第31話 ハイパー綺麗事ドリーマー(参)
どこかすっきりとした表情で出勤していくにこを見送ると、槐は手早く朝食の片づけをして、リビングのローテーブルの上に置いていたスマートフォンを手に取った。手入れがされている綺麗な液晶画面を覗くと、1件の新着メッセージがあると表示されていた。槐は画面を優しく指で叩き、メッセージの内容を確認して――ほっと息を吐く。手早く返信をして、彼は外に出かける準備を始めた。
**********
腕時計の針が正午を指してから、少しばかり経過する。槐がやって来たのは、オフィス街の一角にあるカフェで、彼はコーヒーを御供にして、机の上に教科書などを広げて勉強をしているのだが、時折思い出したように顔を上げて、視線を窓ガラスの向こうへと寄越す。近隣のオフィスビルの中から、わらわらと現れるのは腹を空かせているのであろう会社員たち。会社指定の制服を着ている者、スーツを着ている者、お洒落な仕事着を着ている者など様々な姿をした会社員たちはそれぞれの場所へ移動していっている。
そんな人集りの中に、見慣れた顔をした人物を見つけて、槐は口元を綻ばせる。其方も槐に気が付いたようで手を振ってくれたので、彼も手を振り返す。
「――よう、槐。待たせたか?」
「ううん。アルバイト先での勉強をしていたから、時間が経過しているのに気が付かなかったよ」
槐が外出をしたのは、この人物に会うためだった。仕立ての良い紺色のスーツを着た男性は槐の実兄の梓で、朝方のメッセージの送り主だ。眉目秀麗と他称されることが多い槐とは異なり、平均点の容姿をしていると評されることが圧倒的に多い梓は鷹揚とした足取りで、槐が座っている席までやって来る。槐は急いで机の上の教科書類を片付けた。
「突然お願いして御免ね、梓くん。出来れば、早いうちに話したいことがあって……」
スーツの上着を脱いで軽く畳んで椅子の背にかけ、槐の対面の席に着くと梓は苦笑いを浮かべる。
「まあ、昨日の夜中に突然メールを送ってくるなんて思ってもいないから、朝起きて着信を見て吃驚したわ。ところで、相談内容を聞くのは昼飯食べながらでも良いか?午前中に会議があって、はりきってやってたからさ、かなり腹が減ってるんだ」
「全く構わないよ。僕もお腹が空いてる。何を注文しようかな……」
白色の縞が入った、艶のある灰色のネクタイを緩めてた梓は備え付けられているメニュー表を手に取り、槐に字が読みやすいようにして広げてくれる。会社の近くで通い慣れているから、と、このカフェを待ち合わせ場所に指定した梓はちらりと見ただけで、本日のランチセットを注文すると決める。槐は最初から最後までしっかりと見て悩んだようだが、結局は兄と同じものを注文した。
「このお店って、会社の近くだよね?良いの?同じ会社の人に、私生活の話を聞かれたりしても?」
「ん~?別に噂されても、問題無い。他人の私生活に口出すような無粋な人間は、まあ、それなりに何かあるからな?ちょっとお話しませんかって誘ってみるから大丈夫」
「……そういうものなの?」
「ふふん、兄ちゃん、ぼちぼち社会人生活が長いので。――それで、俺に相談したいことって何だ?お前が時間帯も考えずに連絡してくるくらいだ、余程の難題なんじゃないか?」
注文を承った店員が席から離れて間もなく、梓は話を切り出す。槐は反射的に表情を強張らせると、緊張の色を含んだ声で話し始める。
「……実は恋人が困ったことに巻き込まれてしまって……」
「恋人って、にこちゃんが?おいおい、あそこの母親、未だにこちゃんを困らせてるのか?あまり他人様の家の事情に口を出したり、誰かの親兄弟を悪し様に言ったりしたくないんだが……全く学習能力がないんだな、あの母親……」
「うん、そうなんだ……。うん?ちょっと待って。名前を出していないのに、どうして僕の恋人がにこちゃんだって断定しているの?」
知らぬ間に彼女の名前を口に出していたのだろうかと逡巡するが、いや、出してはいないと結論を出した槐が怪訝な目を向ける。梓はきょとんとした表情で、回答を述べる。
