第36話 蹴っ飛ばして、銀河の果てまで(弐)
槐と竹生弁護士が話し合った結果、博子との対決の場に竹生弁護士事務所が選ばれた。パーティションで区切られただけの相談室を利用するが、弁護士事務所内ということもあって第三者に内容を知られる恐れは比較的少ないと思われ、何か起こったとしても、事務所内には他の弁護士やスタッフなどがいるので問題に対処しやすいだろうということだ。
相談室の六人掛けの机の下座からにこ、槐、竹生の順に並んで着席し、時を待つ。やがて、約束の時刻になった。だが、博子の姿は未だ此処にはない。壁に掛けられている時計の長針が十分、二十分、三十分と動いていくが、博子は未だ現場に現れない。
「……私、日付と時間を間違えて伝えてしまったかしら?」
壁時計と腕時計の両方で時刻を確認する竹生が呟き、それを耳にしたにこは項垂れる。
「……いえ、あの人は基本的に時間を守るという概念を持ち合わせていないんです。とりあえず、今日中に此処に来たら良い、そう考える人間なんです……。すみません、竹生さんは他にも案件を抱えていて、決して暇じゃないのに……」
噂をすれば影が差すではないが、漸く博子がこの場に現れた。相も変わらず、若く見えるようにと気を遣った化粧と格好をしている彼女は大幅に遅刻していることを全く悪びれることもなく、出入り口の前に陣取り、仁王立ちをして、にこたちをじろりと睨みつける。
「ねえ、呼び出し場所が弁護士事務所ってどういうこと?何も悪いことしてないのにこんな所に呼び出されるなんて、すっごい気分悪いんだけど?あのさ、別の所に行かない?私お腹空いてるんだよね。お腹の子にも栄養をあげたいから、イタリアンかフレンチ食べたい!連れてって!」
「御足労をかけまして申し訳ないです。どうぞ、席についてください」
博子のあまりの態度の悪さににこが言葉を失っているうちに、槐が対面の座席を博子に勧める。自分の意見に耳を貸そうともしない槐の微笑みに気圧されたのか、彼女は渋々、彼の対面の座席に着いた。
「大事な話をする前に、紹介しますね。此方は竹生弁護士です。契約書の作成を依頼しまして、今回の契約にも立ち会って頂きます」
「は?契約?どういうこと?ていうか、お金渡すだけなんだから弁護士いらないでしょ」
想定していなかった弁護士の登場に怯んだ博子だが、竹生の顔と名刺を見るなり、プッと噴き出す。
「うっわ、すっごいオカメ顔!その顔で”月姫”って、何、ウケる。かぐや姫って全盛の美女なんだよ?ない、ないって!しかも”月姫”って書いて、”かぐや”って読むの?ありえないわー、親のセンスを疑う」
厚化粧をして漸く平均並みになる顔をした女と、平均点よりやや下の男の合作であるコケシによく似た娘に”にこ”と名付けた奴が、他人様の顔と名前を嘲笑うな。投げつけたブーメランが勢いを増して戻ってきて頭に突き刺さってることに気がついてねえのか、この痛いおばさんは。あと全盛の美女って何だ。全盛じゃねえよ、絶世だよ。
予め竹生に「お母さんに何を言われても、必要なこと以外は出来るだけ発言しないように心掛けてください。下手に反応してしまうと、相手のペースに巻き込まれて、結果的に不利な状況に陥ってしまう恐れがあるんです」と注意されていた。確かににこは博子の言動に過剰に反応してしまうところがあり、自身でも漸く自覚出来るようになってきた。その御蔭だろうか、にこは喉元まで出かかった悪態を何とか飲み込むことが出来た。だが、口元がひくひくと痙攣してしまうのまでは止められなかった。
一方、容姿と本名を貶された竹生は穏やかな表情で博子を眺めている。にこにはそれがとてつもなく恐ろしく見えるのだが、博子は頓着することもなく、出された紅茶に角砂糖を四個とミルクをたっぷりと入れて飲んでいる。
「それでは、本題に入ります。にこさんのお母さんに百万円をお渡しするに当たって、条件を設けます。その条件を受け入れられない場合、僕は貴女に一円たりともお金を渡しません」
「え?お金をくれるって言ったのはそっちでしょ?条件つけるなんて言ってないよね?おかしくない?何で勝手に条件つけようとしてるの?自分が言ったこと覚えてないの?若いのに?大丈夫?病院行った方が良いんじゃないの?」
「予め条件はつけていましたよ?百万円をあげるのでにこさんに二度と近づかないで下さい、と。ですから、竹生弁護士と共に契約書を作成致しました。此方の書類に記載されている契約内容を確りと確認してください」
「いや、だからさ?お金をくれたら、もうにこに近づかないって。約束は一応守るよ?ね?契約書なんていらないでしょ?」
「申し訳ない、きっちりと証拠を残しておかないと落ち着かない性分なんです。でも、無理強いは宜しくないですね。どうしても契約書に署名と捺印をされるのが嫌だと仰るのでしたら、百万円をお渡しするという話はなかったことにしましょう。にこさん、御免なさい。あんなに偉そうに言っていたのに、寸前になって尻込みしてしまって……」
「え?う、ううん……?」
急に槐がにこの方を見て、物凄く申し訳なさそうな表情をして謝罪してくるので、にこが動揺して反応を返せないでいると、博子がわざとらしく咳払いをして、一同の注目を集める。
「う、うん、別に、大丈夫だよ?契約書にサインしてハンコ押すくらい、出来るよ?ほら、早く契約書渡してよ!」
「御協力頂きまして、有難う御座います」
槐に促された竹生が契約書とボールペンを差し出すと、博子は乱暴な仕草でそれを奪い取る。
(……槐、このおばさんの扱い上手くないか?)
