第20話 当たり前が当たり前ではなかったもので
土曜日の夕方。自宅であるオンボロアパートの一室から出たにこは、何気なく空を仰いだ。十月も半ばに入ると日が暮れるのも早くなり、夕方と呼んでも良い時間帯でも夜の色が濃い。槐の自宅に辿り着くまでには、太陽は地平線の彼方へと姿を消していることだろう。
(然し、何でまた今日は時間を夜に指定してきたんだろ、あのお坊ちゃん?)
近頃のにこの休日の過ごし方といえば、朝も早くから槐の自宅へと向かっているか、待ち合わせをしてから何処かへと出かけたりすることが多くなってきた。ともすれば、今日も朝早くから家を留守にしているはずなのだが、槐が「夕方の六時に自宅へとやって来て欲しい」と言ってきたので、彼女は今まで新たな資格の勉強に励んでいたという次第だ。
(どうして一週間も前に態々こんな約束を取り付けてきたんだか。時間変えるくらいだったら、前日に言ってきたって良いくらいなのに。それくらいで怒る私ではない……多分。う~ん、金持ちのお坊ちゃまが考えることなんて、卑しい貧乏人の私めには理解出来かねますわ~……)
青みを帯びて紫色へと変化してきた夕空から視線を町並みへと戻して、深めの溜め息を一つ。
――ちょっと、あんた!溜め息なんか吐かないでよ!溜め息を吐くと幸せが逃げていくのよ!?私の幸せが逃げていっちゃったらどうしてくれるのよ!?
突然に過ぎた日の光景が鮮明に脳裏に映し出されてしまい、にこは反射的に渋い顔を作る。
(逃げ出すほどの幸せなんてないし、なかったし、これからもきっとないね。期待なんてしてないんだよ、現実逃避ばかりが上手なオバサンと違ってね……っ)
存在を忘れていた実母の顔を思い出してしまうなんて、最悪だ。おみくじで大凶を三回連続で引いてしまった時のような複雑な気分だ。これから何か悪いことが訪れる前触れではないかと疑ったにこは、最程よりも深い溜め息を吐いた。
**********
槐の自宅に到着するまでに夕日は沈んでしまったが、余計なことを思い出してしまったことで下降してしまったにこの気分はなかなか上昇してくれなかった。通い慣れてしまった高級マンションの一室のインターフォンを鳴らすと、あまり間を置かずに扉が開かれたので、にこは綺麗に磨かれているドアノブに向けていた視線を上げる。
「いらっしゃい、にこさん。どうぞ、中に入って」
緊張しているのか、家主――槐の声が少々上擦っていて、笑顔も心なしか引き攣っている。そんな彼に招き入れられ、リビングへと通されたにこは其処を目にした途端に唖然とした。
「……何、これ?」
穏やかな雰囲気を醸し出し、住人に安らぎを提供してくれるはずのリビングがどういう訳かホームパーティー然として飾り付けられている。夢でも見ているのだろうかとばかりに視線を彷徨わせていると、「媚山にこ様、御誕生日おめでとう御座います」と秀麗な文字で縦書きされた習字用紙――書初めに用いられるサイズのもの――が壁に貼り付けられているのが目に飛び込んできたので、彼女は思わず体を強張らせた。
「にこさん、御誕生日おめでとう!……二日ほど早いのだけれど」
「……はあ、どうも。あんた、毛筆の腕があるんだね……なかなか達筆……」
いつの間にやら手にしていたクラッカーを景気良く鳴らして、槐は満面の笑みで祝いの言葉をにこに投げかける。とりあえず礼の言葉は口に出しておいた方が良いだろうと判断したにこだが、どうしてか素直に喜びべない。
(あー、これは若しかしなくても……誕生会?)
