第19話 或る程度は心穏やかに暮らせるっていうのは良いことですね
定時に帰宅することが出来たにこは、玄関で靴を脱いで部屋に上がるなり雑に荷物を放り投げて、経年劣化で色褪せた畳の上に仰向けに寝転がり、天井を見上げる。アパートの外にある街灯の明かりがカーテン越しに届いてはくるが、電気を点けていない部屋の中は当然のように暗い。その中で徐に目を閉じた彼女は、小さく息を吐いた。
再就職先である清掃会社に勤めるようになって、一ヶ月ほどが経過した。新しい職場にも少しは慣れてきたような気がしてきて、にこはほっとしている。日々の仕事で疲れてはいるが、以前のパート先に勤めていた頃のような疲れではないことにも安堵して。
(マダム小坂と親馬鹿松田級の迷惑おばさんが棲息してなくて良かったわー。精神的な疲れがそれほどないって素敵ー)
現在の勤め先では通常の業務がそれなりに忙しいからなのか、正社員、パートタイマー問わず、自分に与えられている仕事に励んでいる人が多い。そういったことが、他人の私生活にあれこれと口を出す暇人が育ち難い環境となっているのだろうかとにこは勝手に想像している。女性が多い職場ではあるので、休憩時間ともなれば自然と仲良しグループが集まって他愛のないお喋りに華を咲かせているが、陰湿な印象はあまり感じられなかった。それでも矢張り”お局様”と呼ばれるに相応しい人物はいて、新参者であるにこも通過儀礼というものを経験したが、仕事をこなしていけるようになるにつれ、”お局様”の個人的な教育指導もなくなっていった。
今のところは大きな問題もなく就労出来ているにこ。悩みの数は減ったのだが、会社勤めから解放されると別のことに思考を支配され、彼女は溜め息を吐く。社則に従い、副業とも言える”恋人業”の月給を受け取ることを止めたのだが――槐は交通費と諸経費の支給を止めようとしない。そのことに彼女は喜びはしたものの、何となく複雑な心境に陥っているのだ。
(くれるって言うんだから有難く貰っておけば良いのに、何で悩んでんだよ……。自分で自分が分かんねーわ、マジで……)
自分は金の亡者である、という自覚がにこにはある。それを治そうとはあまり思っていないのだが、金銭感覚が死んでいる母親のようになるまいとして、母親を反面教師としてきたことで得た生真面目さが欲望を押さえ込もうとしているのか。はたまた彼の日に置いてきた筈の良心が知らないうちに彼女の中に戻ってきていて、呵責を生み出してしまっているのか。
(……今日もまたお盛んだね、隣のラクダは)
隣室から聞こえてくる騒音と、住人である男子大学生が行っている激しいピストン運動により生まれた振動に刺激されて、にこは思考の世界から現実へと強制的に引き戻されてしまう。
「腹減った。カップ麺食うか……」
答えを探し求めたところで何かを得られるような訳でもないような気がしてきたので、にこは暗中模索をすることをあっさりと放棄した。
**********
地道な活動が報われて再就職が決まってからというものの、にこの人格が変わってきているように槐は感じている。その要員の一つとして、再就職先では人間関係によるトラブルが発生していないことがあるのではないだろうかと彼は考えている。仕事でうっかり些細なミスをしてしまって上司や先輩に小言を頂いてしまったという軽い愚痴を聞くことがあるが、猜疑心の強さから滲み出てしまっている刺々しさが彼女の内から薄らいでいっているのだ。
――どうやら、にこの精神面が安定してきているようだ。
と、確信した槐は物は試しにと、にこに”御願い”をしてみた。「特に用事がない限りは、君の休日に合わせて二人で逢いたい」「デートがしたい」といった旨を告げたのだ。それは”命令”であると訂正され、且つ苦虫を噛み潰したかのような表情をした上で彼女は了承してくれるのだろうと槐は予測していたのだが――意外にも予測は外れた。槐の自宅のソファに腰掛けて検定の教材に目を通しているにこは視線を動かさず、眉間に皺を寄せることもなく「はいはい」とだけ答えたのだ。そんな反応が返ってくるとは思ってもいなかった槐は、不安になる。彼女の隣に腰を下ろした槐が恐る恐る「あの、それは了承して頂けたということでしょうか?」と尋ねたらば、「そのつもりで返事をしたんだけど。何?不満なの?自分から言ってきておいて?」と、彼女は顔を動かさずに彼をぎろりと睨んだ。「不満があるとか滅相もない」と慌てて否定をした彼は自分の不必要な発言で損ねてしまった彼女の機嫌を取るべく、冷蔵庫の中にしまっているフルーツタルトを駆け足気味で取りにいく。