「だってお前、五年前に音信不通になったにこちゃんと再会出来たんだろ?然もお付き合いをするような仲にまで発展してるんだろ?……って、俺は母さんから聞いてるんだけど、違うのか?」
「母さん、どうして梓くんに話して……?いや、待って。僕、恋人が出来たとは母さんに報告したけれど、名前までは言っていないはずなのだけれど?」
自分の誕生日祝いにと、にこの着物姿を見たいあまりに母親に着物を貸してもらいに実家に行った時のことを、槐は思い返す。諸事情については伏せたが、恋人が出来たのだと母親に告げたことは覚えている。恋人の人柄や好みについて少々話はしたが、正体についてまでは言及していなかったはずだ。
それなのにどうして、母親は次男の恋人がにこであると気が付いてしまったのか。頭を抱える弟を、梓は楽しげに眺めている。
「有閑マダムを甘く見たら駄目だぞ、槐。お前から聞いた恋人の特徴がにこちゃんそのもので、特定するのが簡単すぎてつまらなかったってさ」
「……いいや、にこちゃんに似た特徴を持った全くの別人という可能性があるじゃないか。確定要素の少ない情報だけで判断するのは宜しくないのでは?」
「往生際が悪いぞ、槐。誕生日プレゼントに生活必需品を貰って喜んでくれる奇特な女の子は、俺はにこちゃんしか思いつかないね。因みにそれは娞乃に聞いた。それから、お前が俺や親に誰かのことについて相談する時は殆どにこちゃん絡みだった。――よって、母さんと娞乃から聞いた話、これまでの弟の行動パターンから考えて、俺が出した答えは……恋人はにこちゃん、だ」
反論は受け付けよう、と、腕を組んだ梓が勝者の笑みを浮かべている。梓のその態度に槐は腹が立ったが、ぐうの音も出ない。梓に口で勝てた試しがないので、追い詰められる前に早々に白旗を上げた方が良いことをこれまでの経験で知っている。槐は梓に負けることを選んだ。戦略的撤退のつもりで。
「……恋人は、にこちゃん、なのだけれど。にこちゃんが今、とても困っていて……」
「始めからにこちゃんのことで相談があるって言えば良いのに、何で誤魔化そうとするんだ?お前は隠し事が下手だから、どのみち露呈するのが目に見えてるだろ」
「……にこちゃん馬鹿が過ぎるって、揶揄われると思って。母さんにも、梓くんにも」
「……確かに言おうかなって思った。ちょっとだけ。……あー、話が逸れたな。本題に戻ろう。で、にこちゃんが困ってることっていうのは?」
どこから話したら良いのだろうと槐が暫し悩んでいるうちに注文していたランチセットがやって来て、二人の前にオムライスに具沢山のコンソメスープ、サラダが配膳される。セットのデザートは食後にやって来るので、今は未だ姿を見せない。空腹の梓が出来立てのオムライスをスプーンで掬って頬張ると、槐はぽつぽつと、にこの置かれている状況について語っていく。――にこが知らないうちに借金の連帯保証人にされていて、夜逃げしてしまった母親の代わりに失業中にもかかわらず借金を支払ってしまったこと。漸く再就職をして、新しい職場にも慣れてきた頃に行方を晦ませていた母親がひょっこりと現れて、悪びれることもなく彼女に金をせびってきたこと、などを。食事をしながら耳を傾けていた梓の顔色が次第に悪くなっていき、遂には表情筋を引き攣らせて「それはねえわ」と呟いて、スプーンを動かしていた手を止めてしまった。
「にこちゃんがお母さんに振り回され続けて、悲しい、辛い思いを沢山してきたことを知っているから、僕もついカッとなって百万円あげるから、にこちゃんに二度と近づかないでって啖呵を切ってしまったのだけれど……冷静になって考えてみると、それでは今までの繰り返しになってしまうのではないかなって、気が付いたんだ。……にこちゃんにはこれからのことを一緒に考えていこうって格好つけて言ってしまったくせに、良い考えが何一つとして浮かんでこなくて……」
「それで、俺に頼ることを思いついたと」
