第21話 忘れた頃に向こうからやって来るものですが、呼んでないんで、災いは(壱)
隣人に配慮して程々の音量に設定してある目覚まし時計が鳴り、にこの起床を促す。彼女は眉間に皺を寄せて瞼を開き、のろのろとした動きで起き上がると、覚束ない足取りでトイレへと向かう。暫くして、所用を済ませると次に洗面所へと向かい、大雑把に顔を洗う。
「う~ん……値段の高いもんには高いなりの質の良さがあるわ~……」
槐から贈られた誕生日プレゼントは、にこが手を出さない値段の日用品の山。高級なトイレットペーパーや、今顔を拭いたタオルの質感の良さに感動して、大きな欠伸を一つ。開けた口を手で覆い隠すような羞恥心がない彼女はスウェットの下に手を突っ込んで、脇腹をぼりぼりと掻きもする。例え槐が目の前にいようとも、彼女はそんなことを平気でする。
金持ちは金を持っているからこそ、質の良い物に金を支払い、良い気分を味わうのだろう。そんなことを勝手に想像して、にこは夢心地に酔いしれる。けちけちと使っていけば、当分の間はこうしていられるだろうと計算をするのも忘れない。
「あ~、そろそろ家を出ますか~」
快適な朝の一時を過ごしたにこはさっさっと着替えると足取り軽く、勤め先である清掃会社に出勤する為、家を後にした。
良い気分に浸ることが出来ているので、愛想が普段よりも三割ほど良くなっているのだろうか。愛想の無い社員であるにこに慣れてきた他の社員たちが、応対する時に一瞬びくりとする。然しそこは社会人、次の瞬間には動揺を押し隠して対応してくれる。一部のパートタイマーの小母様方に、態度の違いについて突っ込まれたりはしたが、何とか受け流した。
そうして本日の業務は滞りなく行われ、無事に就業の時刻を迎える。仕事着から普段着に着替えたにこが更衣室を出て、廊下を歩いていると後ろから声をかけられる。振り返ったにこはその人物を認めると、会釈をした。彼女を呼び止めたのは勤め先の社長である
「何か御用でしょうか?」
社長に声をかけられる、という経験をしてこなかったので、にこは動揺する。作成した書類にミスがあったのか、それとも勤務態度に問題があり、そのことを叱責しにやって来たのだろうかと良くない方向にしか物を考えられない。すると糸魚川社長は魚類を思わせるような顔をにこっと綻ばせる。
「媚山さん、今日が誕生日でしょう?御誕生日、おめでとう御座います。高価な物じゃなくて申し訳ないんだけど、これ、良ければ貰ってくれるかな?」
そう言って差し出されたのは、白いカーネーションの小さな花束だった。雇い主に対して非常に失礼なのだが、そんな気障なことをしそうにない人物がそんなことをするので、思わず噴出しそうになってしまうが、どうにかして堪えた。少々体が震えてしまっているが、幸いなことに糸魚川社長は気が付いていないようだ。
「……くださるんですか?有難う御座います、社長……」
にこが震える手――笑いを堪えている為――で花束を受け取ると、糸魚川社長ははにかんで「お疲れ様!」とだけ言い残して、やや早足で仕事場の自分のデスクへと戻っていく。
(何で社長が私の誕生日を知ってるんだ?……あ、そうか、履歴書を見ているから知っていたとしてもおかしくはない……でも何で花束くれるんだろ……?)
