第35話 蹴っ飛ばして、銀河の果てまで(壱)
※法律に詳しくない人間が頑張って調べて書いているので、間違っていることを書いてしまっている可能性があります。それほど御大層な内容でもないのですが、真に受けないで頂けますと幸いです。
広々としたリビングにはローテーブルやソファ、お洒落な台の上に乗っているテレビが配置されているくらいで生活感がそれほど漂ってはいなかったのだが――モデルルームのようだった整然とした美しさは、今はもう何処かへと旅立っていってしまった。汚い、という形容を用いるほどではないのだが、何となく、この部屋で人間が生活しているのだという空気がそこかしこに漂っているのだ。この変化を齎したのは、にこという名前の居候が増えたから、だったりする。にこと槐、経済的な余裕のなかった家庭育ちの人間と余裕が有り余っている育ちの人間。その違いは、思わぬ形で現れている。当人たちは、さして気にしていないのだが。
お値段は想像以上の匂いがする絨毯の上で胡坐をかいているにこは、不動産屋のウェブサイトが表示されているノートパソコンから目を離すと、ソファに背を凭れて、すっかり丸まってしまった背中を伸ばす。ローテーブルの上にはノートパソコンの他に、電卓とメモ用紙にシャープペンシル、食べ終わったインスタントのカップ麺と箸、そして真新しいスマートフォンが置かれており、足元には賃貸アパートの物件情報が記載されている広告が何枚も散らばっていた。
「あー……都合良く好みの物件は見つからねえわー……」
家賃は安いに越したことはないが、その一点だけに注目していると、やけに部屋が狭い物件だとか、風呂無し物件だとか、最寄りの駅まで徒歩三十分以上の物件だとかに辿り着く。心境の変化がある前のにこであったなら、そういった訳有り物件でも「家賃が安いんだったら、別に幽霊が出ようが問題は無い。家賃の安さは命の次に大事」といって、直ぐにでも不動産屋に電話していただろう。然し、今は違う。今の給料で過不足なく生活している家賃の物件が良いのだ。隣室の大学生による愛の営みが齎す揺れや騒音を気にする生活をもう一度、というのは御免被りたいと思うようになってきている。けれども、公共交通機関の利便性や、徒歩三分圏内にコンビニやスーパーマーケットがあるとか、基本的に物価が安い土地柄であるとかを重視した物件はあるにはあるのだが、大体は既に埋まってしまっているだとか、手を出し辛い価格の家賃をしているだとか、そんな状況だ。現実は甘くない。ちょっとした夢も見させてくれない。
そんなにこが希望している物件とは、大体こんな感じだ。特に誰かを招き入れるつもりはないので、部屋の広さにこだわりはなく、狭かろうとも問題は無い。勤め先の会社は交通費の補助をしてくれるので、電車或いはバス通勤になっても基本的には問題は無い。流石に電車、バス通勤で片道一時間以上もかかる物件は無理だ。
(幸なことに今は無職ではないから、あのオンボロアパートより家賃の高いアパートに住んでも良いんじゃないかっていう余裕が出来ている訳だけれども……何時何処で何が起きるか分からない御時世……いや、問題に巻き込まれたり、巻き込まれに行ってしまう人生を送っている我が身ですよ?ていうか、五十万円を貯金して、槐を温泉旅行に招待しないといけないし……期限は決められていないけど、でも、なあ……)
駄目だ、頭の中でぐるぐる考えるばかりで、焦ってばかりで何も出来ない。こんな状態で何かを決めたら、碌なことにならない。
――とりあえず、強引に物件探しから目を逸らそう。恐る恐るといった様子でスマートフォンを手に取り、画面に表示されている時刻を確認する。現在の時刻は、夜の九時過ぎ。そろそろ家主である槐がアルバイトから帰ってくる頃合いだ。夕食は外で済ませてくると連絡があったので、にこの今夜の夕餉はお湯を入れて三分待てば出来上がるカップ麺で済ませた。
(槐はじっくり考えて、引っ越し先を見つけたら良いよって言ってくれるけど……あんまり長いをするのは気が引ける。ここの家賃払ってるの、槐の親だし。それに色んな感覚が麻痺しそうで怖いし……)