「食べ物でも与えておけば機嫌が直ると思ってんでしょ、あんた?」
にこは不平を口に出したが、フルーツタルトを平らげる頃には機嫌が直っていた。
こうして”御願い”を一つ叶えることが出来た槐は調子付き、「キスがしたい」「抱きしめたい」「手を繋いで歩きたい」と、にこに同意を求めるようになる。
「何で一々そんなことの許可を取るの?やりたいようにやれば良いじゃない。初めにそう言ったと思うんですけどー?……あー、面倒臭い金持ちのお坊ちゃま……」
槐が些細なことにも彼女の許可を求めてしまうのは、彼女に拒絶をされていないことを確かめる為。そんな本音を隠して、槐は彼女を抱きしめて、そっと唇を重ねる。槐が触れるたびに、彼女の体が強張らなくなったことに小さな喜びを感じながら。
にこが理想としているのはがっしりとした体格をしていて、堂々として雄々しい性格をしている男性らしい。残念ながら、槐はそれに該当しない。そのことを知った彼は一念発起して、毎日欠かさずに筋力トレーニングをしていた。その効果は未だに現れてはくれないが彼は諦めることはしていない。更にこの頃は早朝か夕方のジョギングも追加された。その御蔭か筋肉は付いてはいないが、体力は付いてきたと彼は実感している。
今日はにこが自宅に泊まっていってくれる日だ。彼女は今、台所で夕食を作ってくれている。その手伝いをすると彼は申し出たのだが、「面倒なことになるから手伝わなくて良い」と断られてしまった。家事は全て女がやるものだ、という考えを固持して手伝おうともしない男よりは、手伝おうという気があり、且つ実行に移そうとする槐は遥かにマシだとは思うのだが、生粋のお坊ちゃま育ちの槐に手伝われると余計な手間が増えたり、危なっかしい手付きにはらはらして冷や汗が出たりするので通常の三倍は疲れると、彼女は言った。そこまで言われてしまった槐は落ち込む。にこが臨時の家政婦を辞めてから出来るだけ自炊を続けているが、槐の家事の腕は掃除と洗濯以外は上がる気配を見せていないのだ。
「……近所で軽く走ってきます」
「飯が出来る頃には帰って来いよ」
沈んだ気分を払拭しようとして、槐はジョギングをしに外に出た。
(来月には、にこちゃんの誕生日が来る。どんな贈り物をしたら喜んでくれるかな……)
息を弾ませて、お決まりのコースを走っている槐はにこが喜ぶ姿を想像してみる。
落ち着いた雰囲気のあるレストランで食事をしようか。そう誘ってみたとすると、彼女は「気取った店に入ると気疲れするから近くのファミリーレストランで良い」と答えてくれそうだ。大学の長い夏休みの間に中学生向けの進学塾でアルバイトをして貯めていたお金でアクセサリーを贈るのはどうだろうか。「ちっ、純金じゃねえのかよ。金の買取に持っていけねーし」と言われてしまいそうだと想像するだけで気落ちしてくる。
(にこちゃんの返事のパターンが段々読めてきたような……)
それでもどうしたら良いのか考えるあたり、槐はにこに関することだけはあまり学習能力がないのかもしれない。
――やはり彼女に納得して貰えそうな代物は、生活必需品か現金か。いや、呆れられるのを承知で、彼女に必要としている物を尋ねた方が建設的か、と、槐の自問自答は漸く終わりを迎える。
そうしているうちにジョギング中の小休憩の場所としている神社に辿り着いたので、槐は乱れた呼吸を整える為に暫く境内を歩き回る。神主が常駐していない神社は彼の他に人の気配は無く、時折木の葉擦れの音が耳に入ってくるくらいで、静かだ。
早鐘を打っていた鼓動が静まり、槐は自然と社殿に目を向ける。人気のない神社だが、地域の人々が定期的に手入れをしているからか、社殿は古びていても綺麗に保たれている印象を受けた。
(……きちんとお参りをしていこうかな)