「うん。父さんは忙しいし、母さんはお嬢様育ちで一般社会の常識には詳しくないだろうから、消去法で梓くんに」
「母さんのことを世間知らずと言う前に、お前ももう少し社会勉強をしておこうね?此処が会社で、相手が上司や同僚だとしたら、今みたいな失礼な発言が大事に発展して、左遷や自主退職に繋がるんだぞ。お前もそろそろ就職活動を始めていくんだろ?槐は親のコネで就職をしたくないって言ってたって、母さんに聞いた。それなら、発言には注意しろ。ちょっとした油断や驕りや甘えが命取りになることもある」
「……はい、肝に銘じます」
兄としてではなく、社会人の先輩としての顔で槐に諫言を呈すると、梓は一時中断してしまった食事を再開する。真面目な表情をした兄に久しぶりに叱られた弟は落ち込みながら、少しばかり冷えてきたコンソメスープを口にする。そうしてお互いに黙して食事をしていると、オムライスを綺麗に平らげた梓が不意に口を開く。
「俺が他人だから言える台詞だけどな。娘を……子供を利用することしか考えていない親なんて、さっさと絶縁した方が良い。俺だったら、迷いなくそうする。……だけど、にこちゃんはそうじゃないんだよな。どんなに辛い思いをしたって、耐えて、そうしてきて……」
「母親と絶縁したら楽になれるのではないかって、悩んではいるんだ。だけど、母親と縁を切ったら天涯孤独になる。それが怖いみたいで。離婚した父親は養育費払ってくれていたけれど、ただ、それだけ。今はもう新しい家庭を守ることしか考えていないみたいだから、最初から何も期待していないって」
せめて父親がにこの味方になってくれていたのであれば、にこが置かれていた状況は変わり、彼女は現在とは全く別の人生を歩んでいたのかもしれない。そうなっていたら幸福だったのか、より一層不幸だったのかは分からないが、槐はそう思ってしまうことがあると呟く。
「俺たちの親は、父さんは仕事が忙しくて家で顔を合わせる機会が多いとは言えなかったけど、学生だった俺たちの長期休暇に合わせて必ず時間を作って、家族の相手をしてくれていたな。母さんも実家の手伝いとか、父さんの仕事の付き合いとか、趣味のこととかで忙しくて、本人が苦手だということもあって家事は家政婦さん任せだったから、俺たちにはお袋の味といえるのは家政婦さんの味だけど、さ。それでも両親は目一杯の愛情を俺たちに注いでくれてたなって、今は思う」
「……うん、僕もそう思う。小言を言ったって、僕らの意思は尊重してくれていたから、やりたいことを反対されたことは余程向いていない限りは反対されなかった。やってはいけないことをしたらちゃんと叱ってくれて、何かを頑張ったら褒めてくれて、両親は僕らに向き合ってくれていたんだなって……思えるようになってきた」
「そうだな。だから多少の不満はあったって、親と絶縁したいなんて思うことはない。だからきっと俺や槐には、にこちゃんの気持ちを完璧に理解することは出来ないだろうな」
「それでも、僕はにこちゃんの力になりたい。失敗ばかりでも、何もかも上手くいかなくても、一緒に考えて、反省したりして、一緒に頑張っていきたい」
僕はにこちゃんを見捨てることはしない人間になりたいのだと、槐は真っ直ぐに梓を見つめる。主張をはっきりとすることが少ない弟がこんなにも力強く語っている。にこと関わったことで槐が成長したのだと実感した梓は、遭えて再び諫言を呈する。
「随分とやる気になってるのは良いが、ちゃんと責任を持つんだぞ?或る日突然にもう飽きたので止めます、後は自分でやってくださいって言って逃げるのは無しだぞ?」
「……難しいことだけど、やり遂げるよ。やっと、にこちゃんに頼ってもらえるようになったんだ。期待に応えたい」
梓にとって、年の離れた弟の槐は、何かあればすぐに泣いてしまう可愛い子供、であった。成長してからも、どこか考えが甘っちょろく、世間擦れしていないが故の失言が気になる、成人しているお子ちゃまに変わっただけ――だったのだが。久しぶりに会った槐は、梓が思っているよりは成長しているように見えた。弟の急激な変化に内心で驚く梓だが、息子の成長を喜ぶ父親のような感動を覚えもする。
