第32話 ハイパー綺麗事ドリーマー(肆)
就業時間が過ぎて、退勤してきたにこは槐が住んでいるマンションへと戻ってきた。インターフォンを鳴らせば、にこやかな表情をした槐が出迎えてくれたので――手にしていた買い物袋を彼に向けて、ずずいっと突き出す。きょとんとした槐に、にこは腫れぼったい細い目をより細くして、慣れていない為にどうにもぎこちなくなる笑顔を向けた。
「お腹、空いちゃった。話し合いは夕飯の後でも良い?」
「勿論。僕もお腹が空いているんだ」
手入れがされて小綺麗なキッチンへとやって来たにこは袋の中に入っている物を台の上に並べていく。材料を見ただけでは料理名が浮かんでこない槐が「今夜は何を作ってくれるの?」と問いかけて、必要とする調理道具を準備しているにこが「あんたが食べたことがなさそうな牛丼」と答えた。
「家では食べたことはないけれど、チェーン店の牛丼は食べたことがあるよ。大学に入ったばかりの頃に同じ授業を受けていた学生に連れて行ってもらったんだ」
「……意外だ。ということは、ファストフード店とかも行ったことあんの?」
「うん。頻繁に利用することはないけれどね」
「ふ~ん……」
そういえば槐はファミリーレストランの利用の仕方は知っていたなあと思い返しながら、にこは皮を剥いた玉葱を薄切りにしていく。手際は良いが、切られた玉葱の薄さはバラバラだ。食卓の上を片付けて、布巾で拭いて綺麗にしておいてと槐に言いつけて、料理本を読んで覚えた調理方法で牛丼の具を作っていると、炊飯器がピーッと音を発した。
会社を後にした直後に「今からそっちに向かうから、炊飯器で御飯を炊いておいて」と、槐にメールで連絡しておいたのだが、彼はそれをちゃんとやっておいてくれたようだと安堵し、炊飯器の蓋を開ける。白米の良い香りが鼻腔を刺激した。
(あれ?)
しゃもじで御飯の炊け具合を確認してみると、違和感がある。どうやら槐は水の分量を間違えてしまったようで、炊きあがりが硬めになっていた。
(……まあ、牛丼の具の汁気でどうにか誤魔化せるか)
炊飯器の使い方が一向に上手くなる気配を見せないお坊ちゃまに過度の期待を寄せてはいけない。にこがやって来るまでに、無洗米と水をお釜に入れて、炊飯器の炊飯ボタンを押すという任務は達成しているのだ、それは良いではないか。そうして何とか自分を納得させて、彼女は槐が用意しておいてくれた高級感漂う丼に御飯を盛りつけていった。
こうして出来上がった牛丼に、インスタントの味噌汁と出来合いのサラダを食卓に上げる。「いただきます」と手を合わせてから、二人は食事を始める。
(おお……勇気を振り絞って、普段は手を出すことのない値段を牛肉を買って良かった……何なの、この美味さは……適当に調理したのに失われない旨味と食感……硬めの米に汁が滲みこんで……最高……)
明後日の方向を見つめて牛丼を食べているにこを不思議そうに眺めながら、槐も牛丼を食べていく。妙に静かな夕食の時間の終わりは早く、槐は空になった食器を持ってキッチンへと向かい、暫くしてから茶器を載せたお盆を手にして戻ってきた。彼はふと視線を動かして、蓋が開いた市販の栄養剤の瓶が食卓に置かれているのを見つけた。
「ええと……梅昆布茶を用意したのだけれど……にこさんは必要なかったかな……?」
「いる。口の中に絶望的な苦味が広がってて、しつこく残ろうとしてる。口直ししたい」
今夜の目的の為に気合を入れようとして、薬局で買ってきた栄養剤。普段のにこであれば決して手を出すことのない価格帯のそれのそれのラベルには、どのように読んだら良いのかが分からない漢字で表記されている漢方薬と思しき名前が羅列していて、味の方はというと筆舌に尽くし難いものであった。だが、良薬は口に苦し、という言葉が存在する。だからきっとこの栄養剤には効果があるはずだ。なかったとしても
――などと脳内会議をしているにこ。後ろ向きな思考にはなっていないようだが、前向き思考というよりはナナメ前向き思考になっているかもしれない。
「よし、口の中はどうにかなった。それじゃあ、話し合いしていきますか……」
