第13話 己の感情論を絶対の正論であると主張するヒトは妙に強い

 昼食の時間といえば、多くの場合は楽しいものである、という認識があるのではないだろうか。同僚や先輩・後輩、果ては親しい上司などと共に談笑しながら過ごしても良し。日々の仕事に打ち込んでいる自分へのご褒美として予算オーバーのランチを食べに行くのも良し。近くの公園のベンチに座って弁当を食べ、時間ぎりぎりまでゆっくりとした時間を過ごすのも良し。昼休みの過ごし方は、人それぞれだ。

 上司に辞表を叩きつけて退社するまでは、にこもそういった昼時を迎えていたものだと考えながら、パート先の工場の近くにある小さな公園のベンチに座って、梅干入りのおにぎりを食べている。質素すぎる昼飯でも腹は膨れるし、静かな時間を過ごせたのなら、午前中に溜まってしまった疲れ――肉体的・精神的共に――もとれて気分もスッキリ出来るはずなのだが――そうは問屋が卸さない。

 虚ろな目をしておにぎりを食べているにこの隣には、一人息子を溺愛してやまない中年女性のパートタイマー――にこ曰く、”親バカ松田”がどっかりと腰を下ろして、主婦業もこなしている証拠だとする昨夜の夕食の残り物を詰めた弁当を食べている。彼女は休憩時間が訪れる度ににこを拘束し、家庭の事情――主に息子の話をくどくどと聞かせてくれるのだ。にこは彼女に是非ともそうして欲しいと頼んだことがないのだが。


(一度で良いから、私じゃなくて別の人を捕獲してくれよ……)


 親バカ松田は以前に「私は誰とでも上手く付き合っていけるから」と豪語していたはずだが、その割にはにこ以外のパートタイマーに絡もうとはしない。作業班の自称ボス、マダム小坂とその舎弟たちのことは松田も避けているようなので無理だろうが、他にも大勢のパートタイマーが存在しており、彼女たちに親しげに声をかけているとこをは目にしたことはあるが、腕を掴んで引きずっていくところは目にしたことがない。

 そんな親バカ松田の目下の悩みはというと、受験勉強に本腰を入れていなくてはいけないはずの一人息子が毎日、深夜までカノジョとSNSを使用した電話をしているということ。カノジョと別れてくれないか、と、松田は言うが、にこはスマートフォンを取り上げてしまえば良いだけの話ではないかとしか思えない。因みににこが思ったことを実行しようかと思いはしたらしいのだが、スマートフォンを所持していないと息子が学校の友達から無視されてしまう原因になってしまうから、という謎の理由で止めたのだそうだ。解決する気のない問題の答えを見つけろ、と、強制されるのは非常に苦痛だが、にこがそう感じていることに松田は全く気がついていない。いや、他人に愚痴を聞かせていることでストレス解消をしているのかもしれない。

 大切で仕方がない一人息子にちょっかいを出している――と松田は思いこんでいる――カノジョへの悪口が漸く終わり、にこは徐に白いベルトの腕時計で時間を確認する。そろそろ工場に戻らなければならない時間になってきていると時計が知らせてくれていたので、にこは手早く片付けをして、「もう時間なので戻りますね」と松田に一言声をかけてから、工場へと戻っていく。その後ろに、親バカ松田が「媚山のくせに偉そうだなー」と訳の分からないことを言いながら付いて来る。

 こうして一時的に親バカ松田の拘束から解放されたのだが、苦難の時間はまだまだ終わらない。


(あーあ……憂鬱だわー……)


 ロッカーの中に荷物をしまい、にこは深い溜め息を吐く。すると「若いくせにへばってんじゃねーよ」と言って親バカ松田が彼女の背中を叩いてきて、引き摺るようにしてにこを作業場へと連行していった。


「あらあら、松田さんと”まこさん”は仲良しねえ。昼休みに入ると二人で直ぐに何処かに行ってしまって」

「いやいや、仲良しっていうほどじゃないですよ!こいつが一人で公園で御飯食べるのが寂しいって言うんで、態々付き合ってやってるんです!」

「ほほほ、松田さんの親切に感謝しなくてはね、”まこさん”」

「あー、はい、そうですね……」


 加齢で弛んできている瞼に青いアイシャドウをきっちりとつけているのが特徴の、マダム小坂。彼女は本気なのか故意なのか、にこの名前を間違える。因みに間違いのバリエーションは”あこさん”、”かこさん”、”きこさん”、”まこさん”、”りこさん”といった具合に豊富だ。


