第14話 タダ働きではない家政婦は受け付けております
蝉の鳴き声が日に日に騒がしくなっていき、容赦無く照りつけてくる太陽光線の威力の高さに聊か文句を言いたくなってくる。じりじりと肌を焼く夏の暑さに、一つくらいは安物の帽子を買っておけば良かったと、にこは多少の後悔をする。だらだらと流れてくる汗をハンドタオルで拭いながら、人通りがそれなりにある歩道を歩いていると、マナーモードにしてある携帯電話が使い古したトートバッグの中で存在を主張し始めた。携帯電話を取り出して確認すると、画面に”面接先”と表示されていたので、にこは小さく息を吐いてから電話に出た。
「はい、媚山です」
通行人の邪魔にならないようにと歩道の片隅へと移動して立ち止まり、電話に集中する。ややあってから通話を終らせたにこは行儀悪く舌打ちをして、少々乱暴に携帯電話を再びバッグに放り込んだ。
電話の相手は、つい昨日、アルバイトの面接に向かったホームセンターの店長だった。内容は勿論、雇用の合否についてで、にこは不合格だとあっさりと告げられた。
(履歴書を店まで取りに来いって……凄いな、あのおっさん)
個人情報の取り扱いに厳しくなっている世の中であるので、雇用する側が履歴書の処分の方法に気を遣うのは理解出来る。雇用を見送った人物の履歴書をシュレッダーを使って処分したり、封筒と切手代を支払って郵送したりと方法はそれなりにあるはずだが――自分で履歴書を取りに来い、と言われたのは初めてで、にこはあまりのことに驚いて、通話中に思わず「は?」と言ってしまった。彼女のその反応を、履歴書の引取りを拒否していると受け取ったらしい店長が「では此方で処分しても良いんですね?」と実に嫌そうに申し出てきたので、腹の立ったにこは「本日中に取りに行きます」と言い返していた。
(最初に電話した時から完全に人のことを小馬鹿にしてたからな、あのおっさん)
やる気を出して就職活動に励んでいたのだが、なかなか上手くいかず、履歴書の消費が思っていたよりも激しくて、気がつけば無くなってしまっていた。そこで最寄のホームセンターに履歴書をまとめ買いしに行き、求人の看板が出入り口に立てられているのを見つけた。物は試し、とばかりに電話をしてみた訳なのだが――まずそこからケチがついていたとしか言えない。
『もう求人は締め切ってるんですけどねえ』
それならばどうして求人の看板をしまっておかないのか、と、突っ込みたかったが、呆れて物が言えなくなっているにこを余所に、かったるそうな口調をしている店長は「電話してきちゃったのは仕方が無いから面接してあげるよ」と嫌味ったらしく申し出てきた。その時点で断っておけば良かったのだが、就職先が見つからない不安と焦りから、ついうっかり「御願いします」と言ってしまったのだ。
そうして面接を受けると、五十代くらいに見える男性の店長は終始にこを馬鹿にした様子で適当な質問をしてくる。隣で補佐をしてた若い男性が気まずそうな表情をするくらいの酷い態度だ。返答に困ったのは「本気でお客様を怒れますか!?」という謎の質問で、「先ずは面接に来た人を舐めくさってるテメエにキレたいよ」と口に出しそうになるのをぐっと堪えて、努めて冷静に「その時の状況によると思います」とにこが答えると、店長が鼻で笑ってきた。
――失礼極まりないおっさんだな。こんな奴の下で働いたら神経をやられるのは間違いない。ていうか、こんな奴を店長にしてしまう店舗側もどうかしてる。やばい。
と直感で思ったので、不合格の通知を受けても不都合は無い。自分が優位に立てる状況で他人を見下すような輩に、個人情報が満載の履歴書の処分は絶対に任せられないので、あの物言いには物凄く腹が立つが、意地でも取りに行ってやる。その際には必ず、何店舗か展開しているホームセンターのホームページから苦情を入れてやる。補佐の男性は免除するが、店長の名前と店舗名は絶対に記載してやる、と、ぶつぶつ言いながら歩いているうちに、にこは槐が住んでいるマンションの前までやって来ていた。
マンションの入り口を潜り抜けて、エントランスへをやって来たにこ。これまでは受け付けに常駐しているコンシェルジュに槐の在宅を伺っていたのだが、それはせずに会釈をしながら彼らの前を通り過ぎ、奥にあるエレベーターで目的の階まで移動する。
槐の自宅の前に立ったにこは迷うことなくバッグから鍵を取り出して、扉を開けた。どうして彼女が合鍵を所持しているのかというと、勿論、理由がある。にこが仮病を使い、それを心配した槐が大騒ぎをした夜から暫くした或る日、槐が突然にこに合鍵を渡してきたからだ。
『いつか渡そうと思っていたのだけれど、なかなか切欠が掴めなくて……。何かあってもなくても、好きな時に僕の部屋に来て……寛いでくれて構わないから……』
爽やかな笑みを湛えて槐が宣い、にこは思いきり疑いの目を向けた。こいつは何か良からぬことを企んでいるに違いない、と。
『あんたの家、家政婦がいるでしょうが。私、タダ働きの家政婦をする気は無いんで』
男が女に自宅の合鍵を渡す。それはつまり、ラブホテル代を浮かせたい、時給を支払わなくて良い家政婦を確保したいという願望の現れである。と、にこは誤解している。彼女が誤解するのも無理はない。逆玉に乗った前の男が同じことをして、そんなことを堂々と主張したからだ。
