第12話 六月十四日の気紛れ

 翌日の朝。

 少し目を腫らしている槐は元気な振りをして、にこの世話を焼いている。どんよりと沈んでいられるよりはマシだとは思うのだが、にこの目には槐の空元気な振る舞いが可哀想に見えてしまった。然しそれは気のせいだ、ということにして、にこはアメリカンブレックファーストという名称で呼ばれていた朝食を黙々と食べる。これはこれで美味しいのだが、正直に言えば和食が――米と味噌汁が食べたい。と、思ったことは決して口には出さない。




 今日もまた別のテーマパークにでも連行されるのだろうか、と、にこは危惧していた。だが槐が彼女を連れて行ったのはテーマパークではなく、アクセサリーショップだった。またしても用事のない場所に連れてこられたものだ、と、にこは顔を引き攣らせつつ、店内を見渡してみる。

 その店舗は若い女性が好みそうなデザインのアクセサリーを取り扱っているようで、簡単に手を出せそうな値段の物から、少し躊躇いが生じるくらいの物が取り揃えられており、高級な店舗のような得体の知れない入り辛さは感じられない。店内にはオシャレを楽しみたい十代後半から二十代、はては三十代も半ばといった年頃の女性客がいた。

 お金持ちという人種の人間が好みそうな国内や海外の高級ブランドジュエリーショップに連れてこられなかったことが意外でにこが唖然としていると、店内の女性客の視線を集めている槐が彼女に声をかけてきた。


「僕の我が儘に付き合って貰った御礼と言っては何なのだけれど……にこさんにアクセサリーを贈りたいと思っています。好きなものがあったら、遠慮なく言ってください」

「……そう言われても困るんだけど」


 店内に飾られている数々のアクセサリーはどれもこれも素敵なものばかりだと、にこは素直に思う。その反面、苦しい家計を省みずに母親が常にアクセサリーを買っては身に着けて男の気を引こうとしていたことから、彼女はそういったものを嫌悪の対象としても見てしまっているところがあった。

 そんなにこにとって、槐の申し出は有り難迷惑、と言っても過言ではない。それを口に出さない程度には、彼女は分別は弁えているつもりだ。


(買ってくれるって言うならさあ、包丁とか食器の方が良いわー)


 安物の包丁の切れ味が悪くなっているので、そろそろ新しい物に買い換えたいと思っていたところだ。普段使っている皿も小さな罅が入っていたので、それも欲しい。にこは必要だと思わない物よりも、必要な物が欲しい。正直に言って。けれども昨夜の出来事で槐を泣かせてしまったので、何となく居心地が悪いような気もするにこは彼の機嫌をとっておきたいとも考えている。


(生活する上で必要そうな物……あるのか、この店の中に?)


 イヤリングはしない。ピアスも、そもそも穴を開けていないのでつけることは出来ない。ネックレスもペンダントもブレスレットも一応は所持しているが常に身に着けるとことはしない、何だか邪魔臭いので。指輪など、絶対にしない。どの品物であれば己を納得させることが出来るのかと、にこは真剣に考える。


(……僕はまた余計なことをしてしまったのかな)


 眉間に皺を寄せて、睨みつけるようにしてアクセサリーを眺めているにこを見つめながら、槐は考える。我が儘に付き合って貰った礼にと前置きをしたが、本音を言えば、自分が贈ったアクセサリーを身につけて欲しいという思いからだった。兄の梓は妻の綏乃によく贈り物をしていて、彼女に喜ばれているらしい。母親からそう聞いた槐は、同じようにしたらにこが喜んでくれるかもしれないと期待していた。

 だが、にこのことを思って取った槐の行動は裏目に出ることが多い。今回もまた、そのようになったのかもしれないと、自分の要領の悪さに打ちひしがれていると、彼女が急に振り返り、表情を曇らせている槐を見上げてきた。


「これ、買って貰っても良い?」


 にこが指差したのは、シンプルなデザインの腕時計だ。彼女がネックレスやブレスレットなどではなく、白色のベルトが付いた腕時計を選んでくるとは想像もしていなかった槐は呆気にとられる。にこは店内にある品物の中で最も使う可能性が高い物を選んだのだが、槐にはそれが予想外だったようだ。


「……指環ではなくて良いの?」


 出来れば指環を選んで欲しかった、という槐の思いがうっかり口を突いて出てしまう。恐る恐る目を向ければ、それを耳にして一気に不機嫌な表情になったにこが見えて、槐の肝が冷える。


「はあ?好きな物を選べって言ったのはあんたでしょうが。何?文句があんの?買うものが決まってんだったら最初に言えよ……」

「あ……っ、違うんだ、御免なさい。文句がある訳ではなくて……っ。その腕時計で良いの?」

「そうだって言いましたけど?」


 言い訳を聞く気が起きなかったにこは慌てふためいている槐を無視して、近くにいた店員に声をかけて、品物の会計をしてもらう。彼女にとっては高級品だが、槐にとっては安物だろうという値段の腕時計の支払いは、言いだしっぺである槐がする。彼は現金ではなくカードで支払いを済ませるようで、上質の革財布の中からゴールドカードを取り出していた。その際に財布の中から何かが落ちていったのが見えたので、にこは徐にそれを拾い上げる。床に落ちたのは、槐の運転免許証だった。