『あら、流行になっている”キラキラネーム”なのね』


 いつぞやかにテレビ番組で取り上げられたらしい言葉を覚えた御夫人方は、それに反感を持っているらしい。自己紹介した時の彼女たちの冷たい目を、にこは未だに覚えている。


(”にこ”だっつってんだろ、おばさん。いい加減に覚えてよね……ていうか、キラキラネームがお気に召さないって言うなら、苗字で呼んでくれ……。生まれる前にテレパシー使って親にキラキラネームを付けろって頼んでないんで、私に反感を持たれましてもね、困るっつーの……)


 ”にこ”程度で反感を持たれるのであれば、紅嶺愛くれあだの美瑠玖みるくだの天芙愛新てぃふぁにいだのと付けられてしまった人々はどうなってしまうのだろうか、などと考えて、にこはぞっとする。ゆるゆると頭を振って、想像した映像を払拭してから彼女は作業を再開する。

 マダム小坂主導で始められた本日の午後の議題は、パートタイマーたちの間でまことしやかに流れている噂についてだ。景気が上向いてきているからなのかどうかは分からないが、向上で取り扱っている部品の注文数が増えつつあるので、工場側は長時間働ける人材の確保を検討しているのだという。そこで、家庭の税金対策として就労時間を削って、収入の調整をしなくてはならないパートタイマーの数を削減し、新たにフルタイムで働けるパートタイマーの求人をしていくつもりなのだそうだ。

 そのような話が決まっているのだとしても、元々ロングパートタイマーとして雇われている人には余程のことをしない限りは大して関係のない話だが、夫が定年を迎えて常に在宅をしているショートパートタイマーの奥様方は自分の首が飛んでしまうのではないかと戦々恐々としているらしい。


「あんたは良いよねー、まだまだ若くてさー。職を失くしたとしても、若いっていうだけで直ぐに次の仕事が見つかるんだもん。こんなパートしなくたって、正社員で雇ってくれるところなんか沢山あるでしょうに。契約社員だって良いじゃん」


 と、親バカ松田が口を開いたことで、根も葉もない噂話に翻弄されている奥様方の八つ当たりの矛先がにこに集中し始める。


(松田のババア、余計なことをしやがって……。あのねぇ、私を辞めさせたところで、自分は首にならなくなる確率が上がるとか、そんなことないからね?)


 テレビを見ているから社会情勢には詳しいつもりの奥様方だが、今現在自分たちがやっていることが”いじめ”や”パワハラ”などに該当することに気が付いているのだろうか。恐らくは自分のやっていることをを正当化しているので、忠告をしたとしても、彼女たちは聞く耳を決して持たないだろう。

 二十三年という人生を歩んできただけの世間知らずの若輩者ではあるが、にこはそのことを経験で知っている。


(あーあ、あのおばさんを相手にしてるみたいで……腹が立ってくるわー……)


 子供を持つ母親であることよりも、一人の女であることを優先させていた実の母親もこんなような思考回路をしていたと思い出して、気分が頗る悪くなった。




 マダム小坂にほんの些細なことでも目くじらを立てられるようになってきた頃、親バカ松田が突然職場から去っていった。「媚山より年とってる分、次の仕事が見つかりにくいから絶対にこの仕事は辞めない」と言っていた人間がいともあっさりといなくなっていったので、にこは勿論、彼女に声をかけられたことがある他のパートタイマーたちも首を傾げていた。

 情報通のパートタイマーによると、正社員で雇ってくれるところが見つかったので、松田は其方の会社に乗り換えていったらしい。「こんな不景気なんだから、雇って貰えるだけ有難いと思いなよ、媚山ぁ」と人生の先輩風を吹かせていたのは一体誰だったのかと、にこは思わず嘲笑を浮かべてしまう。言うこととやることが違う、けれどもそれを指摘されても決して認めない。そういう人間ほど、口だけは無駄にたつ。そういう人間には出来るだけ関わらないでおこう、と、にこは改めて肝に銘じた。