白色のテーブルクロスが敷かれているダイニングテーブルには、以前に見たワインクーラーが置かれ、この後の食事に使うカトラリーが並べられている。そして飾り付けられている室内をもう一度見回して、にこは槐が主催する誕生会に招かれたのだと理解した。
「席に着いて待っていてね、にこさん」
「……は~い」
足を捻挫して訳でも骨折した訳でもないのにぎこちなく歩いているにこが食卓の席に着くのを確認しながら、槐は床に落ちたクラッカーの残骸を手早く回収すると、キッチンへと向かう。暫くして戻ってきた彼の手には料理を乗せたお盆があった。
食卓に並べられたのは、いやに焦げた形の悪いハンバーグ、乱切りというよりはぶつ切りになってしまっている野菜たっぷりのサラダ、そして薄切りになるはずだった玉葱の入ったスープなどだ。それらを目にしたにこは深く息を吐いて、徐に虚空を仰ぐ。
(二十四歳になる成人女性ではなくて、小学生……それも低学年のお子ちゃまが喜びそうな献立だね。見た目の悪さはさて置いて)
成人している身であるので、時と場合と場所については考えることもある。戦々恐々としている内面を槐に悟らせまいと努めるが、口元が引き攣ってしまう。そうしてにこが並べられた料理を凝視していると、更なる驚きがやって来た。
(ないわー……これは……)
音符が取っ散らかっている斬新なバースデイソングを歌っている槐の手には、大量のロウソク――恐らくは二十四本――が立てられ、炎上しているように見受けられるバースデイケーキがある。そのどちらも生まれて初めて目にした代物で、衝撃が強すぎたのか、にこは気が遠くなりそうになる。それを止めるように、歌を歌い終えた槐が「ロウソクの火を吹き消して!」と催促してきたので、にこは大きく息を吸い込むと急いで火を吹き消した。一目見て高価な代物だと分かるデコレーションケーキの上に大量の蝋が垂れてしまうことを恐れたからだ。
「改めまして。御誕生日おめでとう、にこさん。……あの、二日早いのだけれど」
「誕生日当日に祝われないと拗ねる人間じゃねーから問題ない。そんなことより……あんた、歌が下手だったんだね。そっちに驚いた」
「そ、そう……。御免ね、これでも頑張って歌ったんだけど……」
抑揚のない、お経のような歌を歌ったにこに槐を貶す資格はないのでは、と、頭の片隅で思いはしたが、槐はつい謝ってしまう。言われてみれば音楽の成績は他の教科より芳しくなかったなあという覚えもあるので。音楽のテストの際には、槐がその歌唱力を疲労すると教科担当の教師やクラスメイトの一部が苦い顔をしていたものだ。
「それから、ケーキにロウソク立てすぎでしょうが。見た目が台無しだっつーの」
「年齢の数だけロウソクを立てた方が良いかと思って……」
「……あんたの誕生日の時は数字の形をしたロウソク使ってたでしょうが」
「……あっ!そ、そうだったね、物覚えが悪くて……御免ね」
「それ以上謝らないでくれる?空気が重くなるから」
「うん、ご……、うん、食事にしようか」
また失敗してしまった、と落ち込む槐をから意識を逸らすと、にこは卓上のナイフとフォーク、箸に目を向け、迷うことなく箸を手にして、先ずはハンバーグを口にした。
「……美味しい?」
「……食べられないことはない」
「そう、良かった……」
槐の質問に対して、「美味しい」とも「不味い」とも答えていないのだが、槐はほっとしたように息を吐いた。黙々と端を進めていくにこを見つめ、彼もハンバーグを口にして――焼き具合を失敗したことを知り、悲しげに眉を下げた。
(明らかに美味しくないのに、にこちゃんは食べてくれてる。……多分、残すのが勿体無いからなんだろうな、にこちゃんのことだから。でも、申し訳ないけれど、嬉しい。どうしようもないなあ、僕は……。にこちゃんがちゃんと喜んでくれるくらいの料理が作れるようになろう)
外側は黒く焦げ、中身は生焼け気味のハンバーグだが、幸いなことにかかっているソースが美味なので、にこは何とかそれを食道に押し込んでいける。美味しいと感じるということは、ソースは市販のものを使用しているのではないかと彼女は推測し、味が安定している市販のソースに感謝し、兎に角ハンバーグを胃の中へと詰め込んでいく。
そうして一つ目の難行をクリアしたにこは、次の難行にとりかかろうとする。
「あのさぁ、これってどう見ても手料理だよね。こそこそと練習でもしてたの?」
「え?どうして分かるの?」
「あんたの指に絆創膏があるし、あらゆる具材の大きさがバラバラだし、ハンバーグは焦げてて生焼けだし……嫌でも分かるわ。……あのおにぎりの頃よりは上達してるとは思うけど、未だ下手の領域だね」