(はいはい、顔の良い奴は写真写りも最高ですよっと……)


 個人情報の塊とも言える代物を拾った者の特権であるとして、断りもなく勝手にじろじろと見る。そしてにこはある欄を目にして、ふと気が付いた。


「どうかしたの、にこさん?」


 支払いを済ませた槐に声をかけられて、にこははっと我に返り、手にしていた運転免許証を急いで彼に差し出す。


「免許証を落としましたよ、お坊ちゃん」

「え?ああ、本当だ……。拾ってくれて有難う、にこさん」


 渡されたものを財布の中にしまいながら槐はにこに「他に行きたい場所はある?」と尋ね、彼女は「そんな場所はない」と即答される。がっくりと頭を垂れて悄気た槐の背中を眺めていたにこは、ふっとあることを思いついた。


「ケーキ食べたい」


 小腹が空いたので甘いものが食べたいと、彼女は宣った。槐がスマートフォンを利用して検索をしたところ、彼が暮らしているマンションに向かう途中に洋菓子店があるようなので、其方に寄っていくことが決定する。

 そして車で移動をして目的の洋菓子店に到着すると、にこは槐を置いて店の中に入っていってしまった。にこ曰く、「じっくりとケーキを選びたい。槐が横にいると気が散るから付いて来るな」とのこと。ぐっさりと釘を刺されてしまった槐は主人の帰りを待つ犬のように、車の中で大人しく待機している。


(……迷っているのかな?)


 スマートフォンの画面を見て、槐は時間の経過を確認する。にこが洋菓子店に入っていってから、三十分近くが経過していることを知った。駐車場からは店内の様子は見えないが、出入りする人の姿は見える。何人かが出入りをしているが、その中ににこの姿はない。

 レジが混んでいるのだろうか、ともするとまだ時間がかかるのだろうか。それならば目を閉じて、休んでいよう。槐は深い息を吐いて、ハンドルに凭れかかるようにうつ伏せる。

 すると不意に、車のガラスが叩かれる音がした。槐がゆっくりと顔を上げて其方へと顔を向けると、助手席の窓ガラスの向こう側からにこが此方を覗き込んでいるのが見えたので、槐は慌てて車の鍵を開ける。ドアを開けて助手席に乗り込んだにこは胡乱気な表情で、槐を見つめてきたので、彼はどきっとする。


「御免ね、戻って来ていたのに気がつかなくて……」

「あんた、体調でも悪いの?そうなら運転変わるよ?ペーパードライバーだから、道中怖い思いをする可能性が高いけど」


 槐がハンドルに凭れていたので、彼女はそれは体調が優れないからだと判断したらしい。にこに心配をしてもらえたことが嬉しくて、槐は頬を淡く染めて、にっこりと微笑んだ。


「ううん、思っていたよりも時間がかかっているみたいだから、待っているうちに眠たくなってきて……。体調は悪くないよ。心配してくれて有難う」

「体調不良による判断ミスで交通事故を起こされちゃかなわないから言っただけなんで。あんたの心配はしていない、これっぽっちも」

「……そう」


 上向いた気持ちが下を向きかけたが、槐は何とか持ちこたえて、車を発進させた。






**********






 槐が住んでいるマンションへとやって来るなり、にこは荷物を槐に任せてキッチンへと引き篭もってしまった。買ってきたケーキを早速食べるのだろうなと想像して槐は笑い、放って置かれている荷物の片づけをする。暫しの間そうしていると自分の名前を呼ぶ彼女の声が聞こえてきたので、彼は一旦手を止めて、寝室からリビングの方へと向かう。

 いつの間にやらキッチンから出てきていたにこはダイニングテーブルの側に佇んでいた。食卓の上にはケーキ皿やフォーク、そして小さめではあるがホールのショートケーキが置かれている。若しかして、あれの殆どをにこが一人で食べるつもりなのだろうかと想像して動揺した槐に、仏頂面をした彼女は尋ねてきた。


「ねえ、ライターか何か……火をつけるものは持ってる?」

「ライター……?うん、持っているよ。待っていて、直ぐに取って来るね」


 アロマキャンドルやお香に火をつける時に使おうとして、使い捨てのライターを購入していたことを瞬時に思い出した槐はもう一度寝室に向かい、サイドチェストの引き出しにしまっていたそれを取って来る。


「これで良いかな?」

「はい、大変結構で御座います」


 使い捨てのライターを差し出すと、にこはすっと受け取り、くるりと体の向きを変える。後ろ手に隠していたらしい数字の1と2の形をしたカラフルな蝋燭をホールのケーキに突き刺して、火をつける。両手でケーキを持ち上げると、彼女は抑揚の無い声で誕生日を祝う歌を歌いながら、ゆっくりと振り向いた。