休憩場所として使用させて頂いているので、普段も一礼していくのだが、この日はちゃんと拝礼していかなくてはという気になったらしい。此処には手水舎が備え付けられていないので手を清めるのは省略させて頂き、作法にのっとって拝礼をする。
――にこに訪れている平穏な時間が長続きするように。もう少しだけ、にこが自分に甘えてくれるように。顔の造形はもう仕方がないので、彼女が理想としている男性の体格に近づけるように。
初めのもの以外は神様の力に頼らなくても達成出来そうな祈りを捧げた槐は神妙な面持ちで踵を返し、にこが待っている自宅へと走って戻っていった。
槐が自宅の玄関の扉を開けて靴を脱いでいると、キッチンから顔を覗かせたにこが眉を顰めて、声をかけてきた。
「あんた、軽くジョギングしてくるだけって言ってたよね?帰って来るの遅くない?まさか近所で迷子になってたんじゃないでしょうね?」
「いや、流石に近所で迷子にはならないよ……」
槐の中では短く感じられていた祈りの時間は、実際にはなかなか長かったらしい。お盆の上に出来上がった料理を載せてキッチンから出てきたにこに駆け寄り、「僕が運ぶよ」と申し出て手を伸ばしたが、彼女は彼にお盆を渡そうとしない。
「汗臭いから、さっさとシャワーを浴びて来い。飯はそれからだよ、お坊ちゃま」
「……はい」
にこに凄まれた槐は気迫負けし、すごすごとバスルームに向かい、シャワーを浴びて部屋着に着替える。濡れた髪をタオルで乾かしながらリビングの方へ歩いていくと、ダイニングテーブルの上に夕食を並べているにこと目が合った。
「髪、ちゃんと乾かしてるんでしょうね?水が床に落ちると拭くのが面倒なんだけど」
「う、うん、乾いてはいるよ」
槐から強引にタオルと奪うなり、にこは遠慮なく彼の髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜて、乾き具合を確かめる。水は滴り落ちてはいないが、半乾き状態だ。
(……こいつ、さらさらの直毛かよ。男のくせに、男のくせに……っ)
毛量が多い上に剛毛で癖っ毛なにこは、サラサラストレートヘアーへの羨望のあまり、八つ当たり上等とばかりに乱暴に槐の髪をタオルで乾かしていく。
(……にこちゃんが鬼のような形相で髪を乾かしてくれている。気付かないうちに、また機嫌を損ねてしまったのかな……?)
腹を立てながらでも、彼女に世話を焼いて貰えるのが嬉しい。槐はその気持ちをうっかり表情に出してしまう。それを目にした彼女の神経を逆撫でしてしまい、槐は両の耳を思い切り引っ張られる羽目になった。
「い、いた、いたたっ。あ、あのね、にこさん!何か欲しいものは、ある、かな?」
「は?何でまた急にそんなこと言ってんの?」
突拍子も無い質問に驚いて、にこの意識が槐へのお仕置きから別のことへと方向を変える。彼女の手が離れ、じんじんと痛む耳を擦りながら、槐は言葉を続けた。
「来月には、にこさんの誕生日が来るでしょう?にこさんに贈り物をしたいのだけれど、いくら考えても思いつかなくて。それでいっそのこと、にこさん自身に尋ねてみようかと思って」
「現金」
「……え?」
「だから、現金。私が欲しいものなんて、現金以外にあると思ってんの?あんたは私のこと金の亡者だと認識してるんじゃないの?」
現金の額は、現在の勤め先の月給くらいから受け付けています。と告げると、水分を多く含んだタオルと槐に突っ返し、にこはダイニングテーブルの席に着く。
(……ぶれないね、にこちゃんは)
彼女が求めるものは、槐が想像していた通りのもので良かったようだが――何だか虚しい。
「早くしないと飯が冷めるよ」
がっくりと頭を垂れて突っ立ている槐に感傷に浸らせる時間を、にこは与えてくれない。俯いていた槐は小さく息をつくと、やおら顔を上げて、ダイニングテーブルの席に着いた。
「頂きます」
「はいよ」
――ここは質問に正直に答えて貰えただけで良しとしよう。その答えがあまりにも欲望に忠実なものだったとしても。
やや強引に気持ちを切り替えた槐は手を合わせてから、食事に手をつける。槐が一口目を咀嚼し、飲み込むのを確認してから、にこも食事に手を付けた。
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