食卓の上に両腕を置いて、にこは対面の槐を見る。彼女としては気合を入れた表情をしているつもりなのだが、槐には”これから標的を仕留めようとしている殺し屋”のように見えてしまい、彼は微かに体を震わせる。
人生には安心・安全・安定の三つの要素を求めていく方針の殺し屋――にこは先ず、会社で起こった出来事について話していく。ここのところ様子がおかしかったにこに気が付き、相談にのってくれないかと社長に進言してくれたお局様のこと。それを些細なことと一蹴したりせず、実際ににこの相談にのってくれた社長のこと。社長が教えてくれた”親の捨て方”のことを話していくうちに、にこの表情と声色が穏やかになっていく。
「後輩のことを心配してくれる素敵な先輩だね」
「ヒステリー気味な時もあるけど、まあ、今日ばかりはお局様に感謝した」
「社長さんも、社員の言葉に耳を傾けてくれる素敵な人だね。にこさんは良い会社に再就職できたのかもしれないね」
「うん。社長を慕ってる人が多いって噂で耳にしたことはあったけど、それって本当のことだったんだなって、今日のことで実感した。……思ってもみなかったところに味方になってくれる人がいてくれたことに吃驚したし……嬉しかった。勇気を出して、誰かに頼って良かったって、久しぶりに思えたよ」
槐以外で、にこに手を差し伸べてくれる人の手を取ったのは殆ど初めてかもしれないと、彼女は苦笑する。
「……良かった。ちゃんとにこさん自身を見てくれる人がいて、良かった」
「うん」
「僕も今日、頼れる人に頼ってきたんだ」
これからのことを一緒に考えていこうとにこに言ったのだけれど、良い案が浮かんできそうにないと感じたので、兄の梓と合って話をしてきたのだと、槐は打ち明ける。
「へえ、梓くんに会ってきたんだ。ふうん、妻子持ちになってる三十代の梓くんかあ……ちょっと見てみたいかも」
「……見なくていいよ。中身は昔と大して変わっていないし、外見も少しおじさんになってきたかなというくらいだから、特に面白みはないよ」
にこが梓の話題に触れると、槐は露骨に拗ねる。そんな条件反射が存在することに今更ながらに気が付いたが、話し合いの内容からズレていってしまうだろうと瞬時に判断して、にこはこれ以上梓自体の話題に触れないようにしようと心掛ける。
「あ、あ~、それで?槐は梓くんに何を相談してきたの?」
「にこさんが社長さんと話した内容と同じことと、百万円を渡すから二度と恋人には近づかないで欲しいと啖呵を切ってしまったこととか……その他諸々です。梓くんの回答は、社長さんの回答と殆ど同じだったんだ。それで僕なりに考えたのだけれど、二人だけで解決しようとするのはやっぱり不安が残るから、弁護士に頼ってみてはどうかな、と」
「やっぱり行きつくところは、役所なり弁護士なり頼れそうなところには素直に頼るのが一番、てことか」
「若しも弁護士に相談するのであれば、梓くんの伝手を頼ってみない?」
にこと相談をして、弁護士を頼ることにしたのであれば、知人の弁護士を紹介すると梓が言ってくれていたことを伝える。彼女は目を瞑り、腕を組むと天を仰ぎ、暫しの間うんうんと唸り、目を開けて、顔を前に向けた。
「……役所はどの部署に行けば良いのかを社長に教えてもらったから良いとして、弁護士事務所は調べてみてもどの事務所が良いのか、私じゃ判断できないから……伝手があるなら利用したいって考える。槐は、どう思う?」
「僕は梓くんの伝手を利用するのは有りだと思う。その人は大学時代の知人らしいのだけれど、それだけの理由で薦めてきたとは思わない。梓くんはお気楽そうに見えるけれど、僕よりもしっかり現実を見ている人だから、信用できる人を紹介してくれているのだと思うんだ」
兄の梓につい甘えてしまう自分の意見は参考にならないかもしれないが、と、槐は自嘲気味に付け足す。
(無条件に甘えてしまう身内がいるのは、幸せだね)
そんなことにはついぞ縁のなかったにこには、羨ましくて堪らない。些細なことでどうしても恵まれている槐に嫉妬をしてしまうと嘆息するが――これまでのように僻み根性を丸出しにして、彼に噛みつこうとはしなかった。