「正直に言って、俺は家庭内の問題の解決方法には詳しくない。それでもお前に助言をするのであれば、にこちゃんが抱えている問題はお前たち二人だけで解決しようとしない方が良いと思う。そうだな……裁判沙汰にするつもりがなくても、弁護士に相談してみるのはどうだ?どうしても出費があるが、何かあった時にどう動いたら良いのかを教えてもらえるのが利点だな。弁護士に間に入ってもらった方が早く済む手続きもあったりするだろうし。大学時代の知人に弁護士がいるんだけどな、紹介するか?」
「……弁護士に相談するかどうかは、にこちゃんと話し合って決めるよ。二人で頑張っていこうって決めたから、僕の一存で決定するのはいけないと思うんだ」
「うん、それが良い。ちゃんと相談して、弁護士を必要とすると決めたら、また俺に連絡を寄越してくれ」
「分かりました。相談にのってくれて有難う、梓くん」
「可愛い弟と、将来義妹になってくれるかもしれないにこちゃんのためだ。兄ちゃんは一肌脱ぎますよ」
「……僕とにこちゃんが結婚するだろうって、断定はしないんだ?」
梓が何気なく放った言葉に引っかかった槐が目を細める。槐の恋人の正体はにこだと断定していたのに、二人は将来添い遂げるだろうと断定していない。まさか家柄が釣り合わないので結婚には反対であるとでも言うのではないか、と、槐は思わず勘繰る。
「あらやだ、槐くん、お目々が怖いわよ。ん~、全くもって根拠はないんだが、うちの弟はにこちゃんの好みではないような気が昔からしていてだな……」
梓は槐ほどにこと親交があった訳ではないので、実際のところは分からないが、と付け加える。
「俺が知ってるにこちゃんは生真面目な女の子、だな。将来は普通のサラリーマンと職場結婚するか、若しくは独身キャリアウーマンを貫きそうだなって思って」
食後にやってきたデザートのプリンを食べながら、つらつらと明後日の方向を見つめて話す梓は、不意にどんよりとした空気を感じ、視線を前方へと戻す。今にも泣き出しそうな顔をした槐が俯いているので、梓はぎょっとして、手にしていたスプーンを落としそうになった。
「にこちゃんと時々会うだけだった梓くんでさえ、そう思うんだね。父親が企業の社長をしているといっても、僕は次男で、長男の梓くんが会社を継ぐのは決まっているから……後継者にはなり得ないし……折角のコネ入社をするつもりはなくて、別の企業に就職をするか、若しくはフリーターになるのか、はたまた無職で親の脛齧りになるのか……未来は分からないよね。気楽なお坊ちゃま生活をしていられるのも、あと一年もない期間だけ……」
虚ろな目をした槐がぼそぼそと呟く。滅多に見ることのない弟の酷く落ち込んだ姿に、兄は憐れみを覚える――ことはなく、何だか面白そうな話が聞けるかもしれない。そんな期待を抱いた梓は、大きめに掬ったプリンを頬張る。
「お前、にこちゃんに何か言われたのか?未だ少し時間がある。兄ちゃんに言ってみなさい、おもし……っほんっ!悩み事は口に出してみるだけで気が楽になったりするんだぞ?」
俯いている槐には、にやにやと楽しそうに目を細めている兄の顔が見えていない。兄の思惑に全く気が付いていない槐は素直に兄の言葉を受け入れる。
「……僕はにこちゃんの好みのタイプじゃないって、はっきりと言われたんだ。裕福な家に生まれて育ってきた、苦労知らずのお坊ちゃんなのが気に入らないとか、家柄も良ければ容姿にも恵まれているところも気に入らないとか、将来に何の心配も不安も抱かずに生きていけることが約束されている人生を送っていることが気に入らないとか……その他諸々……」
「う~ん、想像していたよりもきつめの言葉を放たれていたことと、俺が知ってるにこちゃんとのギャップに兄ちゃんは吃驚しています。不思議だなぁ。大抵の女の子は食いつきそうだけどなぁ、優良物件且つ騙しやすそうな感じのするお前に。にこちゃんは夢は見るけど、現実も見ていそうな子だろうからなぁ~、槐に食いついてはくれなかったかぁ~」