「御誕生日おめでとう御座います、槐お坊ちゃま。えーと、私が今年で二十四歳になるから、お坊ちゃまは二十一歳になったんだっけ……?」

「……え?」

「融けた蝋燭がケーキの上に垂れる。早く火を吹き消してよ」

「は、はいっ」


 促された通りに蝋燭の火を吹き消すと、にこは一度ケーキを食卓の上に置いて、自由になった手で拍手をした。


「……にこさん、僕の誕生日を……覚えていてくれたの?」


 今日――六月十四日は二連木槐の誕生日だ。そのことを把握していなければ、にこはこのようなことはしていない。再会した時に槐の顔を覚えていなかったにこだが、誕生日のことは覚えていてくれたのか、思い出してくれたのかと彼の胸が期待で弾む。


「あんたの免許証を拾った時に生年月日を見て、今日の日付を思い出したから。覚えていたっていう訳でも何でもないんで。でもまあ……時給を払って頂いている身ですからね、これくらいのサービスは致しますよ」


 ケーキ代と蝋燭代は経費として請求したりはしませんので、と続けようとしたが、槐にきつく抱きしめられ、ついでに唇も奪われてしまったので、それは叶わなかった。


「有難う、にこさん。嬉しい、物凄く嬉しい……っ」

「はあ、喜んで頂けたらな何よりです。苦しい、早く離れろ、金持ち」


 御願いをしなくても、命令なんてしなくても、にこが進んで行動を起こしてくれたことが何よりも嬉しい。それだけで薔薇色の喜びが槐の胸の内に広がり、悪態を吐かれても気にならない。

 腹が減っているので早くケーキが食べたいのだと言って、にこは力尽くで槐の腕の中から抜け出し、蝋燭を取り払ったケーキを切り分ける。視線を返す際に頬を染めてはにかんでいる槐の表情が見えたが、見ていない振りをするのを忘れずに。


「僕も……にこさんの誕生日の御祝いをするね」


 八等分に切り分けたケーキを一片を皿に載せて槐の前に出すと、唐突に彼が呟いたので、にこは目を丸くする。


「は?あんた、私の誕生日なんて知ってんの?」

「知っているよ、毎年お祝いしていたから。にこさんの誕生日は十月十三日だ。そうでしょう?」


 大好きな人の誕生日を忘れるはずがないと誇らしげに宣う槐を無視して、にこは記憶を手繰り寄せる作業に入る。


(あー、そういえばそうだったわ。何でか毎年祝われて、プレゼントを貰ってたわ……。私は槐にプレゼントなんてあげたことないけど。他人にプレゼントをあげられるような経済状況じゃなかったからねー……)


 槐からのプレゼントは決まって、御菓子の詰め合わせだった。色気より食い気が勝っていると思われていたのだから仕方がないかと思い返して、苦笑を浮かべる。それを目にしたらしい槐が微笑んだので、にこは急に顰めっ面になる。


「あんたさぁ、どうして今日が誕生日だってことを言わなかったの?言ってくれれば、もっとちゃんと祝いましたけど。プレゼントはまあ……あんたが気に入るようなものが全く分からないし、懐も寒いから、無理なんだけど」


 誕生日祝いでホテルにお泊りデートに付き合って、と一言あれば、それなりの対応はした。何せにこは、時給を払って頂いている身の上なので。すると槐は照れ臭そうにはにかんで、目を伏せた。


「強制はしたくなかったから、言えなかったんだ。それでもにこさんと一緒に誕生日を過ごす時間が欲しくて、一泊のデートに誘ったのだけれど……」

「ふうん、自己満足で済ますつもりだったってことね。それは良かったですね、おめでとう御座います。自分の誕生日なのに経費は全部自分持ちとか、お金持ち様は太っ腹ですね。理解出来ない」

「……御免なさい、にこさんを信用していないという訳ではなくて……っ」

「それ以上は結構です。ケーキが不味くなる」

「……御免なさい」


 誕生日がやって来た人間は、その日の主役だ。主役は主役らしく、偉そうにふんぞり返っていろと思いながら、にこは大口を開けて、ケーキを頬張る。がつがつと餓鬼のようにケーキを食べていると、恐縮している槐が「ケーキと蝋燭の代金を支払うので、レシートをください」と槐が申し出てきたが、にこは断った。確かに金に五月蠅い自覚はあるが、そこまではがめつくないという自覚もあるのだ。


「御祝いをしてくれて有難う、にこさん」

「……はいはい」


 御機嫌取りの言葉がそれってどうなの?もう少し気の利いた台詞を吐けよ。と思いはしたものの、これ以上険悪な空気にするのも美味しいケーキに申し訳ないとも思ったので、にこは適当に流しておいた。

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