「頼れるものには頼らないとね。意地張って、何でもかんでも自分一人で解決しようとするのは今までの繰り返しにしかならないしね。知人の弁護士さんを紹介してもらえるかどうか、梓くんに訊いてもらえるかな?」
「はい、分かりました」
前向きに図々しくなろうと心掛けたにこの頼みを快諾した槐は早速、梓にメールを送信する。
「それにしても弁護士への相談料ってどれくらいの金額なんだろ?若しも何か依頼することになったら、総額いくらくらいになるんだ?私に払いきれるか……?」
残額が無残な数字になっていた預金通帳は今、少しずつ預金が増えていっているところだが、大盤振る舞いできるほどには程遠い。そんな真似をしてしまえば、今後の生活に支障を来すのは目に見えている。
前屈みになり頭を抱えて唸りだしてしまったにこを目にした槐は立ち上がり、にこの隣の席に移動すると、丸くなっている彼女の背中を優しく撫でた。
「弁護士への相談料、依頼料は僕が支払うよ。僕の弁護士に相談しておいた方が良いかもしれないことを仕出かしてしまっているからね。だから、にこさんはそのついでに色々なことを弁護士に相談してくれたら良いよ」
こう申し出たならば守銭奴のにこは歓喜し、この提案に飛びついてくるはずだと槐は浅慮したのだが――にこの様子が彼の想像していたものと異なっていて、槐は「あれ?」と困惑する。にこは食卓にうつ伏せたまま、沈黙しているのだ。言葉の選択を間違えたのかとひやひやしてきた槐が彼女の顔を覗き込もうとするのと同時に彼女が顔を上げたので、槐は顎を、にこは後頭部を強かに打ち付ける。二人は声も無く、只管に悶絶した。
「あ……あの、さ。問題の解決にかかる費用は私もきちんと払う。全額一括払いできるのかってことには不安しかないけど、でも、私も払う。あのオバサンにくれてやる百万円も一度には用意できないけど、少しずつでもあんたに返していく」
「……いや、百万円の件は僕が勝手に申し出たことだから、にこさんには返済する義務はないし、責任もないよ。だから、気に病んだりしないで。得をしたと思ってくれたら、僕はそれで良いんだ」
未だ鈍痛を訴える頭を摩っているにこが、槐をじっと見つめる。鳴りを潜めているかと踏んだ彼女の猜疑心を起こしてしまったか、と、槐は怯えるが、自分が放った言葉は紛れもない本心だ。嘘を吐くのは嫌なので、彼もまた、にこをじっと見つめる。
「今回の問題の発端は私の問題だから、というのもあるんだけど。全部を全部あんたに丸投げして甘えて、自分は楽をしていたいって気持ちがあるのも否めないんだけど。決して槐に頼りたくないっていう訳でもなくて……どう言ったら良いんだろう?」
一緒に考えて、問題を解決していこうと槐が言ってくれたことが嬉しかった。だから、自分もちゃんと考えて、槐と話し合って、行動に移していきたいのだと彼女は呟く。
「これから先もずっと槐とは対等でいたいから、負い目があるの、嫌だ。だから、お金のこととか、私もちゃんと責任を持つ」
これまでの付き合いの中で一度でも槐と対等であったことなどあったのか、と、頭の中で誰かが突っ込みを入れたがにこは無視する。虫の良いことを言った自覚はある。だが、敢えて虫をする。「何言ってんの、あんた?」とにこに突っ込みを入れる権利は槐にある。
「槐に依存したら、あのオバサンと同じになる。それだけは本当に嫌。今までの繰り返しは絶対に嫌。私は槐に依存していくんじゃなくて、槐と信頼関係を築いていくんだって実感が欲しいから、ちゃんとしていきたい」
槐がふと視線を落とすと、机の上に置かれたにこの手が微かに震えているのが見えた。徐に手を伸ばして、その手に自分の手を重ねると、冷たく感じられた。拒絶されないのでそのまま手を握り、彼女のものよりは幾分か高い自分の体温を移していく。
「それでは……こういうのはどうかな?今回の件でかかる費用の負担の割合を決めていく、というのは?僕が先ず負担するのは、百万円の件の相談料。にこさんが先ず負担するのは、実の親と絶縁する方法の相談料。その他の費用は、これからも話し合って割合を決めていこう。百万円については……そうだね、半分ずつ、負担しよう」