 親バカ松田の思わぬ退職により、にこに心の平穏が訪れたかというと、そうでもない。ライバルが一人減りはしたが、マダム小坂たちの口撃は緩まない。つまるところ、クビの危機があろうがなかろうが、気に入らない存在を排除したいようだと気が付く。


(マダムの気に障るようなことをしちゃったんだろうね、知らないうちに)


 思い当たる節といえば、小金持ちだと噂されているマダム小坂の自慢話に食いつかなかったことくらいしかない。金持ち自慢をされても、身近にいる金持ちのお坊ちゃまと比較してしまい、マダムのセレブリティが貧相に思えてしまうのだ。それ故に「へー、そうなんですね」という返事をうっかりとしてしまい、にこはマダムの機嫌を損ねてしまったのだろう。


(そういえば槐は……金持ちであることを鼻にかけることはしないな……)


 ふとした拍子に格の違いとやらを見せつけられることはあっても、槐は貧乏人のにこに対して、成金親父のような横柄な態度は取らない。


(いやいや、あのお坊ちゃんは関係ないから。あーあ、何だかもう、どうでもいいわー……)


 親バカ松田から解放されても、悩みの種が尽きない。それならばいっそのこと、今の仕事を辞めてしまおうか。正社員の仕事が見つかるまでの繋ぎとして見つけた工場のパートタイマーだが、マダム小坂とその舎弟たちの口撃にじりじりと精神を病んでいきそうな恐怖があるので、続けていく意味を見出せない。幸いなことに、少しは金銭的余裕があるので、にこは理由を適用に見繕って、パートタイマーを辞めていった。いついつまでに仕事を辞める、と告げた時のマダム小坂たちの表情が嬉々としていたので、「自分たちの目論見が上手くいった、しめしめ」といった心境だったのだろうと想像してしまったのは、にこの被害妄想だろうか。


(はー、今日で此処とおさらばだー……)


 振り返ることもなく、数ヶ月間だけ仕事をしていた工場を後にしたにこは空を仰ぐ。気持ちとは裏腹に、天気が良い。何となく腹が立つ。

 それからは気を張ることがなくなったからか魂が抜けたように脱力してしまい、何もやる気が起きてはくれなかった。






**********





 狭い部屋の中、薄い布団を敷きっぱなしにして、一日の殆どの布団の上で過ごす自堕落な生活を送っていると、槐から「予定がないのなら、土曜日に会えますか?」とメールが来た。彼に会うのが億劫になったにこは「風邪を引いて寝込んでいるので無理です」と嘘を吐いて、彼の誘いを断ると、再び仰向けに寝転がる。その後で「あ、これって契約違反になるのかな?」と気が付いたが、返信メールの内容を訂正する気が起きなかったのでそのままにしてしまう。

 ――その日の夜。いつの間にか転寝をしてしまっていたにこは物音に反応して目を覚ました。ぼんやりとしながら体を起こして周囲を見渡すが、電気が点いていない上に目が暗闇に慣れていないので何も見えない。渋々起き上がって電気を点けると、自宅の扉が叩かれる音がした。


(隣のラクダくんにお客か?)


 然し、隣室のチャイムはちゃんと音が鳴る。扉が叩かれるということは、扉の向こうにいる誰かはにこに用事があるのだろうと推測される。


(大家さん?あれ、でも来月分の家賃はとっくに手渡しで渡したはずだけどな……?)


 その時にちゃんと金額も確かめたので間違ってはいないはずだが、と、不思議に思いながら、にこは玄関の扉を開けた。


「にこさん、体調はどう!?」

「はい?」


 扉を開けると同時に体を部屋の中に捻じ込んできたのは大家ではなく、槐だった。状況が把握出来ず唖然としているにこを余所に、どこか慌てた様子の槐が口を開く。


「風邪を引いて寝込んでいるとメールが来ていたから、必要な物を買い揃えて持ってきたんだ」


 槐がそう言うので視線を落としてみると、沢山の物が入っている大きなビニール袋が彼の両手に提げられていた。混乱した頭で一先ず槐を部屋に上げると、彼は袋の中身を卓袱台の上に並べだした。


「えぇと、熱冷まし用の冷却ジェルシートに、風邪薬に、使い捨てのマスクに栄養ドリンクでしょう。それから食欲があるようならと思って、レトルトのおかゆに、喉越しの良さそうなヨーグルトやゼリーを買ってきたのだけれど……足りるかな?」