『いや、そんなつもりは全く無いよ……!』
にこが猜疑心丸出しの目で睨むと、槐は慌てて弁解を始めた。その焦り具合を一部始終白眼視して漸く槐に他意は無かったのだと認めたにこは、顔を青くしている槐に謝罪して、合鍵を受け取った。これから夏の暑さにやられる日々がやって来るのは明白。寛いでくれて構わないと槐が言っているのだから、ここは有難く、冷房代を節約させて貰おうとにこは企む。
『……まあ、正直に言うと、家政婦として雇って貰えると有難いんだけどね……』
正社員はもとより、契約社員、パートタイマー、アルバイトの募集に幾つも応募してみたのだが、面接までは簡単にこぎつけても、そこから先には繋がってくれない。そのことで落ち込みかけているにこが溜め息混じりに漏らした小さな呟きを――槐は聞き逃さなかった。
『それでは、家政婦の仕事を御願いしても良いかな?タダ働きは絶対にさせませんので、安心してください』
『へ?』
何でも、槐の実家から派遣されていた古株の家政婦がぎっくり腰になってしまったらしい。いつまでも家政婦頼りの生活をしていては自立に繋がらないとして、丁度良い機会だからと、槐は一週間ほど前から自分で家事をしていたらしい。
『次の職が決まるまでの間で良いなら、是非とも雇ってください』
槐の自立の手伝いをするよりも、にこは安定した自分の生活をとった。然し、にこは家事のプロフェッショナルではない。それなのに時給1500円の恋人業と同額を頂くのは気が引けたので、最低賃金で雇って貰うことにしたのだった。
臨時の家政婦となったにこは全ての部屋を覗き見て、家主である槐が不在であるかどうかと確認する。長い夏休みに入ったらしい大学生の槐は朝から不在にしていることがあり、出かけていると夜遅くに帰宅することも屡のようだ。「何かしてるの?」とにこが尋ねてみても、「うん、ちょっとね……」と言うだけで槐はあからさまに目を逸らして誤魔化す。長期の休みということでお気楽な金持ちのお坊ちゃんらしく毎日遊び呆けているのか、若しくは”本命のカノジョ”でも出来たのか。後者の方を想像して苛立ったにこはそれを紛らわせようとして、先ずは洗濯物から取り掛かる。
一人暮らしの青年が一日に出す洗濯物の量は大して多くは無い。そこで、にこはこっそりと自分の洗濯物を持ってきて、彼の衣類と共に乾燥機付きの洗濯機に放り込んでいる。我ながらせこい、と思いつつ堂々とやっている。洗濯機を回している間にキッチンへと移動し、流し台に置かれている使用済みの食器を食器洗い機に入れて、スイッチを入れて、部屋の掃除に取り掛かっていく。
槐は物を散らかすことは無いので掃除は楽そうだとにこは思っていたのだが、実際にやってみるとそうでもない。目を凝らして見てみると家具の上には埃が微かについているし、重たくて動かし辛いソファの下や、見逃してしまいがちな壁と家具の隙間などには埃がぼちぼち溜まってしまっている。
(三日前に掃除したばかりなのに、もうこうなるのか。埃なんて舞ってなさそうな部屋だってのに……一体何処から落ちてくるんだか……)
完璧な家事は出来ないだろうが、持てる力を持って家事に励み、給料を貰う。根が生真面目なにこは自分の家の掃除よりも遥かに丁寧に、槐の自宅の掃除をする。リビングの掃除を終えたところで洗濯機が止まっていたことに気が付いたのでベランダに洗濯物を丁寧に干し、それからその他の部屋の掃除もする。掃除が終わると彼女は再びキッチンへと赴き、とっくの昔に洗い終わっていたらしい食器を洗い機の中から取り出して、食器棚にしまう。
(さて、洗濯物が乾くまでの間に……履歴書を取りに行きますかね)
正直に言って気が乗らないが、それをしなければ余計に面倒なことになるような予感がびしびしする。彼女は重い足取りで例の店長がいるホームセンターへと向かっていき――物凄く後悔した。
「昨日アルバイトの面接をして頂いた媚山です。履歴書を受け取りに参りました」
とサービスカウンターにいる女性店員に申し出たら直ぐに履歴書を返却して貰えるだろうと期待したのだが、長々と待たされた上に例の店長にぐちゃぐちゃと嫌味を言われながらの返却となったので、にこは至極不機嫌な状態で槐の自宅へと戻ってきた。その頃には洗濯物もしっかりと乾いていたので、取り込んで、畳んでいく。雇い主の槐の分は丁寧に畳んだが、自分の分は怒りに任せて適当に丸めてトートバッグの中に放り込んだ。
「……眠い」
給料の為に家事に真剣に取り組んだ+あのおっさんのせいで神経を磨り減らした=物凄く疲れた。座り心地の良いソファに腰を下ろして、背を凭れて虚空を仰ぐと、にこは異様な眠気に襲われる。立ち上がる気力も湧き上がらないので少しだけ眠って、それから帰宅しよう。
そうと決めて、程好い硬さのクッションを枕にして目を閉じると、あっという間ににこは眠ってしまった。暫くすると鼾をかき始めたので、彼女が思っている以上に心身ともに疲れていたのだろう。
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