようだ。アクセルは安堵すると共に、深呼吸を繰り返して荒れた呼吸を整える。
「どうしたアクセル、もうバテているのか?」
アガサの台詞に、彼は首を振った。
「まだまだ序の口です!」
するとアガサは小さく笑った。
「訓練はまだ始まってすらいないぞ」
その通りだった。自分はまだ、制服を脱いだだけだ。アクセルは返す言葉がなく、押し黙った。
アガサはさほど気にしていない様子で、アクセルから目を離すと、
「わたしは会議がある。昼過ぎには戻る予定だ。リック、それまで任せるぞ」
「りょーかい」
リックの間延びした返事に、アガサは気も留めずに頷いて、広場から立ち去った。
あとを引き継いだリックが号令を掛ける。
「いつも通り、まずは駐屯地十周。終わり次第走り込みな。周回遅れになった奴は一周追加だぞー」
アクセルは耳を疑った。ざっと駐屯地を見渡して距離を計算すると、一周あたりおそよ五キロメートルはある。また、訓練の内容もそうだが、いつも通り、というリックの言葉が衝撃だった。彼らは日常的にそれをこなしているということだ。
迷宮救助隊へ正式に配属される以前、アクセルは候補生として教育機関へ通っていた。当然、そこでも過酷なトレーニングは行われていたし、ここに居る以上は高水準の成績を残してきた証左である。
しかし、リックは簡単に言ってのけたものの、およそ比べ物にならないほどの訓練量だ。アクセルは数字を聞いただけでめまいを覚えた。
「十周、ですか」
そんな呟きが、アクセルから漏れ出た。
「不足か?」
するとスキンヘッドの強面な男が、短く尋ねた。
「まさか、そんなことはありません」
「なら黙って走れ」
言うや否や、彼は早速駆け足で去る。
パイパーたちが続いていくのを見て、アクセルも腹を括った。彼は一瞬でも弱気になった自身を叱咤するように両の頬をはたき、気合を入れて走り出した。
とはいえ、十周。アクセルは冷静に、距離と体力を計算した。駐屯地の周囲は初めて走るコースでもあるので、出だしの周回は様子を見たほういいだろう、と考えた。
そのためアクセルは、一番うしろで、まずは身体を慣らすことにした。そんな彼に、わざわざ並走する人物がいる――リックだ。
「モーガンは不愛想なんだ、怒っているわけじゃあないよ」
スキンヘッドの男のことらしい。アクセルは苦笑した。
「悪いのは自分です。先輩たちの訓練量に、つい、驚いてしまって」
「そうか。無理もない、君はまだ新米だ」
「教育学校では頑張ってきたつもりだったんですが」
「育てる課程で使い潰すような真似をしたら、いつまでも後輩ができないからな。良くも悪くも現場とは違うということさ」
「はい。それを痛感しているところです」
リックの寄り添う姿勢に、アクセルは優しさを感じた。パイパーやモーガンといったとげとげしい先輩がいるなかにも、リックのような温かい心の持ち主がいることに、安堵する。
ふたりは話しているうちに駐屯地を出て、金網に沿って外周をはじめた。モーガンたちの姿はもう遠い。
「君は――いや、失礼。名前で呼ぼうか。アクセル君」
「はい、なんですか」
「アクセル君は頭が良さそうだな」
唐突なお世辞に、アクセルは戸惑う。だが褒められて悪い気はしなかった。
「いえ、そんなことはないです」
アクセルは口角を緩めて答えた。
「自分の体力をきちんと自覚しているし、十周を乗り切るためのペース配分もきちんと考慮している。優秀だ」
「それくらい、きっと誰にだってできます。先輩たちも、そうでしょ?」
「そうかもな。だが必要ないことだ」
不意にリックの声色が冷たくなった。温度の変化を察知したアクセルは、眉間を寄せた。
「え……?」
「おれたちは普段のこの訓練で、ペース配分なんて考えていない」
「でも、そんな走り方をしたら」
「疲れるさ。足を止めたくなるし、地面へ転がりたくなる。いつもいつも、死にそうな思いをしている。この四分の一周だけは、怪我をしないためのジョギングなんだよ」
リックの言葉は事実だった。先行するモーガンたちが、角を曲がると同時に急速に駆け出した。遥か先の、十周目のゴールテープをすでに見据えているかのように、六人の隊員が我先にと腕を振り、脚を回す。その様子が金網越しに見て取れた。
「アクセル君は、なぜ救助隊員になったんだい」
「なぜって……」アクセルの脳裏に、今朝の夢が鮮明によみがえる。歯を食いしばりたくなるほどの後悔の念が押し寄せる。「なぜって、決まっているじゃないですか。迷宮で救助を求める人々を、助けるためです。誰も死なせないためです!」
知らずに力が入っていたようだ。アクセルの語気は荒立っていた。
それを聞いたリックは、まるで無表情だった。感心もなにもない様子で、ただ、冷たくこう言った。
「面白いな。君はその助けたい人たち、たとえばどこか遠い場所にいる彼らの元へ急行するとき――体力の配分なんて考えるつもりか」
ふたりもようやく、角を曲がった。
直後にリックが、風を切って疾走する。
アクセルは茫然として、遠ざかるリックの背中を眺めた。
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