槐に上からとやかく言えるほどの料理の腕を有している訳ではないが、と、内心で突っ込みを入れるのをにこは忘れない。然し、褒めているというよりは貶しているようにしか聞こえないにこの物言いを槐はそれほど気にしていないようだったので、彼女は気にしないことにした。
早く槐の手料理を片付けて、すっかり見た目が悪くなってしまったバースデイケーキを食べて口直ししたいところだが、もう一つ疑問があるので、忙しなく動かしている手と顎の動きを止めて、にこは口の中の物を飲み込んだ。
「あんた、自分の誕生日の時は豪華なホテルにお泊りだったのに、何で私の時はこんな……ちゃちなホームパーティみたいなやつなの?何?てめえなんかにはこれがお似合いだよってか?それとも経費節約?」
「えっ!?そ、そんなことはないよ!にこさんはああいった場所で食事をするのはあまり好きではないと言ってたし、テーマパークも好きではないみたいだし、にこさんに尋ねてみても……非常に現実的な回答しか貰えなくて……でも、お祝いしてあげたくて……」
あの日、槐が落とした免許証を見て彼の誕生日を知ったにこがバースデイケーキを買って、歌を歌って祝ってくれたことがとても嬉しかったことを思い出す。自分も同じように、にこの誕生日を祝ってあげたらどうだろうという考えに至り、やがては想像が膨らんで手料理も披露しようとなったのだ。デコレーションケーキは初心者には難易度が高すぎるので、そればかりは洋菓子店の力を借りた。と、槐は自白する。
「いや……初心者には手料理で他人を喜ばせようとするのも難易度が高いでしょ。あー……部屋の飾りつけも頑張ったみたいだし、他人の誕生日を祝おうとする気持ちがちゃんとあるのは良いことなんじゃないの?……小学生の誕生日パーティかよって思ったけど」
「僕の家では家族の誰かの誕生日は毎年こんな風に祝っていたから、これが一般的なのかなと思っていたんだ。あ、料理は母さんの手料理ではなくて、家政婦さんの手料理だったのだけれど」
「そうだろうね、あんたのお母さん……
若しかしたら、両親が離婚する前にやってくれたことがあるかもしれないが、生憎とにこは記憶していない。彼女の母親は自分の誕生日にはとことん拘ったが、娘の誕生日の存在は忘れ去っていた。彼女の誕生日を祝ってくれたのは、住む世界が違う年下の幼馴染くらいだ。
にこは一般的には当たり前のようにして貰えることを殆どして貰えずに育ってきたので、槐が取る行動には驚かされていたものだと、ぼんやりとした記憶が蘇る。
「あのね、ちゃんとプレゼントも用意しているんだ」
「札束?」
「……大変申し訳ないのだけれど、現金ではないです」
現金ではないのならば何だと言うのか、とばかりににこが不信感丸出しの目で見つめる。寸前まで内緒にしていたかったのだが、槐はにこの迫力に気圧されて、プレゼントの正体を吐いた。
「……生活必需品ね。確かにこれは貰って嬉しい物ではある」
にこが普段使っているものより高価なトイレットペーパー数袋にお米5キロ、食器・洗濯・掃除用洗剤各種、柔軟剤に漂白剤、歯ブラシ数本に歯磨き粉などが誕生日プレゼントとして彼女に贈られるようだ。
「金持ちの独身お坊ちゃまがよくこれだけの物を揃えられたね。普通はここまで考えが及ばないんじゃない?」
「梓くんの奥さんに色々と教えて貰ったんだ。綏乃さんは家政婦さんを雇っていないから、家事のことをよく知っているかと思って。母さんに訊いても良かったのだけれど、母さんは家事を全て家政婦さんに任せているから分からないだろうし」
「ふーん」
「……気に入らなかった?」
「確かにこれは貰って嬉しい物ではある、ってさっき言いましたけど」
大喜びしてくれるとは思っていないが、はにかんではくれるかと槐は期待していたわけだが、目の前のにこの反応が薄いので不安になった彼はしょんぼりとして俯いてしまった。
「……こんな風に誕生日を祝って貰ったことがないから、どう反応して良いのか分からないだけだよ、馬鹿」
本当に面倒臭い奴!と悪態を吐いて席を立ち、ずかずかと歩み寄るなり槐の美しい顔をがしっと捕まえて、思い切り自分の方に引き寄せて、にこは彼にキスをした。
「恰好悪いところばかりだけど、まあ、悪くはないよ。祝ってくれて有難う、槐」
「……っ、ど、どういたしまして……っ」
何気なく礼を言ったつもりなのだが、槐の反応がおかしいので、にこは訝る。慌てて目を逸らした槐は口元を手で押さえて、耳まで真っ赤になって――何故か食卓に突っ伏してしまったのだ。
槐が動揺するのも無理はない。普段は眉根を寄せていることが多いにこが、悪意を感じさせず、ふんわりと笑っていたのだから。
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