一泊、二泊程度であれば「偶の贅沢だ」と言って、楽しめるのかもしれない。然し、長年の貧乏生活に慣れきってしまっている人間が、ありとあらゆるものにお金がかかっている空間に居続けると、培ってきた金銭感覚が狂い、身の程を弁えずに散財して破滅していくようになるのではないだろうか。それは、反面教師としてきた母親と同じ道を歩むことになるのではないか。「まあ、そうなったとしても槐が何とかしてくれるでしょ」と囁く悪魔と、「そうならないように自分を律してきたんでしょうが!」と叱りつけてくる天使がにこの脳内でガチンコバトルを始める。
「お、落ち着け、焦るな、焦るな……ちょっとずつだけど、前に進んでいるから、焦るな……」
顔色を悪くしたにこは低い机に突っ伏して、「うえっ」と呻く。低い身長に対して、長すぎる胴が大きく曲がり、内臓を圧迫したのだ。そしてもう一度、毎日呟くようになった”冷静になる為の呪文”を唱えて、手にしたままのスマートフォンを指で只管に撫で回した。
にこと槐が竹生弁護士の許に相談をしに行ってから、変化したことがいくつかある。
手始めに、にこは型落ちして久しい折り畳み式携帯電話をスマートフォンへと機種変更した。その際に支払う額の増量具合に顔色を大いに変え、電話番号も変えてしまった。これまでに使用していた電話番号は母親にも、父親にも知られている。金の催促先や、理不尽な怒りのぶつけ先とならないようにする為だが、それを寂しく感じる気持ちよりも「これでもう両親から電話がかかって来なくなるようになるんだ」という安心感の方が勝ってしまって、彼女は思わず苦笑した。
次に、にこは高校を卒業してからずっと住み続けていたアパートから出ていった。然し、引っ越し先は見つかってない。その事情を知っている槐が「次が見つかるまで僕の所に居候しても構わないよ」と言ってくれたので、その言葉に素直に甘えることにして、にこは現在、槐の家に居候をさせてもらっている。最低限の荷物と、誕生日プレゼントという名目の日用品の山と一緒に。冷蔵庫、洗濯機などの家電製品は槐の自宅に持っていけないので、リサイクルショップに買い取ってもらうことにしたのだが、元々が中古品で購入したものだったので、二束三文にしかならなかった。「まあ、そんなもんだよね」と、にこは納得した。
この他にもにこは色々なことをした。
当面の間、これまでに利用していた住所宛ての郵便物を槐の自宅の住所に届けてもらえるようにと、郵便局に向かって、郵便物の転送続きを行った。にこ宛てに届く郵便物の殆どは広告ばかりだが、それでもやっておくに越したことはないと彼女は判断したのだ。
そして、住民票の閲覧制限もかけた。これは引っ越しをして、住民票を移す前に行っておいた方が良いと頼れる人たちに助言してもらったので、その通りに行動した。にこの母親が金づるである娘の居場所を知る為に住民票を閲覧する、といった知恵を持っているとは思えないのだが、母親の依存対象であるヒモ男にその知識がある可能性は否定出来ない。ヒモ男の楽をする為の無駄な知識と、それを鵜呑みにする女の行動力を決して舐めてはいけない。母親がそれをしなくても、面倒を避けたくて堪らない父親が行動に出る可能性も捨てきれない。用心には用心を重ねるべきだと、これまでの経験が警鐘を鳴らしてくれる。住民票の閲覧制限の手続きは、相当な手間を要したが、色々な人々の力を借りて、何とか無事に済ませることが出来た。後は「住民票の閲覧制限を実施する」との旨が書かれた書類が槐の自宅に届くのを待つばかりだ。閲覧制限の期限は一年で、母親と父親が生きている限り、延長手続きをしなければならない。だが、急に目の前に母親が現れるかもしれないという恐怖から少しでも解放されるのであれば、それは手間でも面倒でもないと、今のにこは考えられる。
そうして、最後に二つの問題が残っている。一つは、にこの新居を決めること。もう一つは、槐の”百万円をくれてやる為の契約書(仮称)”の完成だ。後者は槐と竹生弁護士がしっかりと話し合いをしながら作成していて、あと少しで納得のいくものが出来上がりそうだと槐が今朝方言っていたことを思い出す。