糸魚川社長は外見と行動が一致しない人だったのか、と、唖然としながらにこがその背を見送っていると、視界の端にお局様こと
「あら、媚山さん、今日が誕生日なの?」
これから80年代のディスコにタイムスリップでもされるのでしょうか?と、危うく突っ込みを入れてしまいたくなるような服装と化粧を決めた朝比奈女史に白い目を向けてしまいそうになるも、これも何とか堪えることが出来たのでにこはほっとする。
「え、ええ、そうなんです。……そして何故か社長に花束を頂きました」
「ああ、花束ね。社長の方針で職員の誕生日にちょっとしたプレゼントをしてくださるのよ。相手が女性だったら花束やスイーツ、男性ならビール一本といった具合。因みに私の時は赤い薔薇の花束だったわ。人によってプレゼントする物の度合いを変えているみたいね、社長は」
朝比奈女史がさり気なく、「私はあなたたちとは違うのよ」と言わんばかりの台詞をぶっこんできたので、にこは「お局様の場合は他の女性職員と差をつけないと後が面倒だということを社長が理解していてるからなんじゃないですか?」と、突っ込みを入れたいのをぐっと堪え、「へえ~、そうなんですか~。赤い薔薇の花束なんて凄いですね~」とやや棒読みの台詞を吐いて対応する。
「まあ、それでも誕生日おめでとうと言って、プレゼントをしてくれるのは嬉しいわねって、職員たちには好評なの。貴女もそうでしょう?」
「……ええ、そうですね~」
にこが適当な答えを返すと、朝比奈女史がくるりと方向転換をする。その際に濃厚な香りが漂ってきて、にこは思わず顔を顰めてしまったが、何とか彼女には見られないで済む。振り向き様に「それじゃあ、これから食事会があるので失礼するわね」と言って、ファッションモデルのようなウォーキングでもって赤色のピンヒールの靴音を高々と慣らしながら、朝比奈女史は退場していった。
(食事会っていうか合コンだろ。ていうか香水きつすぎだよ、お局様。鼻が曲がるかと思った……)
未だにその場で漂っている朝比奈女史の残り香を出来るだけ嗅がないようにと、本人が立ち去ったのを良いことに鼻を摘むにこ。
朝比奈女史本人は気が付いていないらしいが、この会社にいる女性職員の殆どには彼女が終業後に結婚活動に励んでいることを知っている。だが、そのことを本人には誰も言わないので、公然の秘密という扱いになっていた。
(お局様は今日も元気に狩りに向かわれました。成果が上がると良いですね~)
他人事だからここまで言えるんだよね、心の中で。と、自分にも突っ込みを入れて、乾いた笑いを浮かべたにこは花束の存在を思い出す。
(困ったな、花を貰ったのは良いけど……我が家には花瓶が無い。どーしたもんか……)
掃除用のバケツに花束を突っ込んでおくのは、恒例行事として行っているだけなのだとしても折角花束をくれた社長に失礼だと流石のにこも考える。職場近くの駅まで向かう道すがらに最善の方法を考え付いたので、自宅に最寄の駅に到着するとその近くにある100円均一の店に立ち寄り、手頃な大きさの花瓶を購入することが出来た。ついでにコンビニにも立ち寄り、ビールとつまみ、弁当も購入していった。
あの狭い部屋の何処に花瓶を置こうか?などと考えながら夜道を歩いているうちに、もう直ぐ自宅アパートというところまでやって来たので、彼女は視線を其方へやる。
(ん?誰だ、あれ?)
おんぼろアパートの自分の部屋の前で誰かが佇んでいるのが見えたので、にこは足を止める。アパートを照らす外灯があるものの、見えるのは足元くらいだ。夜は肌寒い時期になってきたというのに足を大きく露出させるショートパンツとヒールの高いサンダルを履いているその人物の性別が女性であることしか分からない。若しかすると、男性かもしれないが。
(……何で見知らぬ女が私の部屋の前にいるんだ?オトモダチ作りに積極的じゃなかったから、訪ねてくるほど親しい女なんて存在しないし。あー、隣の大学生の新しい彼女が部屋を間違えてまってるとか?)
ラクダ顔の隣人の部屋に明かりがついていないことを確認したにこは逡巡して、やや間を置いてから歩き出した。さっさと部屋の中に入って一杯やりたい。その気持ちが彼女の足を動かしたのだ。近づいていくにつれて、その人物の姿形が徐々に分かってくる。上半身には薄手のパーカーを着ていること。長い髪を明るく染め、パーマを緩くかけていること。それらから察するに、矢張り若い女なのか。それにしては晒している素肌に艶と張りが足りないような気もする。周囲が暗く、目に映るものの判別がし辛いのが災いしているのかもしれない。けれども彼女の観察眼はそれほど間違っていないことが直ぐに判明することになる。
態と大きく立てていた足音に漸く気が付いたのか、にこの部屋の前で佇んでいる女が振り返る。その顔を確認したにこは――凍りついた。
「あ~っ!おかえり、にこ!遅かったねえ~!」
夜の屋外だというのに声量に気を配らない茶髪の女は派手な化粧をしているが、寄る年波を化粧で覆い隠すことが出来ていない。中年といっても過言ではない年齢を迎えても尚、若さ漲る二十代の外見でいようとしていることが非常に痛々しいこの女を、にこは嫌というほど知っていた。
――この中年女の名前は、媚山
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