「あんたの分の相談料以外は全額返済していく所存なのですが?」
ぎろり、とにこに睨みつけられても、槐は怯まない。にっこりと微笑んで、反対ににこを怯ませる。
「啖呵を切ってしまった僕に見栄を張らせてもらえないかな?にこさんに費用を全額返済されてしまうと、僕の立つ瀬がなくなってしまう。だから、割合を決めて、その負担分と五十万円を返済してください。そしてその返済分で……そうだ、問題が全て解決したら、温泉旅行にでも行こう。思い切って海外旅行も良いね。思い切り楽しんで、美味しいものを沢山食べたりして、今までの疲れを吹き飛ばそう!」
想定外の提案をもう一つ要した槐に呆気にとられて、にこは言葉を失う。
(ええ~?能天気というか、お花畑というか……凄いわ、このお坊ちゃま)
キラキラと眩しい笑みを貼り付けている槐に、ついうっかりいつもの白眼を向けているうちに、呆れの向こう側の境地へと辿り着いてしまったような気がする。そしていつの間にやら――にこは笑ってしまっていた。
「馬鹿だね、あんた……でも、その返済方法は良いかもね。うん、その提案に乗るわ」
今朝の不可思議な夢の御蔭なのか、悲観的な気持ちになりにくくなっているように感じられる。昨日までのにこであれば間違いなく、槐の突拍子もない提案に苛ついて、これでもかというほど噛みついていただろう。突然の心境の変化に、にこ自身がついていけず、とりあえず笑うことしかできないでいる。
「パスポートなんて持ってないから、海外旅行するならパスポートの申請するところからだわ。手間がかかるなら、国内の温泉旅行かな。これもしたことないし、修学旅行も楽しかった思い出ないし、旅行って”置いていかれるもの”って認識だったし……未だ何も解決してないけど、一先ず、温泉旅行を楽しみにするわ」
けらけらと笑っているにこを目にして、槐の目頭が自然と熱くなる。彼女が笑うのに夢中になっている隙に、零れ落ちそうになる涙を袖で拭う。それでもまだ、視界がぼやける。
「僕も、にこさんとの温泉旅行を楽しみにする」
やや鼻声で呟くと、笑いっぱなしの彼女は槐の顔を見ずに「うん、そうして」と返事を寄越してくれた。もう一度袖で涙を拭うが、溢れてくるばかりだ。拭っても拭っても袖が濡れていくだけで、ぼやけた視界は鮮明にはならない。目の前ににこがいるはずなのに、彼女の姿を視認できない。
「晴れ晴れとした気持ちで温泉旅行に行く為に、色々な問題、解決していかないとね」
「ぼぐもでづだう」
「うん、有難う……って、え、あんた、何で泣いてんの!?こらっ、袖で拭うなって!お坊ちゃまなんだから、お上品にハンカチとか使えっての!」
スカートのポケットの中から出したハンカチは、ぐしゃっと丸まっている上に湿っている。これを槐に渡すのはさすがに気が引けたにこはもう一度ポケットに押し込み、洗面所に赴いて、ふわふわと手触りの良いフェイスタオルを取ってきて、大泣きしている槐に差し出した。
「ありがどう、にごぢゃん……っ」
「え~と、何故か泣かせて御免……?」
槐の号泣の原因は己にあるのではないかと思ったらしいにこが疑問符をつけながら謝るが、槐は首を左右に振る。
にこに嫌なことをされて、悲しくなって泣いている訳ではない。槐は嬉しかったのだ。にこが屈託なく笑ってくれたことが。唐突な提案を拒絶せず、呆れてつつも受け入れてくれたことが。強力な接着剤のように心にへばりついていた猜疑心を持つにこが、自分のことを信用してくれたのだと実感できたことが。
「……美形って鼻水垂らして泣いても美形なのかよ。どうやったら不細工に見える瞬間がやってくんの?」
話し合いを行った結果、これからの方針が一つ決まったのは良いのだが、何故か槐が号泣した。意味が分からない。不可解な気持ちを抱えるにこは、彼が泣き止むまで背中を撫で続けていた。
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