休憩がてらにあれこれと考え事をしていたにこは、玄関の方から聞こえた物音によって現実へと引き戻される。僅かの後、帰宅した槐がリビングに姿を現した。「おかえり」とにこが声をかければ、「ただいま」とどこか照れ臭そうに返事をした槐の鼻がほんのりと赤くなっている。十一月も半ばは暦の上では秋に区分されているようだが、夜になると結構寒い。震えてはいないが、お疲れの様子の槐を労わろうという気が起きたにこが「何か温かいものでも飲もうと思うんだけど、あんたも飲む?」と尋ねると、「それなら僕が淹れるよ。にこさんの御希望は?」と返されてしまったので、「……じゃあ、宜しく。飲み物は何でも良いよ」と答えて、にこは胡坐をかき直した。折角気を遣ってやったのに、と立腹はするが、槐がお茶を淹れた方が自分で淹れるよりも幾倍も美味しいことは決まっているのだから、彼女は不満を口には出さないでおいた。
――暫くして、お茶を淹れて戻ってきた槐がカモミールティーの入ったティーカップをにこに渡しながら、話を切り出してきた。
「そうそう。にこさんのお母さんから電話があったんだ。今日の夕方くらいだったかな?」
契約書を作成することにした槐が中々大金を寄越さないので、にこの母親――博子が痺れを切らして、事ある毎に槐に電話をかけてくる。その度に竹生弁護士に入れ知恵をされている槐がのらりくらりと博子の口撃をかわして、それとなく博子の情報を入手している。現状で判明しているのは、博子が拠点としているのはにこが住んでいたおんぼろアパートへと徒歩で向かえる距離の地域にある安宿であるということ。そして、博子が全然金を手に入れてこないのでヒモ男に逃げられてしまいそうになっているということ。
今日の電話の内容は、おんぼろアパートから姿を消した娘の居場所を何とか突き止めようとしているということだ。
「私が今、槐の所に居候してるってことは……」
「そんなことは言わないよ。まあ、疑われてはいるみたいだけれど、知らぬ存ぜぬを貫いていたら、暫くしてからまた電話がかかってきて……父親の所にもいない、にこは何処にいるんだって怒鳴られてしまって。にこさん、携帯電話の番号を変更しておいて良かったね……としか、僕は言えません」
「ウン、ソウダネ」
百万円をチラつかされて、焦らされている博子は焦るあまりに、にこが駄目なら元夫に頼ろうとしたらしいと言外に分かってしまい、にこは電話番号を変えていなかった場合の悲惨な未来を想像して、顔色を頗る悪くする。にこが駄目なら元夫、元夫が駄目だったらまたにこに接触を図ろうとするという行動パターンに全く変化はないらしい。それしか考えられないのか、学習能力が存在しないのか、そのどちらでもあるのか、博子ではないにこには分からない。
淹れたばかりのカモミールティーの香りでも嗅いで、荒みかけている心を慰めよう。それから一口飲んで、飲みなれていないハーブティーの独特の風味にどう反応したら良いのか分からなくて、にこはとりあえず手にしていたカップを机の上に置いた。どうしてだろう、自分で淹れたさして美味しくない、ただただ味が濃いだけの緑茶が恋しくなった。
「ところで、にこさんの納得のいく物件は見つかりそう?」
白目をむいて虚空を見つめるにこに気がついた槐が話題を変えるが、それもまた問題としていることなので、彼女は苦笑するばかりだ。
「納得いきそうになったのはある。会社に近い物件があったんだけどさ、一人暮らしには広く感じられる部屋で、その分ちょっと家賃が高いんだよね。このままやっていけるなら、何とかその家賃でも生活していけそうではあるんだけど……まあ、五十万円の借金ができますしね、そのうちに。でもその物件は悪くない感じだし……物凄く悩んでる」
「そう。それじゃあ、納得がいくまでゆっくり、じっくり考えて、探してくれたら良いよ」
「……あんたの親が家賃を払っているこの物件に一年ほど寄生するという案もあるけどね」
「そうなんだ?僕は構わないよ」
「いや、構えよ、金持ちお坊ちゃま」
お金が一番だと豪語しているにこだが線引きはしっかりとしているようで、槐の甘い誘惑には流されない。何だかんだで真面目な性格をしているなあと、電卓でお金の計算をしているにこを眺めて、槐がにこにこと笑う。何やら感じ取ったにこは彼をじろりと睨みつけると、再び新居の物件探しに勤しむことにした。
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