「……よくもまあ、これだけのものを揃えて持ってきたね、あんた」


 にこが適当に吐いた嘘を真に受けた槐は手当たり次第に薬を持ってきたようで、多種多様な風邪薬の中に何故だか鼻炎用のカプセル剤や便秘薬が混ざっている。更によく見てみると栄養ドリンクの横には精力剤や蒼汁のパックが置かれており、冷却ジェルシートの向こう側に湿布が置かれている。


「起きていては駄目だよ、にこさん。ほら、寝て!熱は計ったの!?」

「うちには体温計がないので計ってない」

「え、ご、御免、そこまでは気が回らなくて……っ!急いで買ってくるから……っ!」

「いいよ、そんなことしなくて」

「でも……あ、そうだ、お医者さんには診てもらったの?薬は飲んだ?」

「いや、医者には診てもらってないよ。だって仮病だし」


 さらりと暴露すると、慌てていた槐が動きを止めて、やがて震えだす。にこが視線を上げると、彼の目はあっという間に潤み、留まりきれなくなった涙が決壊して、ぼろぼろと下に落ちていった。


「か、風邪をひいて寝込んでいなくて、良かったけれど……仮病を使ってまで会いたくないと思われているとは、思わなかった……」

「あー……あんたに会いたくないと思ったというか、会うのが面倒臭くなったというか……」

「……僕は面倒臭い存在ですか?」

「まあ、そうかもしれない」


 容赦の無い言葉をにこがうっかり漏らしてしまえば、槐の涙の量がみるみるうちに増えていく。


「僕に会うのが面倒なら、面倒だって正直に言ってくれて、構わないから、仮病を使ったりしないで。物凄く、心配、して……っ」

「……そこまで心配されるとは思ってもいなかったので」

「心配するよ!にこさんが一人で苦しんでるんじゃないかって思って、僕の助けは必要かって電話をしても、メールをしても全然返事がないから、若しかしたら部屋の中で倒れて動けなくなってるんじゃないかって、こ、怖くなって……っ」

「はあ……」


 枕元に置いてあった携帯電話を手に取り、着信履歴を見てみる。数回の電話の痕跡、にこの身を案じるメールが何通も送られてきていたことを、にこはやっと知る。


 ――えー、風邪ひいた?うーん、お医者さんに連れて行く暇ないのよね。大丈夫、寝てれば直ぐに治るから!ママはね、これからデートなの!若しかしたらにこの新しいパパになってくれるかもしれないから、ママを応援してね!


 ――おい、お前、風邪ひいたのか?俺は今大事な時期なんだよ、風邪を移されると困るんだよ!風邪を治すまで絶対に近寄るんじゃねえぞ!


 にこが酷い咳をしていようが、高熱で動けなくなっていようが、心配をしてくれるような人はいなかった。槐が演技をしているのではないかと強い猜疑心から疑いそうになるが、槐の性格からして、そのようなことは出来そうもないことをにこは知っている。

 槐の気遣いを疑ってしまったことが、恥ずかしく思えてきた。


「……悪かったよ、御免。心配してくれて……有難う」


 誰も自分のことなんて気にかけてくれない、都合の良い人間だとしか思ってくれないのだと悲観ばかりしてきた身なので、槐の心配振りは嬉しいというよりは何だかこそばゆく感じられる。世間知らずの純情なお坊ちゃまに対して悪いことをしてしまったと反省したにこは、ぼそりと謝罪と感謝の言葉を呟いた。


「……あ、いや、僕の方こそ、みっともないことを言ってしまって……御免なさい」

「何であんたが謝るの。……馬鹿だね」


 本当に馬鹿だね。と、悪態を吐いたにこは――珍しくはにかんだ。それを目にした槐が顔をほんのりと赤くしているのに気がつくと、あっという間に仏頂面に変えてしまったのだが。




「さて、と。就職活動に励みますかね」


 仮病なので看病は要らないです、と言って槐を追い返した次の日の朝は、久し振りに爽快な気分で目覚めることが出来た。昨日までの鬱屈とした気分は何処へやら、不思議なくらいにやる気が出てきたにこは早速、近くのコンビニに求人雑誌を買い求めに出かけていった。

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