にこが梃子摺って仕方がない博子を、押して引いてを上手く使って、自分に有利なように誘導している槐。果たして、今目の前にいる彼は頼りないお坊ちゃまの槐と同一人物なのか?普段の彼の印象との食い違いに、にこは唖然として、どこか他人事のように彼を見つめ、それに気がついた槐がはにかんで首を傾げている。
一方、契約書に記載されている内容を理解しているかのように頷いてはいるが、恐らくは半分も理解出来ていないだろう博子は、竹生に懇切丁寧に説明してもらっている。
契約書の内容は、このような内容になっている。契約書に署名と捺印をした即日より、提示された条件を守ることで博子に槐から百万円が渡される。
博子が順守しなければならない条件とは、にこに今後一切の接触をしないこと。連絡の有無に関わらず彼女の前の前に現れたり、彼女に電話をかけたりすることなどを禁じる。親子の縁を盾にして金銭の要求をしないこと。にこの承諾無しに借金の連帯保証人として彼女の名前を利用しないこと。そして、槐から渡される百万円の他にそれ以上の金銭を要求しないこと。槐が博子に渡すのは百万円だけである。
以上の条件を遵守出来なかった場合、博子には罰則として、百万円の返還が求められる。これに応じない場合は裁判を起こし、博子に百万円を返還させることを約束させる。性懲りもなく、にこを勝手に借金の連帯保証人にしていた場合は、警察に被害届を出すことも記載している。
「はいはい、守れば良いんでしょ?それくらい一応はするわよ!ほら、早くお金を渡して!早く!」
「いいえ、確りと内容に目を通して頂き、納得した上で契約書に署名と捺印をして頂かないといけないのです。貴女がきちんと理解してないのにもかかわらず、無理矢理に契約書に署名と捺印をさせてしまうことは問題となるのです。この場合は契約不成立となり、百万円を返却して頂かなければありませんし、詐欺の疑いで此方も貴女も警察に出向かなければならなくなる可能性が……」
「わ、分かってるわよ!ちゃんと読んで、納得するわよ!」
落ち着き払っている竹生とは反対に動揺を露わにしている博子は、もう一度書類に目を通す。自分の調子を狂わされても、お金を手に入れる為なら何でもしようとする博子の姿が、にこには何だか哀れに見えてくる。どうして私はこんな人間に愛されたいと願って、必死に頑張ってきたのだろうと虚しくもなってくる。
「……納得した!もう大丈夫だから!ねえ、赤いやつないから、ハンコ押せないんだけど!?」
読み辛い丸文字で署名し、朱肉を寄越せと竹生に催促をして――博子は三文判を押した。投げ寄越された契約書に不備はないかと確認して、竹生は「これで契約は成立致しました」と告げる。
「此方が百万円となります。念の為に枚数を確認しますね」
鞄の中から出てきた白の無地封筒から札束を出して、槐が丁寧に枚数を確認していく。一万円札の枚数を誤魔化してはいないと、博子に見せつけるように。
(槐が貯金してたお金、大事なお金……)
枚数の確認が終わり、札束は再び封筒の中にしまわれ――槐の手から博子へと渡される。その光景を、にこは何とも言えない気持ちで見つめていた。
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