「自分を必要としてくれる人に弱いって、にこちゃんは言っていたけれど、それ以外だと、中肉中背の平均値の容姿の真面目に働くサラリーマンが好みなんだって。酔っぱらったにこちゃんが教えてくれたよ。にこちゃん、僕よりも梓くんの方が好きだしね……平凡な容姿をしているのが良いのかな、羨ましい……」
「さらりと貶され、嫉妬もされる。複雑な気分だな。まあ、にこちゃんのタイプかどうかはおいといて、俺が好きっていうのは近所の年上の兄ちゃんへの憧れみたいなもんだろ。槐がにこちゃんのタイプじゃないにしても、違うことでアピールしていったら良いんじゃないか?」
「顔が母さんじゃなくて、父さんに似ていたら良かったのかな……」
すっかり落ち込みモードに入ってしまった弟に、梓はやれやれとばかりに息を吐く。
(……「お父様譲りの優秀さと、お母様譲りの器量良しを兼ね備えていらっしゃったら宜しかったのにねえ」やら「梓君と槐君は本当に兄弟なの?全然似ていないわねぇ」やら、有閑マダムたちに言われるのも中々辛いんだぞ)
二連木家の御長男は見た目が平凡なのね。眉目秀麗な弟さんの方が御利口に見えるわね。――表面上はお上品な言葉遣いをされる御婦人方による己への批評は耳に入ると気が滅入るのだ、と、思い返して、梓はげんなりする。回避することのできない親族間の集まりがある度に暇潰しとして話題に出されるので慣れてはいるのだが、それなりに不快だ。因みに両親は梓の容姿に関して、そのようなことを言ったことはない。貴方方は軽口のつもりでも、受け取る此方は悪口にしか聞こえませんよ、と、口に出してみても相手方には梓の気持ちが伝わらないのか、未だに同じことを繰り返される。容易に縁を絶ち難い親族の集まりとは、梓にとって中々に嫌な恒例行事という認識になってしまっている。
――いけない。つい、槐が放つ負の気に引き摺られて、嫌なことを思い出してしまった。
梓はふと腕時計に目をやり、時間を確認する。
「じゃあ、そろそろ会社に戻るわ」
机の上に置かれた伝票に手を伸ばそうとした梓を、槐がやんわりと制止する。
「僕が梓くんを呼び出したんだから、ここの会計は僕が済ませるよ。それくらいさせて」
「やだ……弟が男前な行動をとれるまでに成長してる……兄、感動。それじゃあ折角だから、お言葉に甘えるよ」
「うん。忙しいのに時間を割いてくれて有難う、梓くん」
梓はすっと席を立ち、周囲の邪魔にならないようにと確認しながら、椅子の背にかけていたスーツの上着に腕を通す。そして、ひらひらと手を振り、店を出て、会社へと戻っていった。梓を見送った槐は一息吐いて、相談事に夢中になるばかり手をつけることを忘れていた食事を再開する。口にしたオムライスはすっかり冷えてしまっていたが、それでも美味しい。
(……梓くんは本当に頼りになる。僕とは、大違いだ)
梓は父親の後継者となるべくして育ったからか、周囲をよく見ていて、槐が気付けない事柄にもよく気が付く。例えば、にこが胸の内を明かそうとしなくても、彼女の雰囲気や普段の言動で察し、彼女が「苦しい、助けて」という前に手を差し伸べるのだろう。にこには梓がそんな存在であると思えて、憧れたのかもしれないと槐は想像する。他者の心情を察するのが決して得意ではない槐は、梓が羨ましい。他者から優秀だと評され、その通りである梓が羨ましい。にこの憧れを得ることが出来ている梓が妬ましい。それでも、槐は梓が好きで、何だかんだと頼りにしてしまう。幼い頃からずっとそうで、これからも変わることはないかもしれない。
ランチタイムで賑わっている店内で、黙々と食事をしていた槐は最後にブラックコーヒーを飲み干す。砂糖を入れていないので苦いのは当たり前なのだが、それよりも胸の内に渦巻く複雑な感情の方が渋く、苦々しく感じられて、思わず笑ってしまった。
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